2009/4/20

儒教とは何か 書評 浅野裕一『孔子神話』・『儒教 ルサンチマンの宗教』  評論

 「儒教(儒学)とは何か」という問いに対して、現代においては「儒」という字の古くから(孔子以前)の意味に着目して論を展開していくという叙述スタイルがある(注1)。
 これに対して、本書(以下『孔子神話』を「神話」と呼び、『儒教 ルサンチマンの宗教』を「新書版」と呼び、特に区別しない時は「本書」と記す)は孔子思想を出発点として後世への儒教(注2)の展開について述べている。従って著者にとっては儒教とは「孔子教」に他ならないのだが、本書の特徴は「ルサンチマン」という概念を軸にして「孔子教史」を論じているところであろう。著者は孔子を王位(天子位)に就く欲望を秘めた野心家(ペテン師)と見做し、その後学についても「天子としての孔子」を何とか時の王侯に認めさせようとして不断の(世を欺く)努力をした存在と見做している。
 なお本書で論じられている孝経論や中庸論、あるいは各王朝における孔子への「待遇」については各研究者のそれぞれの専論において取り上げられればよいし、またそうされているから、本稿では儒教という教学大系を大局的にどのように把握すればよいかいう観点から本書の内容を論評したい。もとより儒教像や孔子像など十人十色であっていいという考え(注3)もあろうが、評者は著者とは違って儒教の信奉者であるから、本書を素材に言葉は誰でも知っているが内容は少しも自明ではない儒教なるものについて論じてみたいのである。
 全体の印象を述べておくと、『神話』の序章を見る限り著者は「儒教とは何か」という問いに答えようとしているようであるが、孔子に始まり康有為に終わる同書の構成からする儒教論は日本・朝鮮・ベトナム等中国以外での儒教の展開を視野に入れようとすると全く取っ掛かりがつかめないものとなる。ただ『新書版』の序において「もともとバランスのとれた儒教史を目的としていない」ともあるのでこの辺は咎めても仕方あるまいし、中国世界以外での儒教を、その地域独自に形成された倫理なり行動様式を後から儒教倫理の概念で説明し直したと言うにすぎない(『神話』317〜318頁)とも予防線を張っているからこれもどうしようもない。
 孔子の野心については、例えばその習礼に関して「礼学の演習に名を借りた、革命の予行演習」といったように記される(『神話』55頁)。こういった著者から見た孔子(や孟子・荀子)の王位への野心と、『神話』第四・第五章で取り上げられている孔子素王説とでは随分意味が異なると思うが、著者は『神話』「あとがき」において「独断と偏見に満ちた確信」とも断わっているので、この辺についてもとやかく言うのは野暮であろう。
 因みに孔子を現実に下克上を目論む“革命家”であるとはっきり明言しているのはー王充のような儒家とは呼びにくい人物を別にすればー我が荻生徂徠の『論語徴』が先駆的であるだろう(注4)。また韓愈や司馬遷や屈原と並べて、孔子や孟子の「不平」や「怨念」に注目した近年の著述として大木康『不平の中国文学史』(筑摩書房・1996年)がある。これらの叙述と本書の異なるのは、孔子や儒家のルサンチマンの方向性を専ら王位=天子の地位に限定している点である。
 これについては後に触れるとして、評者が評価したいのは、上述したような「儒」の原義から展開される儒教論においては孔子(や個々の儒者)の活動や思想は、「儒教の本質」ではないとされかねないのに対し、本書の観点からすれば孔子は儒教において欠くことが出来ない存在になるというところである。
 ところで、仮に白川の言うように「儒」のもともとの意味が雨乞いの時に犠牲とされた巫祝であったとしても(あるいは胡適や馮友蘭の原儒論を加えてもいい)、それが例えば孔子が子夏に対して言った言葉に見える「女為君子儒、無為小人儒」(『論語』雍也)の「儒」と同じもの、あるいは前者の発展した姿が後者である、という保障はない。手堅い実証スタイルで鳴る著者が「儒」とは何かについて触れないのも、余程古い文字資料が発見されない限り原儒の実態など分かりっこないと考えているからであろうか。
 ただそういった近現代の字義学からする「儒」の論議は別にしても、古人も孔子以前から「儒」なるものは存在していたと認識していたことは『周礼』に「儒」や「師儒」について記載があることや、『漢書』芸文志に儒家者流は上古の司徒の官から出たと記されていることから明らかである(注5)。従ってルサンチマン論はいいとしても、孔子以前の聖人である先王についてもこれを繰り込まない儒教の定義は不十分なものである。もとよりこれは本書が今文経学としての公羊学を中心に論を展開しているからこそであると言ってしまえばそれまでである。しかし先王の実在を否定してしまう康有為の孔子教を「儒教神学」の完成体と見做す(『神話』第十章)のは、聖人の存在を必要条件としない字義学的・土俗的儒教論(注6)と偏頗的という意味で五十歩百歩であると言わざるを得ない(康の学説が今文学派の中でも特異なものであることはもとより著者も十分承知の上であろうが)。
 ここで評者の考える儒教の定義を述べておくと、すなわち「先王の遺制と孔子の思想乃至は行動がイコールで結ばれることを証明する教学にして、且つその内容を実践すべく努力する営み」である。そのための勉学や実践のテキストが経書であることは言うまでもない。崇拝対象として最低限欠くことが出来ないのは天・先王・孔子の三者である(注7)が、古文経学の存在を考慮に入れるとすれば孔子尊重の度合は前二者程でなくともよいということになる(注8)。
 また「先王」は唐虞三代の開祖(もとより堯舜以前の聖王も含まれる場合がある)の総称であって一つの王朝の先王に限定されない。学派によって微妙な差はあるものの、教祖的人物よりもそれに先行する上古の天子達が上位に置かれる(例えば王陽明や荻生徂徠の教説に著しい)というのは同じ普遍宗教でも仏教やセム系一神教と大きく異なる儒教の特色であろう。
 なお孔子や孟子の頃の「儒」や、孔子の出自について評者の考えるところもあるが、煩雑になるので今は述べない。差し当たり、周代までに蓄積された知識大系の内、先王に纏わる伝承を特に尊ぶべきと説いたのが孔子であったと考えている。
 このように言うと著者は先王の権威は孔子以前の統治階層や史官、あるいは墨家を始めとする儒家以外の諸子においても認められており、儒家の占有物ではないと反論する(『新書版』274頁)かもしれない(墨家の先王崇拝については後述する)。
 しかしそもそも一つの王朝や王権が唐虞三代すべての先王を尊重しなければならないという義理はないであろう。周人が文王や武王と同等に夏や殷の先王を敬わなければならないという理屈はなく、敬うか敬わないかは個々人の嗜好であったのではないだろうか。
 これは春秋・戦国期の諸侯国において顕著であって、周室と微妙な距離を保ち、夏や殷の末裔とされる杞・越や宋と対峙していた楚や斉(特に舜の子孫とされる田斉)においては恐らく堯と舜は共に偉大な帝王と見做されていたと思われるが、舜が簒奪者の如く描かれている『竹書紀年』が作成された魏においては、堯はともかくとして舜が聖天子であってはまずい事情があったのであろう(注9)。
 それはともかくとして、孔子以前の有識者も周以前の聖王の伝承に多かれ少なかれ通じていたであろうが、そのことと太古の先王すべてを尊重せよと教えとして説くのとは社会的意味が異なる。儒教にとって孔子という存在の重要性は、上古から周までの聖王を系列付け(『尚書』が堯典から始まるのは、堯を孔子が自らの知りうる限りで時代が一番古い天子として認識していたからであろう)、一つの王朝や王権を超えた新しい意味で「先王」を把握したところにあると考える。
 故に儒教の核は復古主義的先王信仰であり、孔子はそれを最初にとなえた人物として儒教史上欠かせない存在であるということになる。
 勿論、著者が先王抜きの儒教(歴史的には孔子の権威が先王のそれを徐々に後退させていったとする)を想定するのは自由である。ただ歴代の儒者は君主制以外の統治システムを構想したことはなく、恐らく彼らは先王の後継者としての歴代天子と、孔子の後継者としての大臣・官僚・読書人層等との「共同統治」(江戸儒者の一部も、所謂幕藩体制をこれに類するものとして自己規定していたと思われる)によって上は天に敬事し、下は人民に臨んでいるという認識を有していたであろう。またあくまで「共同統治」であったからこそ時の王朝が別の貴族や異民族によって危機に瀕しても最後まで忠義を尽くさなかった輩も少なくなかったのであろう。
 孔子は儒家・読書人層の守護神であり、しかも彼らは郡県制下で官僚をつとめながらも、上古の三代の封建の治世を理想としていた(江戸儒者の場合は自らの社会的地位の低さを嘆いてはいたが、徳川の世は封建制であり三代に近いとしてそれを謳歌することができた)。その意味で秦漢以降の儒家は常に体制への精神的反逆者であったと考えている。
 ここからすると「先王・周公を排除して、孔子に儒教の教祖の地位を独占させることは、当初から儒教運動の最大の目標であり、一貫した悲願であった。」(『神話』310頁)といった著者の儒教論や孔子のイメージが、現実の儒者が思い描いていた理想(妄想?)と著しく乖離しているということになるであろう。
 著者の儒教=ルサンチマンの宗教論は、儒家のルサンチマンの発露の形を王位への執着とのみ捉えるため、例えば『論語』顔淵「樊遅問仁」条に見られる孔子や弟子の被登用願望や鄭子産や斉晏嬰に対する孔子の高評価は無視されることになる。直接天子とならなくとも皐陶や伊尹のような有力宰相の地位に就けば(後世の経学では彼らも聖人と見做される場合がある)、理想の政治を行い制礼作楽に関与できるというのが一般的な儒家の認識であったはずである。
 なお本書以降に発表された著者の論稿(注10)を見るとまさに儒教的ルサンチマン論を引っ提げて禅譲思想の発生要因といったようなテーマに斬り込んでいる。しかしルサンチマンそれ自体は何ら可視的なものではない。それは例えば「天命」といったものと同様である。禅譲思想がどのようにして生じたのかというのは優れて実証的な問題設定であるが、それは儒家の怨念から生まれたのだと主張されても、そうかもしれないしそうでないかもしれないと答えるしかない。秦帝国が短期間で崩壊したのはなぜかという問いに対して、それは天命が秦から離れたからですという風に答えるのは、一つの回答として別に間違っていると評者は思わないが、実証史学の論文の内容としては許されないであろう。孔子やその信奉者を罵る修辞としてルサンチマン云々と述べるのは問題ないが、歴史的故事が記された文献を何らかの理論書として考察する場合は、それが作られた政治的背景や作者が置かれていたであろう情況をより丁寧に見ていく必要があるのではないか。
 議論が新出土史料の見方にまで拡散してしまったが、最後に本書の記述に立ち返ろう。先に述べたように、著者は先王の権威を尊重した学派は何も儒家に限った話ではない、また孔子以前から先王崇拝の念は存在したと『新書版』274頁で述べている(注11)。
 これへの批判としての私見の一端も上述の通りだが、諸子百家について言えば、儒家以外で復古主義の指標として先王を尊崇していた学派が果たしてどれほどいたであろうか。
 そもそも著者自身『神話』において「なぜに先秦の儒家のみが(中略)我こそ王者たらんとの野望を抱くのであろうか。」と自問して、「その原因は、儒家が唱える徳治主義にある。儒家は、有徳の聖人こそが上天より受命して新王朝を創建し、徳を用いて太平の世を開くべきであり、堯・舜・禹・湯・文・武と続く先王の系譜が明示するごとく、事実歴史はそのようにして推移してきたとの徳治主義を標榜する。」と述べている(98頁)。
 政治的尚古思想の表明として先王の名を持ち出してくるのは儒家以外にはー諸家折衷的な立場を別にすればー(注12)ほとんどなかったのではないか。弁論術のための先王の権威と政治的復古主義のそれとは区別すべきであろう。
 ただ墨家の先王権威尊重姿勢については一言しておく必要があろう。確かに著者も言うように墨家は儒家と等しく先王の道を奉じ、自説を展開するのに『詩』・『書』を引用する。それでいて儒家とは違って自学派の開祖を帝王に擬えたり、天子になって然るべき人物であったなどと主張してはいない。
 この相違は、墨家の非攻論と舜禹の三苗征討や湯武放伐といった先王の武力行使伝承が、理論的に突き詰めれば整合性を有しないというところにあったと評者は考えている。
 墨家は、聖王の道に合致するとか、天命を受けて不義の暴君を討つとか、あるいは天下の諸侯の利益になるといった意義がある「誅」や「救」は正当なものとして認める(『墨子』非攻下)。しかし彼らの同時代の有力諸侯が例えば湯武の道に倣うと称して他国を併合することは絶対に認めないであろう。墨者はあからさまには言わないが、墨家の思想体系においては「誅」や「救」の「認定権」は彼らの手に握られているのである。つまり過去の聖王の軍事的事績は墨家にとって事実上それきりのものであって、現代に再現されるべきものではないのである。しかしそれを露骨に述べれば、非攻論は墨家のためにする議論ということになってしまい、正当性を疑われるであろう。
 こういった態度の行き着く先は諸侯割拠の世の現状維持という超保守主義であり、墨家の論理の帰趨は統一を実現する聖人が出現する必要はないという論に落ち着く(注13)。
 「天志」や鬼神が悪しき人間に罰を下す超越的存在であるとすれば、先王権威は不義の諸侯を牽制するための歴史的超越者ということになる。従って墨者は墨子を先王の後を継ぐべき聖人と喧伝することはなかったと思われるのである。
 また宿命論やコストのかかる礼楽を拒否する墨家は『易』や『楽』や煩瑣な礼(について記したもの)を経(=先王の術)とは認めないであろう。さらに『墨子』公孟に見える次のような遣り取りも墨家の先王観を見る上で重要である。

