
民主主義――それは暴力によらない意思決定のシステムとして人間が生み出したものである。英国のチャーチル首相は1947年11月の英国議会において民主主義を「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と演説したことで知られている。
今夏の日本は、この民主主義というシステムを使った合戦の真っ只中にある。政権死守を目指す自公連立政権と政権奪取を目指す民主党他野党による天下分け目の衆議院議員選挙である。もっとも、それは本日の分析のテーマではない。今夏、「合戦」より無骨に「戦争」と表現したアニメーション映画が劇場で人気を博している。「時をかける少女」で日本アカデミー賞に輝いた細田守監督の最新作「サマーウォーズ」である。この映画のテーマは幾つか存在しているが、映画総論については後日「キネマ雑記」において分析することとして今回は「日本破断界」にふさわしい側面として「戦争」、「家族」、「公」の三つの観点から分析を行うこととしたい。
戦後の日本の夏において「戦争」は夏と不可分の存在となっている。特に8月は8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日、そして8月15日の終戦の日へと太平洋戦争の終局へ向かう出来事が次々と起きた時期であるからだ。そうであるからこそ、多くのテレビ局や新聞社は戦争に関する特集を組み、戦争に関連する映画等が公開されてきた。この夏と戦争という我々が所与のものとして受け入れている現実が、「お盆」という日本古来の風習と関連していると喝破したのが佐藤卓巳の「八月十五日の神話」(筑摩書房、新書、2005)である。その喝破があったとしても、我々が夏と戦争の等式を所与のものとして文化的に受け入れ生活に組み入れている現実は変わりない。その無意識的に定着した夏と戦争の等式がこの映画のタイトル「サマーウォーズ」であるとも言えるのだ。
もっともこの映画で描かれる戦争はあの過去の戦争ではない。戦後64年を経過した現在、太平洋戦争或いはそこへつながった戦争を現実として認識している世代は少数派である。戦後生まれの世代も社会から退役していくと言う時代において、夏と戦争の等式における戦争が太平洋戦争を意味する必然性は薄れつつある。そうでなければこの映画における「新しい戦争」であるというキャッチコピーは成立しない。何よりも映画の中で戦われる「OZ」上のヴァーチャルな戦争(或いは合戦)において人は死なない。つまり、人は死なない、悲劇的な戦争は新しい世代において理解されることはなくなっているが、夏と戦争の等式は記憶され続けなければならないという日本人に刷り込まれた何かがこの「サマーウォーズ」におけるテーマの日一つを構築させていると言えるだろう。
第二のテーマである家族の復権。これは第三のテーマと関係しているが、極めて興味深いテーマである。戦後日本人が追及したものは「集団」よりも「個人」であり、その端的な例が「家族」制度の破壊であった。無論、現在においても「家族」制度は完全に破壊された訳ではない。お盆や年末年始における「帰省、Uターンラッシュ」という報道や結婚が家族単位(家)で行われる現実はその断片を示している。しかし、戦後の相続制度の変化(家督相続の廃止)は社会に急速に核家族化を進めた。これは極めて下賤な見方であるが、誰もが公平に遺産を相続出来るのであれば家族と言う集合体であるよりも私を追求可能な個人である方が合理的に利益に適うからに他無いからだろう(家族で補完しあっても、しなくても貰える割合に変化は無いのだ)。しかしながら、現在になって「家族」そして「大家族」が復権しつつあるのはどうしてであろうか。それは個人の追及がもはや破断界に達したからと想像出来る。個人の追及は社会・経済が右肩上がりの時代であれば容易に可能であった。それは個人のパイが着実に増えて行くからである。しかし、社会・経済が縮小傾向に入った日本の現況では個人の追及とは自らのパイに直撃する。この直撃を回避する手段が集団化による無駄の回避である。新聞等でも取り上げられているが、二世帯住宅の増加や親世帯との所得の合算化等は縮小するパイを集団化することで維持しようとする試みに他ならない。「サマーウォーズ」に描かれる大家族は、10年前であれば昭和へのノスタルジーで済まされたであろう。この映画を見ても郷愁感は見るものに伝わってくる。しかしながら、実際はその大家族を我々が郷愁感以上に受け入れる潜在的素地が日本人の中に出来上がりつつあるが故に、アニメーションという素材を使って「サマーウォーズ」を展開出来るようになったと考えられる(潜在的素地がまだ薄かった2005年の映画「ALWAYS三丁目の夕日」は昭和へのノスタルジーで終わっている)。少子高齢化、パイの縮小が進む日本において家族、何よりも大家族は新しいテーマとしてこれからも一層取り上げられるようになるであろう。
第三のテーマである「公」は、この「家族」と似た部分である。「サマーウォーズ」に登場してくる登場人物は警察官や自衛官、消防士、地方公務員等「公」に関与している人物が多いのも特徴である。これら「公」は戦後の日本において「個人」が拡大していくと共に相対的に軽んじられてきた部分でもある。この軽んじられてきたものはある意味で止む得ないものであった。「陛下の赤子」と言われ戦争に突き進み全てを帝国のために投げ出し、それが戦後「無意味」であったと否定されたとあらばそれを推進した「公」への信頼感が低下するのは容易に理解出来る。しかし、一方で「公」が戦後日本において常に日本人に意識され続けていたことも間違いが無い。さもなければ日本がここまで経済政策を成し遂げることは出来なかった筈だからだ。日本の戦後経済成長の本質が総力戦体制による「統制経済」であったことを現在では疑うものは少ない。しかし、このアンビバレンツな感情が日本人の「公」の感覚を歪めている。今次の衆議院選挙においてほぼ全ての政党が国家公務員定数の削減や天下りの廃止をマニフェストに掲げている。しかし、その半面で各政党が官僚を頼りその権限を拡大させるような「バラマキ」型の政策を提示しているのである。
以前、小生は郵政民営化がもたらす「公」の縮減と政治的権威の低下を提起したことがあるが(経済的側面での批判ではない)、今般、郵政民営化を見直す意見が野党を中心に提起されが再度「公」への回帰を目指す動きが出ている中において「公」を「サマーウォーズ」が描きだした事は現在の日本が抱える問題点を抉り出しているとも言えるのではないだろうか。
「サマーウォーズ」の舞台は2010年の長野県である。つまり我々の住む時代よりも1年先を描いている訳である。小生に言わせて頂けるならば、より「破断」が進んだ日本の情景である。2010年の「サマーウォーズ」が描く合戦の前に、我々は衆議院選挙という民主主義の「合戦」が待ち構えている。この映画が描く「新しい戦争」はヴァーチャルな戦争であるが、我々の眼前の選挙は我々の生活にリアルに影響を与え未来をも左右する。「破断界」を超えた日本に方向性を決める選挙は必ずしも「サマーウォーズ」と名付けられるほど甘いものではない。

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