2006/10/5
深夜3時半、ヨハネスと私は京都の街を南北に流れる鴨川河畔で野宿する場所を探していた。彼方の空には、青白く細長い三日月が浮かんでいる。残暑の厳しい9月に入ったばかりだった。しかし、さすがに深夜の京都には昼間の焼け付くような暑さはない。
我々の住む鎌倉から京都まで、500キロ余りを昨日の昼から13時間かけて車で走りきった。馬鹿げたことだが高速は一切使わなかった。やっと、目的地に着いたという安堵感と究極に達した疲労が入り混じった不思議な感覚の中にいた。
京都北部の高野川、鴨川という二つの川に挟み込まれた扇形の地形の中へ車を進めた。葵橋、御影橋、出雲路橋、北大路橋という美しい名の橋が周辺にずらりと並んでいる。岸の近くは広く平らで、我々が一晩を明かすには悪くはない。しかし、深夜の京都には車が多い。その騒音は眠るにはふさわしくなかった。
人一倍背の高いヨハネスが、身を屈めて堤防から橋の下を覗き込んだ。北大路橋の下には、数人の浮浪者が固まって雑魚寝している。私は彼らと一緒に寝てもいいと思った。
だが、ヨハネスは北の方角を差し、
「ゲン、山の方角へ行きましょう」
と、言った。彼はドイツ人である。日本へ来て2年半になるが日本語が十分には話せない。英語は流暢である。私はドイツ語が話せず、多少の英語なら理解できる。つまり、我々が旅で話すときには英語になっていた。
私が、彼の住む鎌倉の山の麓の隣の家へ引っ越して以来、3ヶ月余りになる。短い間に我々は急速に親しさを増した。彼は木彫家だが、芸術家である以上に道を求める宗教的な人だった。日曜の夜には、彼が私の家を訪れて二人で数時間瞑想していた。蝋燭の灯りの中で座禅を組み、その後、彼の祖国のドイツやブルガリアの歌を歌うという単純な瞑想だった。彼は音感の勝れた人で、ブルガリアの旋律は私が最も好きな歌だった。外で仕事をする私にとっては、一週間に一度の静かな時間が彼と共に流れた。鎌倉で住み始めた意味は、ヨハネスとの日々にある・・・私はそんなふうにも思っていた。
先週だった。夏の終わりと共に4日間の連続の休みが取れた。、私はいつものように一人で京都への旅に出ると彼に告げた。京都には、少し長い休みが取れると、好きな寺を訪ねるためにしばしば訪れていた。
昨日になって、出発直前の私に彼は一緒に京都へ行きたいと言いだした。しかも、車で行こうという。ヨハネスは運転が出来ない。私の車は小さな軽自動車である。しかも、何と彼は高速道路は使いたくない、さらには全部野宿で行きたいという・・・・。
しばし、躊躇した。いつものように新幹線に乗れば、たった2.3時間で着く。渋滞やさらには全部自分で運転し、高速は使わない・・。どう見ても時代錯誤である。しかし、彼と旅をする機会はいままでは一度もなかった。幸い、私にとっても珍しく4日間の休みである。行こう、どうにかなると思った。
とにかく、小さな車に食料、テント、炊事用具などを積み込んだ。陽光にきらめく湘南の海を左手に見ながら、小さな車に二人で乗り込んで出発した。
(続く)

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投稿者: artstudio
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投稿者:bluestar
横レスごめんなさい。
私も、大船の「芸術館」へ2年前<伊藤恵ピアノリサイタル>を聞きに行ったことあります。サロンコンサート風な開場でした。
玄柊さんそうです 古い鎌倉女学院隣の公民館を閉鎖してこちらを公民館に致しました。2階のホールが少し狭いので 大船に芸術館が完成してからは生涯学習センターとして 地下ギャラリーと2Fホールに3F会議室を展示会や各種研修会 音楽会やコーラスの発表会等に利用出来るように改称されました。
鎌倉・深沢・大船・玉縄と4箇所に有り市民の教養と生きがいを育んでいます。
昨日最終日の講演会をもって「いのちと平和の大切さを考える市民の集い」を成功裏に終える事が出来ました。
投稿者:artstudio
あいこさん、読んで頂いてありがとうございます。大巧寺のあたりよく知っています。写真展忙しいようですね。我々の住まいは、まさに祇園山の麓、大宝寺の横の坂を上がったところでした。5軒の家が建っていました。その内の、2軒が私とヨハネス夫妻でした。もうその2軒も違う人が住んでいることでしょう。他の人々にもいろいろな変化があると思います。時が過ぎると、人は同じ所にとどまってはいられません。
http://northland-art-studio.web.infoseek.co.jp
現在のように道の駅もまだない頃の話ですね ヨハネスさんとの道中はこれからどのように展開するのか 楽しみに拝見させて頂きましょう。 昨日鎌倉駅前段かずらの信号を渡った大巧寺さんと郵便局の隣りの生涯学習センターで 今日から開かれる平和メッセージと写真展の会場整備に一日缶詰になっていました。玄柊さん達のお住まいだった大町は更に裏手の祇園山の麓だったのですね。