  公孟子謂子墨家曰、昔者聖王之列也、上聖立為天子、其次立為卿大夫。今孔子博於  詩書、察於礼楽、詳於万物。若使孔子当聖王、則豈不以孔子為天子哉。子墨子曰、  夫知者必尊天事鬼、愛人節用。合焉為知矣。今子曰孔子博詩書、察於礼楽、詳於万  物、而曰可以為天子、是数人之歯、而以為富。

 もとよりここでの墨子の発言は一義的には孔子聖人論を否定することが目的であろう。しかしその文脈で、礼楽のみならず『詩』・『書』や「万物」に広く通じていることまでが否定的に見られていることは注目に値する。儒家の博学主義に対して、墨家の専修主義と言えるかもしれないが、所詮実用一点張りの墨家にとって古典全体に通暁することなどは「愛人節用」の理念に反することで、自分達に都合のいい主張が見付かった場合のみ『詩』・『書』や『春秋』の一節を引用して説教していたのであろう。
 また先王信仰以外にも古くから中国に存在した祖先祭祀や葬礼等の風俗・習慣が、孔子以降儒教の内部に包摂されていったため両者を区別することが困難となり、あたかも伝統的な礼俗が儒教そのもののように見られるようになったが、それらは中国世界の共有物なのであって儒教の占有物であったわけではないという意味のことも著者は述べている(『新書版』274〜275頁)。こちらは礼楽を以て儒教に不可欠のものとする議論、乃至は東北アジア人のある種の習俗や思考がしばしば恣意的に「儒教的〜」と決め付けられたりすることを念頭に置いているのであろうが、韜晦的な記述で今ひとつ理解しにくい。
 儒者が古礼を先王による制作物と見做していることを、儒教信奉者ではない著者が事実に反すると述べるのは構わないが(注14)、少なくとも儒者がある礼俗を三代の制度に由来すると考えているのであれば教学的には全く問題ない。右に要約したようなことを著者がことさら述べるのはどうしても孔子を先王の下位に置きたくないからであろうか。
 本書は通常の学術書の叙述スタイルを採用していないから、孔子が先王の上位に置かれていても異とするに足りない。しかしどうも著者は本当に儒教において先王を重視すべきではないと考えているのでないかと感じたのは注10前掲論文「孔子は『易』を学んだか」に接したときである。
 この論文で著者は孔子と『易』に接点があったとしても、それだけでは儒家の経典となる必然性はないとして、『易』が経典視されるようになった原因を論じている。しかし孔子との接点がどのようなものであれ、『易』が伏戯や文王・周公といった先王によって作成されたという伝承が存在していたのであれば(それが孔子以前からあったものかその死後に発生したものかに関係なく)、それが経の内に繰り込まれるのは自明であったとせねばならない。
 恐らく孔子後学は師の復古主義的先王信仰を見てとって、それに追随するため古先聖王に関連する文献や伝承を収集して自分達の基本テキストとしていったのであろう。
 因みに『春秋』も周公旦の子が封じられた魯の史書であったから先王の典籍として経の資格を得たのであり、『神話』131頁に記すように孔子の筆削が入っている(注15)かどうかは関係ない(尤もこの辺の記述は儒家罵倒修辞以上のものはないのかもしれないが)。
 『易』も同様であるが(『神話』128頁において『周易』に経典の資格ありと明快に述べている)、著者は先王の存在を儒教の核と見做さないせいであろうか、前掲論文において孔子に万物に通じる王者としての資格を付与するためにこれが経典視されていったと論じている。六経の権威の出発点を孔子に帰してしまうのである。これは実証史学論文の体裁を借りた経今文学と言わねばなるまい(注16)。
 本書における孔子やその後学に対する悪口三昧も、自らの儒教観の経今文学への傾きを悟られまいとするカモフラージュではないかと邪推してしまう。
 孔子の徳は天子に等しいとか、聖王の世に孔子が生まれれば天子の位を得たであろうといった類の大仰な儒家の言説(後世の中国人の文章術のあり方を規定したのはやはり儒家であろう)が著者にはルサンチマンと映ずるのも(儒家のレトリックは東京への対抗意識を燃やす大阪人が好みそうな雰囲気を漂わせている)、すべて儒教の権威の源を孔子に求めるからであろう。
 しかしながら各時代を通して儒教を形作っていたのは、先王や唐虞三代という「古代史」と孔子との「関係史」である。孔子のことだけ語って先王に言及しない儒者・経学者はまず存在しない。日本のことしか語らない日中関係史の研究などというのはありえないのと同様である。仮に先王より孔子に重点を置いて儒教をイメージするとしても、その特徴は孔子がやはり唐虞三代を“聖なる古代史”として「認定」したところにある。
 従ってその「認定者」が時代状況や学派によって、王様もどきであったり、「古代道徳」の偉大な教師であったり、はたまた「古代」を再現しようとする戦国浪人であったり様々な像が描かれるが、そこに先王の影を見ないわけにはいかないのである。儒教にルサンチマンを見出すのはもとより誤りではないが、孔子が「王」であること(なりたくてもなれなかったこと)が重要なのではなく、彼が古代を「再現」しようとしていたことが(結局再現できなかったことが儒家の怨念のもと)重要なのである。その「古代」の主役が先王であることは言うまでもない。素王説もあくまで再現手段の一つに過ぎない。
 本書における儒家への罵詈雑言の中で、唯一共感できたのは現代新儒家へのものである(『神話』314頁、『新書版』267〜268頁)。評者も彼らの「面白味」に欠ける宋学紛いの思想で未来の中国世界がよくなるとは思えない。尤も儒教は何も中国人(漢民族)だけのものではないのであるから、日本人が儒教を再興しても少しも構わないのである。留意すべきことは、儒教にとって孔子のみならず先王(信仰)もなくてはならないものであり、「孔子の教導に従うならば、(中略)太平の世に導かれる」(『神話』316頁)という理念は君主制(天子制)の存在を前提とするものであるという点である。
 現在の中国において儒教や孔子が再評価されていると言っても中共の対外宣伝のネタに使われているのを別にすれば「市民道徳」の形成に役立つと考えられているレベルであろう。もとより共産党の支配下で儒家の理念を本気で実行するのは不可能であり、強いて行なおうとするならば中共政権を倒す「革命」を第一段階として実行し、さらに君主制を復活させる「二段階革命」が必要である。
 これは別にふざけて言っているのではない。評者は中国の近代化のためには辛亥革命が必要であったとは思っていない。この革命によって中国は「出遅れた」のである(アヘン戦争や日清戦争の時点で出遅れていたのではない)。百歩譲って反満民族主義を抑えるのは無理であったとしても、袁世凱の帝政復活を阻止せねばならない道理は少なくとも中国側にはなかったと考えている。すなわち清朝が倒れた時点で中国にはナポレオンが必要であったのであり、孫文を始めとする革命派がその任に堪えうるものであったとは考えにくいのである。
 一方の日本はと言うと、君主制は備わっているものの(血統存続は危ういが)、それを支える貴族も士大夫もいない。こちらは君主制理念の再構築(万世一系主義の見直し)と帝王を守る藩屏の再興(新興)が必要である。
 評者の儒教観は著者のとはかなり異なるが、一人の村夫子としてやはり孔子の無念を晴らしたいと考えている。

         注

1 例えば白川静『孔子伝』(中公文庫)や加地伸行『儒教とは何か』(中公新書)な ど。

2 評者は「儒教」よりも文献上の表現として先行する「儒学」という言い方の方を好 むが、本稿では「儒教」で通す。

3 池田秀三『自然宗教の力』(岩波書店・1998年)50頁。

4 聖人がすなわち天子であるとする聖人観も本書と共通する。但し徂徠は、孔子を革 命待望論者であったと見做しているものの、必ずしも天子位への執着があったとは考 えていない。また「素王」という概念を認めているわけでもない。無官の帝王という よりもむしろ「国盗り」を企む豪傑といったイメージではないかと思う。徂徠の孔子 観については野口武彦『荻生徂徠』(中公新書・1993年)が簡潔に述べている。

5 芸文志には儒家者流について「祖述堯舜、憲章文武、宗師仲尼」という記述がある が、「宗師」には、開祖とか教祖といったニュアンスは含まれないと思われる。つま り芸文志の著者は、孔子出現以前から儒家者流は先王を祖述憲章する人々として地味 に存在していたと見做していたと推測される。なお池田前掲書152〜153頁、関 口順『儒学のかたち』(東京大学出版会・2003年)第一章「儒学の形成」等も参 照。

6 加地前掲書153頁において「祖霊信仰、祖先崇拝の礼俗は(中略)〈聖人〉が作 り出した教化方法などという知的レベルのものではない。東北アジア人が脈々と受け 継いできた、死生観という人間の心の奥底に存在する感情の表現なのであって、その ような人間の本質をこそ取り入れたものが儒教である」という記述が見られる。また 同書36頁には「よく〈中国人の天の思想〉と言う人がいるが、それは皇帝(天子) を中心とする一部の思想であって国民的ではない。」という記述が見られる。こちら は儒教の教義についての説明ではないが、東北アジアの民衆の現代に生きる多神教的 土俗としての「儒」を重視する加地にとって上天信仰はさほど重要ではないのであろ う。

7 池田前掲書208頁における儒教の定義で、聖人として信じる対象が孔子に限定さ れていて先王が含まれていないのは遺憾である。なお皐陶や伊尹といった一般的な伝 承では天子とされない大臣・宰相も聖人とされることがあるが、これは時の先王と共 同で制度を設計した人物であるからであろう。
  関口前掲書6頁及び165~166頁に荀子の聖人観を説明して、彼は歴史的具体性から 離れた理論的な聖人を説き、「聖人の道」についても自己の思想体系に沿って説明し ており、それを単に「先王の術」と見做すことを避けているとする。これからすれ  ば、聖人すなわち天子と考える儒家が主流派であったかどうかは不明とするしかな  い。

8 漢代儒教や清末の経今古文学派対立の影響を蒙らなかった日本や朝鮮の儒教におい ては、今古文論争も無縁なものであった。ただ日本においては朱子学系以外の有力学 派として伊藤仁斎や荻生徂徠の古学派の流れがあり、仁斎においては人倫の教師とし ての孔子の登場は歴史的に大きな意義があったとされる。仁斎学における孔子は先王 と同等かそれ以上の存在とされていると言ってよいであろう。
  一方徂徠は孔子を、先王の道を追い求めながら制礼作楽の志を果たせなかった挫折 した英雄と見做し、孔子が尊崇した先王を高く評価しない仁斎に激しく反発してい  る。但し仁斎は先王を軽視しているわけではなく、統治者の領分として先王の道と、 学者や被治者の領分としての孔子の道とを分別し(つまり仁斎は徂徠と違って孔子の 道と先王の道を同じ「一つ」のものとは考えない)、自らは後者を奉じていると認識 していたと思われる。平石直昭『改訂版 日本政治思想史』(日本放送出版協会・2 001年)参照。

9 これは『竹書紀年』の作成に儒家系の史官が関与した可能性を排除するものではな い。そもそも孔子や孟子のように一つの王権に従属せずに各地を遊説した儒者は必ず しも多数派ではなかったであろう。自らが禄を食む王権に阿る史観を展開する儒者が いておかしくはない。むしろ『論語』・『孟子』・『荀子』に代表される、特定の王 権に遠慮せず、唐虞三代を賛美し忌憚なく人物評を行なう文献が後の儒者に歓迎され 残存しそれ以外は散逸していったと見るべきではないだろうか。
  なお堯舜禅譲譚については佐藤長『中国古代史論考』(朋友書店・2000年)第 三「堯舜禹伝説の成立について」が、簒奪を実行した斉の田氏の下で現行のような形 に整えられたと述べている。
  郭店楚簡『唐虞之道』や上博楚簡『容成氏』の内容も視野に入れた先秦期の禅譲思 想についてここで詳述する余裕はないが、評者はこれらの文献を儒家内部の純粋な理 論的思考(ルサンチマンも含む)のみによる産物と見るのには反対である。

10 「郭店楚簡『唐虞之道』の著作意図」『大久保隆郎教授退官記念論集 漢意とは何 か』(東方書店・2001年)所収、「『容成氏』における禅譲と放伐」『竹簡が語 る古代中国思想』(汲古書店・2005年)所収、「孔子は『易』を学んだか」『諸 子百家〈再発見〉』(岩波書店・2004年)所収など。前者において『唐虞之道』の  作成意図は、一介の士に過ぎなかった孔子が王位を得るとすれば、その手段は時の王 侯からの禅譲しかなかったはずだという儒家のルサンチマンに由来すると述べられて いる。
  しかしそもそも儒家の幻想の「孔子王朝」が、禅譲という(きわめて具体的な)政 治的方法でしか「実現」できないと考えるのは評者には理解できない発想である。例 えば『史記』孔子世家に、楚の昭王が孔子を「書社地七百里」を以て封じようとした ものの、令尹子西の忠告によって取りやめたというエピソードがあるが、そこには  「夫文王在豊、武王在鎬、百里之君、卒王天下、今孔丘得拠土壌、賢弟子為佐、非楚 之福也」云々とある。孔子後学の怨念がよく表れている記述だと思うが、封土を得る きっかけは時王の譲与であったとしても、それから後は文王や武王のような王者を  「目標」にすればいいのであって、堯舜故事に固執する理由はないように思われる。

11 これは「著者の言うように孔子が「儒教の一切の源」であるなら、なぜ先王が儒教 の教祖の地位を占めるようなことが起こりうるのか。」と『神話』の内容を評した関 口順「孔子の「怨念」は果して晴らされたのか」(『東方』197号・1997年)に対す る反論であるのかもしれない。

12 例えば前漢初の賈誼は儒家的傾向の人物だが、その著『新書』を見ると、先王・孔 子・弟子の発言や事績以外にも管仲(管子)・晏子・老子等の言が引かれている。

13 著者が嘗て述べているように(『墨子』講談社学術文庫・1998年)、墨家は儒家同 様天子を頂点とする封建制を基礎とした秩序を理想としていたが、理想の聖天子が現 れるとどこまで本気に信じていたか疑問である。
  また禅譲思想が墨家から発生したという説も彼らの「現代聖人不要論」からすれば 首肯し難い。大体、無力な周王が誰かに禅譲したところで天下の大勢に影響はないの であるから、そのような無意味な儀式を墨家が歓迎するとは思えない。

14 東北アジア民衆の心情に基づく聖人抜きの礼俗的儒教論を展開する加地前掲書153 〜154頁)も鬼神祭祀を聖人による教化の産物とする六朝儒家の見識を批判してい る。

15 孟子の孔子春秋述作説はー王侯に対して僭越かどうかは別にしてー、この頃経書視 されるようになっていた魯の『春秋』が無味乾燥な年代記であったため、そこに何か 深い意味を見出したかったことから生まれたのではないか。但し同説が孟子に始まる のかどうかは現時点では留保すべきであろう。
 
16 池田前掲書が『神話』の内容を評してミイラ取りがミイラになっていると述べてい る(49〜50頁)が、著者の本書以降の論稿を見るとこの池田の論評は適切であったと 言わざるを得ない

(岩波書店・1997年、平凡社新書・1999年。文中敬称略)(4月22日・25日・26日・27日・5月22日加筆訂正)
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2009/1/1

儒学の「国際性」について 書評 子安宣邦『事件としての徂徠学』ちくま学芸文庫  評論

本書については評者の知る限りにおいても、然るべき学術雑誌において既に論評がなされている。
 ただ著者とある程度まで学術的スタンスや政治的信条を共有するアカデミシャンがなしえない、内容への評価や疑義の提出はもとより評者の望むところであり、二、三論評を加えるのも悪くはないであろう。
 と言っても実のところ後述する第五章を除けば、丸山思想史学への批判も含めてほとんど間然とするところがない(注@)。学生の頃青土社の旧版を読んで、緻密な言葉遣いに驚嘆した記憶がある。
 一点だけ徂徠学や江戸思想史に疎い読者が誤解するのではないかと思ったのは、第四章において著者が徂徠の「鬼神の説、紛然として已まざるゆゑんの者は、有鬼・無鬼の弁のみ。それ鬼神なる者は聖人の立つる所なり…故に、鬼無しと謂ふ者は、聖人を信ぜざる者なり」云々という発言を引きつつ、「だが彼は『聖人を信じる』とはいっても(中略)『鬼神有り』とも『鬼神を信じる』ともいっていない」とか、「聖人の制作なる祭祀とその礼を離れて鬼神を問うことはないということだ。(中略)先王の教えである祭祀の礼を離れて、己れにとっての鬼神が語られることを、徂徠は『私智』にもとづくことだという。」などと述べているところである(131〜133頁)。
 そもそも徂徠の祭祀・鬼神論は礼経(三礼や『大戴礼』等)を通読したことがある者には分かりやすいと思うのだが、しかし単に鬼神なるものを「聖人(先王)が立てた」という言説のみに着目するならば、それは例えば山片蟠桃流の現実には鬼神は存在しないが孝子のために鬼神を祀る礼をつくったといった類の鬼神被制作論と区別がつかなくなるであろう。
 勿論本書を注意深く読めばそのような誤解は生じないと評者は信ずるが、「徂徠は『鬼神なる者は、先王これを立つ』というが、それは鬼神が先王の架構物だということではない。『鬼神』という名が先王によって立てられたというのである。」云々(120頁)といった記述は、著者の言う「架構物」と「名」というものの相違を明確にしなければ意味不明の文章ではないだろうか。
 懐徳堂学派が批判するように、徂徠は(高弟の太宰春台もそうだが)自然界における怪奇現象の類を素朴に肯定している(例えば『徂徠集』所収の「舎利論」)。ただそれらは聖人が制定した礼における鬼神とは直接関係ないし、またそれらを「信仰」の対象とする必要もないということである。別の言い方をすれば、諸々の神怪の内で正式に祀るべきもののみを聖人は鬼神として「立てた」のだというのが徂徠の言わんとするところであろう。
 本書は徂徠学の「事件性」を記述するのが主となっているから、徂徠という個人のパーソナリティーに関しては抑え気味の筆致にならざるをえなかったのであろうが、儒学(礼学)や江戸思想史初心者には誤解を生じやすいところではなかったかと思われる。
 尤も以上述べたようなことは徂徠の愛読者や近世思想プロパーはよくわきまえていることであろうから、大した問題ではない。私が問題にしたいのは第五章「荻生徂徠と津田左右吉の間」である。この章だけは旧版を読んだ時もそうであったし、今読み直しても同様なのだが非常に分かりにくい。評者が学界の外にいるからかもしれないが、著者の言いたいことが読み取れないのである。
 著者は津田の研究姿勢や叙述を否定的に論じている。そのこと自体は何ら問題ない。日本古代史研究にせよ、儒学・中国思想研究にせよ、津田の研究内容は今となってはあまりに度を越した文献批判学によって構成されていることが明らかであり(日本古代史研究者の中にはまだ津田の研究に固執する者も存在するようだが)、それらをそのまま受け入れることは到底出来ない(但し津田批判の方向性については著者と評者とでは異なるであろうが)。
 ところで著者は、津田の中国研究について、「中国と日本との間をたえず隔てようとする津田の中国への視座は、彼我の異質性を強調しながら、しかし『他者』としての中国への視座を喪失する。」(157頁)とか「津田の立場が、『他者』喪失の、肯定的自己主張の立場でしかないからである。そこでは、(中略)新たな関係づけの問いとともになされる、既定の足場の相対化ということももとよりない。」(158頁)などと述べている。
「荻生徂徠と津田左右吉の間」と題された章において、一方で徂徠の学術については「この『物』としての『六経』が、そこに具さに存する「先王の道」が、自己との関係づけを新たに問う『他者』として提示されるのである。」と記され、さらにそれを「ただ『シナ崇拝』にもとづく観念的な認識とのみとらえる近代史家の中国研究の視座の特質が」問われなければならない、と結ぶからには、当然徂徠の学が「他者」否定ではなく、また既にある自己の足場を絶対視しない視座を有しているー少なくとも「道」の究明に関してはーということを著者は主張したいのであろう。
しかし今更言うまでもなく、徂徠にとっての唐虞三代が後代の中国諸王朝と重なることは決してなかったのであり、同時代の大陸や半島の王朝に対しても特に敬意を払っていない。
 著者も熟知しているはずだが、吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(岩波書店)が指摘しているように(同書215・281頁)、徂徠は唐虞三代を継承するのは徳川王朝であると考えていた節がある。それを民族主義と呼ぶのは適切ではないにしても、古学派による宋学的言説の解体というあくまで儒学者内部の闘争に過ぎないものを以て、「自己の足場の相対化」云々とは何と大仰な物言いであろうか。
 彼の先王への「信仰」は、津田の文献批判学の基となる史的実証主義への「信仰」と、恐らく非常に似通った精神構造であるだろう(注A)。
徂徠の、聖人を前にした謙虚さと、徳川王朝に対する恭敬は、津田にとっての文献批判学とそれを保障する近代日本への思い入れと相似形である(後者のひたすら日本と儒学や中国との無縁性を強調する論法は、文献批判を信仰対象とした学者の悲劇であるが)。
 ところで現代のインテリが、前近代の学者が熱心に外国の言語や歴史を研究していたりするのに、やたらと共鳴したり感心したりするのかどうか知らないが、例えば信長や秀吉の南蛮趣味や中国趣味を、現代の歴史家はまさか「他者肯定」の異国趣味などとは評しはしまい。
 著者は自身が考える江戸儒者のよき面を現代においても継承すべきと密かに考えているのかもしれないが、もし徂徠の学術と津田のそれを比較することによって、前者に他者としての外国を肯定的に認識する契機を見出そうとしているのならそれは恐らく誤りであろう。
 徂徠は聖人の道を、日本=徳川王朝、延いては己の足許に招喚したいと考えていたであろう。そして徂徠の提示する古代聖人像が衝撃的であったとすれば、それは自己の足場の相対化どころかむしろ強化ではなかろうか(もとより国学者はそのような戦略を容認しないであろうが)。大陸征服を目論む信長や秀吉の国家構想が衝撃的であるのと同様である
 『政談』や『太平策』を見れば分かるように、徳川王朝の制度的欠陥を補うものは徂徠において聖人(先王)の道の同時代における再認識とその実地への応用であると考えられていた。他方、津田に己の学問―それは儒学者のような聖人への「信仰」も、国学者のような神話世界への一体性も伴わないーが直接国家の浮沈に関わるとの強い認識があったとは思えない。両者の単純な比較はそもそも無理がある。
 著者は「なぜ古代中国の『先王の道』の高唱が事件のごとくみなされるのか」と問うて、それは「徂徠のいう『先王の道』が、宋学的な『道の言説』に規定されている思想世界に、道の喪失を告げながら、自己との関係づけを新たに問うような『他者』として提示されるから」と自答する。しかしこういった言い方が許されるのであれば、津田による中国の文化と日本(人)との無関係さを言い募る言説も次のように評しうるのではなかろうか。
 すなわち、日中の文化的同一性を自明のものとしていた人々に対して、その認識の無効性を告げながら、日本国民と中国文化との関係づけに再認識を促すような中国像(あるいは儒教像)を提示したものであった、と(注B)。
 先程も少し触れたように、評者は津田の中国論を特に高く評価するつもりはない。「平民主義者」である津田にとっては儒学や日本神話等の「統治者の学」などはむしろ有害無益に感じられたのであろう。従って儒者の姿勢と津田のそれを対比するのが、繰り返しになるが所詮無茶な企てと言うべきである。
 著者は「日本」と「中国」という通時的な“二つの国”を巡る認識の変遷を徂徠と津田の間に見ているが、徂徠の「中国」認識については注釈が必要である。彼にとっては唐虞三代と明や清は同じ国(=王朝)ではないし、同様に古代日本と室町日本や徳川日本はそれぞれ同じ王朝であると言う認識はなかったであろう。勿論、前代の王朝の正統性を継承しているという意味での通史的認識は「日本」と「中国」それぞれにおいて成立すると見做されていたであろうが、彼我の歴史的交渉について二国間のこととして同定してしまう必要は全くない。
 これに対して津田の認識においては、既に古代律令制も武家政権も超越した「日本」と、それに対峙する通時的な「シナ」が成立していたであろう。そして実は著者も第五章の叙述において「日中二国史」という枠にとらわれているという意味で津田と同じ認識を有している。
 とは言え、第五章の存在によって本書の価値が直ちに減ずるなどということはない。特に第七・八章の「道」や「文」に関する徂徠の修辞の分析は余人の及ぶところではない。もし評者が人から徂徠学について分かりやすい入門書はないか、と問われたならば野口武彦『荻生徂徠』(中公新書)と並んで本書を挙げるであろう。
 最後に本書評の枠から少し外れてしまうことを二、三述べたい。他の著述も合わせて見るに、儒学者と国学者に対する著者の眼差しは前者に甘く、後者に手厳しいと感じるのは評者だけであろうか(注C)。想像するに、外国語としての漢語を自在に操り、朝鮮の使節と交流し、半島や大陸の文化にも関心を失わない儒者の姿勢に、国境を越えて活動する現代のインテリや研究者に通ずるものを見ているのかもしれない。
 評者にとって、国学者は聖人を謗る左道の輩であるからこのことは別に不快ではないが(評者にとって著者は“敵の敵”なのである)、しかし徂徠に限らず江戸儒者達は基本的に日本国家―武家を重視するか公家=京都朝廷を重視するかは別にしてーの威信のために己の仕事を遂行していたといっても過言ではないのであって、もとより「日中友好」や「日朝親善」のために働いていたわけではない。ただ国学者のように素朴に日本神話を信仰対象とすることができなかっただけである(注D)。従って儒家ならぬ著者による、現代の知識人のあり様とオーバーラップさせるかのような江戸儒学への視線には正直戸惑いを覚える。
 徂徠は確かに「中華聖人の国とわが東海の国の言語との間にある非連続」(68頁)をよく認識していたであろう。しかし上述のように、彼にとっての大陸は聖人を産出した「中国」・「中華」であったとしても、明や清は聖人の国ではない。同時代の中国人との正統性を巡る闘争はむしろ徂徠の望むところであったとすれば、彼がもし信長や秀吉のブレーンであったとすれば、国学者や津田とは正反対の方法で「他者」否定の言説を展開したかもしれない。なぜ徂徠の言説が「外部」に開かれているのか、再考する必要があるのではないか。
 著者が儒学の一般的教説についてほとんど語らないのは、ある儒者の言説の一部のそれからの逸脱を指摘するありがちな論法を拒否するからであろうが、徂徠が「封建」の礼讃者であったからこそ、ある種「脱日本」的な発想を取り得たのではないか。
彼の学問が「外部」に開かれているとすれば、それは生来の個性によるものと言うよりも、ある程度儒学的発想から来ていると考えるのが自然であろう。そしてそれを論じるには、様々なタイプがあっても大体儒家はこういう考え方をするものだという前提が必要である。
 概して儒学者の言動が一見トランスナショナルであるのは、彼らが言わば「正統王朝派」であるからである。一方の国学者は「フランス人の王」ならぬ「日本人の王」=天皇を戴く「オルレアン派」である(注E)。前者が「アンシャンレジーム」=封建制と親和的であるのは言を俟たないであろうが、豊臣秀吉の大陸制服プラン(後陽成帝と関白秀次を中国に移し、日本では皇子か皇弟を即位させて秀吉の一族を同様に関白とし、朝鮮にも豊臣系の大名を配置するという有名な内容)が象徴的であるように、“封建制に祖国はない”のである(注F)。
 これに比べれば宣長の「国粋主義」はあくまで日本=やまと=皇国を主軸として外に延長していくイメージであり、どこまで行っても「やまと」という国が消滅することはない(注G)。
 こういった政治思想史的議論は著者も十分弁えていることではあろう。ただ「言説」中心に叙述を進めていく著者のスタイルは、江戸時代の学者に話を限定している分には強みを発揮するが、一旦時代を飛び越えて近代にそれを接続しようとすると、ただ表面的な共通項をなぞっただけという感じの前後の脈絡がはっきりしない叙述となる。
例えば、近年の著作である『国家と祭祀』(青土社)や『徂徠学講義』(岩波書店)には徂徠鬼神論と近代の靖国神社制度との関連―宣長や後期水戸学を媒介としてという脈絡だがーを匂わせるような記述が見られる。
 これも著者お得意の鬼神を巡る「言説」への着目ということになるのだろうが、本当に靖国制度や近代神道と徂徠学的鬼神論が同じ脈絡で論じられるかどうかは、それこそ思想史的に検討する必要があろう(注H)。
 青土社版が刊行された当時は、一般に江戸儒学によって近代批判を展開するという手法がきわめて斬新に感じられたということがあったのかもしれない。しかし実のところ丸山の『日本政治思想史研究』も、もともとは徂徠学研究に仮託した同時代批判という側面を持つ書であったはずである。そうだとすれば丸山政治思想史を批判した著者は靖国批判の文脈で安易に徂徠を引用すべきではないのではないか。
 徂徠は宣長や後期水戸学の露払いでは決してない。“徂徠から靖国へ”という安直な鬼神論史的物語は「右」にも「左」にも共有してもらいたくない。


     注

@ 緒形康「生成と考古学―子安宣邦『「事件」としての徂徠学』を読むー」(愛知大学法部法経論集124号)は「なぜ徂徠学が「事件」たりうるのか?過去の思想家たちのコメントの反復はなされても、筆者じしんによる見解なり意見が披瀝されることはない」と本書の叙述スタイルに対してコメントしている(同稿15頁)。この緒形の論評に象徴される擬似客観性が、著者と異なるスタンスを有する人々にも本書を高く評価させた一因であろう。

A この点については既に桂島宣弘が本書評(『日本史研究』357号)において、宣長流の「自己言及的な言説」が津田のごとく近代日本で繰り返される事態を問題視し、且つそれとは対照的に「他者」との距離を徂徠は自覚していたとする著者の記述に対して、宣長と徂徠が「言説的構成」において同様の構造を有していたとするならば、それは同じく「自己言及的な言説」であったと言うべきではないのかと疑問を呈している(同稿80頁)。

B この点、緒形前掲論文27頁参照。評者は緒形や著者と違って素朴な「反ファシズム」論者ではないから、徂徠の「他者」=中国が「ファシズム」であったとしても少しも驚くべきではないと考えるが。

C 西尾幹二『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)は徂徠と宣長についてかなりの紙幅が割かれ、両者とも江戸時代の優れた知性として高い評価が与えられている。しかしその参考文献欄に『「事件」としての徂徠学』は見当たらない。その一方で西尾は著者の宣長論における叙述スタイルついては強い調子で批判している。

D 記紀神話が「自国」のものであるが故に尊重されねばならないとする思惟は、内容の整合性に乏しく煩雑なテキストに目を通すことによって直接得られるものであるとは必ずしもないであろう。むしろそれ以前に、日本のものであるからには何はともあれありがたいのだという土着性尊重主義的心性が備わっていなければならない。
 他方、多くの儒者が基本的に“国家”として認識していたものは恐らく王朝(=王を頂点とする統治機構)としてのそれであって、土着性や民衆の土俗を基盤とする民族共同体的なものではない。彼らによって土着の言語や習俗が軽視されないとしても、それらが公権力を権威付け、またそれを律するのに役に立つと見做されるかどうかは別問題である。

E 明治初期の自由民権活動家の中には、神武天皇を中国から渡来した征服者であると決めつけて皇室批判を展開している者が存在した。これが国学者流の純潔皇統観に対するあてつけであることは言うまでもない。

F 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書)において述べられているように、秀吉の構想が実現すれば、その「豊臣帝国」はもはや“日本国”とは言い得ないであろう(同書216頁)。

G 太宰春台『経済録』凡例には「中華ニテハ、夏殷周ノ三代ヨリ以後ハ、王者ノ興ル毎ニ、必一代ノ国号ヲ立ツ」云々とあり、日本においても武家が天下を取ったからには、それまで「公家ノ世」が日本と称していたのを改めて、それぞれ国号を立てて然るべきであったと受け取れるような記述がなされている。このような春台の見解は、日本の儒家思想の平均値からすれば急進的であろうが、儒学の理念から逸脱しているわけではもとよりない。

H 徂徠や春台は鬼神や祭祀の「神秘性」を強調するが、大衆施設である靖国にはあまりそういった要素は認められない。また上天信仰も取り入れていないように思われる。なおこの問題に関連して、『国家と祭祀』98頁に引用する「旧事本紀解序」の訓みに少し問題があるように思われる。
(筑摩書房・2000年)
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2008/9/7

火葬場確保問題と土葬  評論

“斎場(火葬場)建設反対”といった類の横断幕や幟を見て、土葬を普及させればよいのにと考えるのは私だけであろうか。
 土葬そのものは別に法律で禁止されているわけではなく、一昔前は地方によっては埋葬方法として土葬を採っていたというところは結構存在したであろう。
 しかし今日では埋葬する場所を確保するのが容易ではなく、また手間もかかる(しかし遺体焼却費用はかからないのだが)ということで土葬を行なう人も皆無に近くなってきているのではないだろうか(一部の華僑やイスラム教徒のための土葬墓地はある)。
 火葬場建設に周辺住民が反対するのは、当然のことながら臭いやある種の気持ちの悪さがその理由であろう。私もそれら住民の立場であったならやはり反対するであろう。
 ところで儒家からすれば、土葬墓地は必ずしも陰気な場所ではなくむしろ先祖の亡骸の眠る好ましい処である。勿論「立地条件」にもよるが、墓地そのものはピクニックの対象ともなりうる陽気な処である。
 かく言う私も土葬墓地の近くであればその近辺に住むことに全く抵抗を覚えないが、火葬場や遺骨のみを納める墓場は逆に無意味な処で、特に住みたいと思わない。
 そこで提案なのだが、関係各機関は火葬場を増やそうとするくらいならむしろ土葬を啓発・推進し、そのための墓地の確保に努力すべきではないだろうか。少なくとも儒学を奉じる者であれば土葬を喜び、そのための墓地周辺の土地にも魅力を感じるであろう。
 但しこれについては、もし土葬を望む人が増えてくればたちまち墓地不足が生じ、それは火葬場確保の困難の比ではないのではないかという声が挙がることが予想される。
 そういった事態を防ぐためには、まず墓地内において墓をおく区域を一つの家・血族の私有物としてはいけないというルールをはじめに設定しておくことである。納骨式の墓では「某家代々之墓」なるものが存在するが、こういったものは土葬墓地内では認めず、あくまで故人のための埋葬場所をレンタルするという形のみ認めるのである。そして埋葬後最長半世紀で、墓を壊してしまうということにする。
 被埋葬者の子孫が存命であっても勿論関係ない。故人の追悼は廟や祀堂(仏教徒や神道家なら仏壇や神棚)その他家庭における祭壇での祭祀によって実行すればよいのである。
 私の立場はもともと「家」における祭祀(儒教的な祭祀理念と日本的な「家」意識や血族意識との関係についてはここでは触れない)をより普及させていくことを目的としているがそのことは措くとして、斎場が家の近くにできるのを無条件で喜ぶ人は現状では皆無に等しいであろうが、土葬墓地であれば逆に喜ぶ人がいる。行政当局や葬儀業者は周辺住民の反発を押し切って火葬場をつくるよりも、土葬普及のための啓発をした方が苦労が少ないのではなかろうか。(9月23日加筆訂正)

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2008/6/23

(書評)呉智英『封建主義者かく語りき』(双葉文庫)  評論

 著者は「封建主義」を信条として民主主義や人権思想を批判する論客としてよく知られている。その仕事についてはいずれ然るべき人々が正当に評価し、戦後思想史の一角に位置付けねばならないであろう。尤も評者はその任によく堪え得る者ではないのだが、著者が専ら儒教の再評価を通じて封建主義・民主主義批判を展開しているところから、現代の状況と儒教の思考がどのように関わるのかについて、本書を軸にして論じてみたい。
 まず本書の主張は大体において、民主主義者を以て強く自任する人々、特に左翼に対して、過剰な民主幻想を捨てよというある意味愛情のあるメッセージであると理解できる。
 利口な保守派は、民主主義を容認しつつも「封建時代」の思考を古びた黴臭いものと決めてかからず、さりとて殊更に「封建主義」などと言挙げしたりはしない。
 故に本書は、左翼諸君も保守派に対抗すべく「封建主義」で理論武装せよというアジテーション文献であると見做してよかろう。そもそも左翼は、自分達が考える民主主義こそが真の民主主義であり、保守勢力の考えるそれは本物ではないと考える傾向がある。
それに対して著者は民主主義=近代思想であり左翼も右翼も実は同じ穴の狢なのだと冷水を浴びせたのである。
 評者が本書を最初に読んだのは文庫化する前の情報センター出版局版か史輝出版版だったかと思うが、その時は民主主義や人権思想に対する批判には瞠目させられたものの、「鎖国も検討に値する」とする観点(192〜193頁)からの「護憲論」(「同じ民主主義憲法であるなら、日本国憲法は、かなりましである」とは評者は思わない)や、『孟子』や朝鮮儒者の対日抵抗にことよせた反侵略・反帝国主義の主張(墨家に比べれば儒家には侵略や「帝国主義」を否定する契機は弱い。著者が嫌悪する人権イデオロギー同様ある種の「啓蒙」を重視するからである)、あるいはニュートラルな呼称としての「支那」についての説明(注@)に何となく新左翼臭を感じて、その後「呉夫子」の愛読者にはならなかった。
 しかしながら、旧版を読んだ後の評者の人権思想や民主主義に関する知見の拡大、あるいは昨今の男系・女系を巡る天皇制論議(旧版を読んだ当時は皇統の危機などという事態が発生するとは思いもよらなかった)などを念頭において本書を読み返してみると、著者が諧謔的に文章を構成しているにもかかわらず、真剣に検討に値する事柄が本書では述べられている(但し鎖国の話ではない)と思われる。
 最近刊行された学術論文集『「封建」・「郡県」再考』(張翔・園田英弘共編・思文閣出版)における「封建」と「郡県」という理念を巡る深みのある議論を見ると、アカデミズム(評者としては狭い学者の世界に留まらない時代の流れとでも言いたいところだが)が漸く著者の認識に追いついてきたという感さえ受ける。
 もともと著者は「民主体制の矛盾」に対する異議申し立てとして本書を著したのであろう。従って「封建主義大集会」(24頁)は別にしても、基本的に「封建主義」に基づく具体的な制度の構築についてのプランがあるわけではないのであろう。著者にとっての「封建主義」社会とは、例えば江戸時代の儒者中井履軒がその居室を「華胥国」と名付け、自ら「華胥国王」と称したような、己の書斎内の王国もしくは心の中の王朝であると思われる。
 しかし党派的にあえてレッテル貼りさせてもらうならば「現代儒家左派」である著者の論理から、現行の民主主義や人権思想におけるー儒学で好ましくないこととされるー名実不一致のあり様、いかに「民主」とか「人権」といった言葉がでたらめに且つ恣意的に用いられているかが理解できるのである。著者は「民主」・「人権」について「名」を正していくことを自らの使命としていたのであろう。


      ◎「封建主義」と世襲について
 著者以外にも保守系の論客には民主主義や人権思想に批判の目を向ける者は少なくない。彼らと著者とを分かつのは天皇制あるいは君主制一般に対する認識であろう。そこでこの問題から先に述べておきたい。
 意外に思う向きもあるかもしれないが著者は、封建主義は「むしろ世襲を忌むべきもの」(23頁)とし、「決して世襲制を主張しない(210頁)と述べる。激しい人権思想に対する異議申し立てから誤解されやすいのだが、著者はフランス革命や人権宣言には批判的であっても「革命」そのものは否定していないのである。この点が保守系の反人権・民主主義批判論と異なるのである。
 それはともかくとして、こういった修辞は漠然と世襲制イコール封建的、あるいは儒教的とする思い込みに対する批判としては全く意味がないとは思わないが、基本的には強弁としか言いようがない。民主主義の方が世襲に寛容であるとはっきり言えるのなら話は別だが、重要なのはいかなる形態の「権力」であれば世襲が許され、あるいは許されないかであって、何らかの世襲制の有無は民主主義と「封建主義」を分かつメルクマールとはなりえない。
 尤も王学左派やヘーゲル左派のように、先行する大思想のある側面が切り取られて一つの急進的な思想に衣替えがなされるという現象は思想史上よくあることであり、著者流の封建主義においては世襲が否定されるということなのであろう。
 確かに堯舜の禅譲譚が引き合いに出されているように、儒教理論から世襲絶対主義の否定を導き出すことは不可能ではない。故に著者が他所でははっきり述べるように世襲絶対の天皇制を否定するのは理論的には問題はない(注A)。
 因みに西方に目を向ければ、中東やヨーロッパの古典古代世界においては、例えば王政ローマのロムルスを筆頭とする諸王、帝政ローマの五賢帝、イスラムの正統カリフ等、非世襲の王権が存在した。また日本においても後述する海保青陵のような世襲制を批判した特異な思想家が存在した。
 しかし世襲制を批判すること自体はある種の民主主義者も行なっているわけであるから、これを封建主義の特質とすることはいかがなものか。呉智英流封建主義は結局民主主義だということになるのではないか。勿論「批判理論」としての封建主義の宣揚であっても一向に構わないが、民主主義が完璧な統治システムでないことは民主主義者もよく分かっているであろう。
 但し儒教の文脈から離れて見た場合、世襲否定論と反民主主義論は別に矛盾しない。言い方を換えると世襲を否定することがとりたてて民主的であるわけではない。これについて論じだすとモンテスキューやルソーに遡って説明しなければならなくなるのでここでは止めておく(著者は儒教に言及することが多いのでいずれ他の著述を取り上げる機会もあるかもしれないし、そこで論じればよいであろう)。ただ堯舜故事から非世襲至上主義を読み取るのは無理であることだけは指摘しておきたい。
 余談だが浅野裕一「郭店楚簡『唐虞之道』の著作意図」(『大久保隆郎教授退官記念論集 漢意とは何か』東方書店所収)は近年の中国における新出土文献の分析から、孟子以前において禅譲による王位継承、即ち堯舜がそうしたような時王が実子以外の賢者を後継者として指名することのみが賞賛されるべき継承方法であると考えていた学派が存在したことを想定している。
 しかし仮に浅野の『唐虞之道』の理解が正しいとしても、そこで礼賛されている禅譲は帝王の地位に関するものであって、諸侯位の継承についても視野に入れていると断定はできない。従って前近代の中国においても一切の世襲制を否定する学派は(注B)皆無に等しかったと考えられる(注C)。
 そこで著者に問うてみたいのは憲法14条(特に第2項)の規定をどう考えるかである(評者はできる限り著者の著作に当たってみたが見落としがあるかもしれない。他所でこれについての言及があったとすればご容赦願いたい)。同条には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。この書き方は社会の実態に照らして少し問題があるとおもうが「法の下に…差別されない」という意味ではこの通りであろう。勲章や栄典について述べている第3項についてもさし当たって問題はない。
 第2項には「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」とある。私は憲法学には疎いのだが、「民主的」な憲法観からすれば、14条と第1章の天皇に関係する諸条項(1条〜8条)は相容れないものと見做されがちであると思われる。つまり14条の理念を徹底させるならば天皇条項は否定されるべきとする考えに行き着くということである。
 天皇や皇族は国民ではないとされるから両者の整合性が保たれているのだが(しかし素朴な疑問なのだが皇族同様一般の国民と同等の権利を有しない華族・貴族ならばどうなのであろうか)、天皇家の藩屏としての華族を復活させたいと考えている者がいるとすれば14条は改正されるべきということになるであろう。
 しかし天皇制と14条を共に否定するという立場も理論的には成立する。これには2つの方向が想定される。1つには共和政ローマのように貴族は存在しても構わないが、王は不要とするもの。もう1つは貴族を肯定してなお且つ「皇位は、世襲のもの」(第2条)という理念を絶対とする君主制は否定するというもので、状況によっては皇族でない人物が帝王になることを許容するとするものである。
 著者は一応世襲否定のようであるから、貴族身分も否定するのであろうか、それとも「非民主的」な非世襲の貴族身分なら肯定するのであろうか。仮に職位の非世襲主義と人間の能力の不平等性を両立させる制度を追求していくとすれば、その帰結するところは学歴差別も一部包摂するメリットシステムの樹立ということになろう。著者が14条を肯定していかなる貴族制も認めないとすれば、その理想とする「封建主義」の社会はむしろある種の民主主義者の理想とするところと五十歩百歩ということになる。
 本書以外での発言からすると統治システムとしては普通の共和制でよいと考えているようだが、そうすると著者の「封建主義の核としての儒教」(66頁)は民主的共和制のすすめということになるのであろうか。
 因みに非世襲の君主制や貴族制を夢想した思想家が江戸時代に存在した。江戸後期の経世家海保青陵は実力だけがものを言う力士や碁士の世界が「天理」に適っているとし、天子や諸侯もそうあるべきだとした。当然堯舜の禅譲のみを評価して夏王朝以降の世襲には批判的である(平石直昭『一語の辞典 天』三省堂・63頁参照)。
 評者が読んだ限り、世襲に肯定的ではない点を除けば、青陵の思想に特に「民主的」なところは見受けられない。黄泉の青陵に現代の日本が見えているとすれば、彼は憲法第2条も14条も共におかしいと言うかも知れない。
 ところで、くだくだと古今東西の王権(論)について述べたのには理由がある。他でもない天皇制が危機に瀕していることと、東京一極集中の弊害が叫ばれる中でそれらへの対処として「封建」の概念を検討することは意味があると考えるからである(著者が「急進的儒家」だとすれば、評者は世襲を全否定しない「中道儒家」・「現代儒家中央派」といったところか)。
 前者についてはその危機が顕在化するのは半世紀近く後で恐らく著者も評者も鬼籍に入っているであろうが(注D)、妃であれ女帝の配偶者であれ、平民から皇室に入ろうという人物を見出すのが将来において困難を極めることは現時点でも予想がつく。
 従って日本の君主制における世襲至上主義が破綻する可能性を視野に入れながら未来の日本の統治システムを模索すれば、一つは当然のことながら共和制(大統領制)への道、もう一つは奇矯な意見であると言われるであろうが、世襲であるとは限らない君主制や貴族制(英明であるとの評判が高い人物が王や貴族の実子として存在した場合、海保青陵的な非世襲至上主義の立場は苦しくこれも採らない)を選択する道であり、評者は真剣にこれを考えている。
 著者に対して未来の日本の統治システムについて語ることを強要するつもりは毛頭ないが、単なる民主的共和制とは一味違う「封建主義的メリットシステム」について問い質してみたいのである。
 と言うのも、人権なるものの問題とも絡んでくるのだが、例えば天皇制(あるいは君主制一般)に反対する者のためにする議論として、皇族に皇籍離脱の自由がないのは基本的人権の理念に反するから天皇制(君主制)は廃止されるべきだといったものがある。
 こういった反天皇制論は身分移動の自由(憲法の文言で言えば「職業選択の自由」)がないことに対する批判としてはある程度有効かもしれないが、逆に私は王あるいは貴族として立派に務めを果たして行きたい、あるいはその自信がある、一代限りでもいいから自分を王・貴族として認めてもらいたいという人物が現れた時には説得力を失う。つまり皇籍離脱の自由がないことを以て不正義と見做し、これを是正しなければならないとした場合、「君主制」を廃止することが唯一の解決方法ではなく、もう一つの方法として皇籍離脱の自由を認める一方で、平民の「皇籍獲得の権利」も認めるというのも不正義是正方法である。
 現に保守派の中には櫻田淳『国家への意志』(中公叢書)のように「貴族」の復活を提言する者もおり(櫻田自身は勿論反天皇制の立場ではない)、もし「万世一系」の皇統を絶対視しないならばそれら「貴族」(評者は櫻田と違って女帝や「天皇制」には反対だが、彼の言う貴族の「復活」については異とするところが少ない)が帝王の地位を欲することを否定することは難しくなるであろう。
 勿論如上の新制度樹立のためには従来の近代天皇制に代わる君主制観が必要なのだが、これについては本書評で述べる事柄ではないのでここでは「封建」という概念がパラダイムチェンジに寄与しうる可能性があるとだけ指摘しておこう。


      ◎「民主」・「人権」両思想の名実不一致について
 民主主義批判や反人権思想の問題については、今では著者の主張に共鳴するところが多い。評者なりに著者の問題意識を敷衍すれば、現代における統治システムとそれをオーソライズする「名」との不適合ということになる。
 人が民主主義について語る時、暗黙の内に選挙制度や言論の自由といった実定的な制度としての民主主義を主に念頭に置いているであろうが、それには平等な人民の多数意見が国家や社会を動かすべきだとする、時に反君主政治・反貴族政治といった口吻を伴う理念としての民主主義とさらに人権思想とを含意しているとするのが平均的な認識ではないかと思う。
 従って一般に人権理念からして許容できない制度は民主主義ではないと考えられる傾向がある。奴隷制度を基盤としていた古代ギリシアの民主政は別にしても、ファスズムや共産主義・人民民主主義を「民主主義」ではないと考える人が多いのも、人権や言論の自由が保障されていないからだということになろう。
 しかしファシズムや共産主義は権力非分立型の民主主義というべきであって、それらを全く民主主義ではないということはできないことは言うまでもない。では先進国の大方の人々が民主主義だと考えているものは何かと言うと、それは今述べたのとは逆の「健全な権力の分立」という理念に尽きるであろう。
 “健全な権力分立体制”(分立の度が過ぎると無秩序に陥ることは贅言するまでもない)などと言うのは熟さないので便宜的に民主主義という言い方がなされるのだと評者は勝手に考えている
 選挙制度や立憲制あるいは人権思想や「〜の自由」にしたところで、それは国政の一端を古代・中世においては貢納するだけの存在であった民衆にも担わせようという富国強兵のための制度なのである。
      
 もう片方の「人権」というイデオロギーについては、大別二つの部分から成り立っていると思われる。一つは公権力の保護(あるいは一つの公権力からの保護)の対象となる実定的なもの。もう一つは一人一人の人間に備わっている「魂」のようなものとされるものである。私人どうしの闘争において後者の人権が適用される場合がある。
 前者のみを人権と称するのであれば単純に法律の問題であるから一応容認できないこともない(一時問題になった人権擁護法のようなものは論外だが)。しかし後者はそうはいかない。例えばチベット人の「人権」とイラク人や中国人・朝鮮人の「人権」は右翼と左翼にとって全くと言っていいほど異なる。極左に至っては日本人の「人権」よりも外国人のそれの方が重要とされることがある。
 このことからして「人権」の平等性の虚構なることは明らかなのであるが、右も左も安易に人権という言葉を使用することを止めようとしない。最近では(評者が知らなかっただけでずっと昔からあったのかもしれないが)“人権文化”なる意味不明の言葉も出てきている。
 結局「人権」なるものも、先述した「権力分立制」の一端として理解すべきで、本当は「人権」と言う必要もないのである。不当逮捕されたりデモや集会をして弾圧されたら「理不尽な」とか「義に背く」とかあるいは「天をも恐れぬ所業」と官憲や政府を非難すればいい(相手がファシストであればおとなしく抗議の声を挙げている場合ではなく武装闘争の準備をしなければなるまい)。
 権力構造の共同性や社会性を無視してあたかも魂の代替物であるかのように「人権」を振りかざすからおかしなことになるのである。甚だしきに至っては、死刑制度は二重に人権を侵すことになる(つまり加害者に殺害された人権と加害者の人権の二つ)から反対だ、といった珍妙な理屈も出てくることになる。
 旧版を読んだ時はそうは思わなかったのだが、今では評者は「人権」・「民主」といった概念は用いる必要がないと思っている。同書あるいはこれに類する民主主義批判論に対して浴びせられがちな反論として、民主主義の代わりとなるものがあるのかといったものがある。しかしこれは人々が暮らしやすい豊かな国・社会の確立という問題と、それを実現するための「名」の立て方の問題を混同した反批判である。
 これについてはまず、“権力”とは何かについて(権力論については著者も推奨するフィンガレットの『孔子―聖なる俗』が簡潔で分かりやすい。フーコーの著作などは評者には難解すぎて理解できない)詳細に議論すべきである。その上で「民主」・「人権」に拘る者がいても構わないが、それによって新しい展望が開けてくるということは恐らくないであろう。
 私は先述した「権力分立制」あるいは『礼記』礼運の「大道」(注E)を、民主主義・人権思想に替わる「封建」の理念として提示する。評者は著者とは「党派」を異にするが、その影響を受けた一人であることを謝して同書評の結びとしたい。

         
          (注)
@ 因みに評者は著者とは違って原則として「支那」・「シナ」という表現は用いず、「中国」・「中華」で通している。理由は三つある。一つは評者が荻生徂徠や太宰春台 に私淑していることによる。二つには台湾独立問題との関連である。すなわち今日では 「中華」・「中国」はチャイナと同義語の漢語表現として定着しており、古典的な意味 でのみこれらの語を理解すると台独派の国名改正運動は意味がないということになって しまう。三つ目の理由については詳しく説明しだすと長くなるのでここでは述べない。 さし当たって岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書)210〜217頁を参考 文献として挙げるにとどめる。従って評者は、中国人自身が「中国」・「中華」という 呼び方はもうやめてくれと言ってきたとしてもやめない。
   
A ここでは詳述しないが評者は著者とは違った観点から「天皇制」なるものには反対である。なお著者の「封建主義」とは別に、天皇制と封建制は非親和的な関係にある。倭 の五王や継体天皇の時代はいざ知らず、隋唐の律令制を手本に国家を形成した古代天皇 家は封建制を軸にした統治体制を採用したことがない。天皇が封建制における首長であ ったのは徳川幕府崩壊から廃藩置県までの僅か4年程である。

B 統治のあり様として「封建」か「郡県」かが問題となる場合、前者を是とする論者でも必ずしも世襲容認を主張するとは限らない。しかしそれは専ら地方官の世襲の是非に 関する議論であって、帝位の世襲については封建派も郡県派も本音はともかくとして当 然容認する。

C 但し『唐虞之道』の作者が堯舜の世には諸侯は存在せず、例えば後世の秦王朝のような天子と官僚とその支配下にある人民のみとからなる統治システムを採用していたと考 えていたとすれば話は別である。

D 評者はたとえ女帝や女系継承を認めたとしても、配偶者選びの困難さから男系継承を堅持した場合と比べて皇統断絶の危機の度合いにさほど大きな違いは生じないと考え  る。なお女系継承に反対する者が、これを易姓革命=中国的王朝交替と結び付けて論じ ていることがあるが、実際には女系継承による易姓革命など存在しないし、そもそも中 国では皇女が天子に即位するということがなかった。

E 孫文は礼運篇に描かれた大道の世界における「天下為公」を民主主義と同義と見做したが、私はむしろこの語の後に「選賢与能」と続くことから、帝位も含めた賢人登用主 義を象徴する語として理解している。
(双葉社・1996年)(6月24日・平成21年4月27日加筆訂正)
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2008/6/18

日本漢詩文と和習  評論

 優れた中国文学研究者は日本の漢詩文における和習(和臭)に手厳しい。例えば高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)は日本人の漢字信仰を揶揄する箇所で、頼山陽の『日本外史』の一節を引用しつつ、なぜそれが漢文で記されているかと言うと「文章に日本のかながまじるのは格が低い、漢字ばかりだと中国の人が書いたのと同じに見えて上等だと思っているのである。」と述べている(同書121〜122頁。歴史叙述に決まった文体があったわけではないからこういった評価はどうかと思うが)。
 また福本雅一『読書の詩 上』(アートライフ社)は一条天皇・菅茶山・月性・会沢正志斎等六人の勧学詩を紹介して「いずれも和臭紛々たる凡作で、我われ下愚の発憤を促すに足りないが」云々と独特の嫌味な文体でコメントしている(同書173〜176頁)。
 『日本外史』と本邦の史書の文体については後ほど言及するとして、漢詩文において和臭を極力避けねばならないことは言うまでもない。尤も高島や福本のような漢語に精通する優秀な研究者ほどむしろ漢詩文など妄りに書かないのであろうが、恐れを知らない私は蛮勇を奮って詩文に精を出している。
 和臭には大別して二種類ある。一つは和製漢語を用いるもの。もう一つは、意味は一応通じるものの文脈上適切でない字句を使用してしまうものである。これ以外に、初心者が詩語や古文の語として熟さない漢語を用いるのも一種の和臭と言えようが、これは中国人でも起こりうることであろう。
 因みに私は和歌や俳句にはあまり詳しくないが、和語であればどんな字句や言い回しでも問題はないということは恐らくないであろう。
 ところで和製漢語の使用は注意すれば避けられるが、文脈にそぐわない漢語を忌避することは日本語を母語とする者には至難の業である。辞書的な意味からすれば間違いとは言えないが、中国人の言語感覚からすれば不自然だという表現を理解するのには余程の漢語力の持ち主でなければなるまい。
 ただ一口に「文脈」と言っても色々あって、その語が使用されている状況や背景に目を向ければ、こういう状況ではこの語句の使用は相応しくないということが判断できる場合がある。
 例えば作詩初心者が、友人や慕っていた人の訃報に接した時や亡くなった人を追憶する時にしばしば「呑声」(声を呑む)という表現を用いることがある。日本人は知己・親族の死や葬式の際にも号泣・慟哭することは必ずしも多くはないだろうから呑声という言い方が好まれるのかもしれないが、普通に泣いて問題のない場面を詠むのには「哭」や「泣」を用いるべきであろう。
 杜甫の「哀江頭」冒頭に「少陵野老呑声哭」とあるが、これは安史の乱時に賊軍の占領下にある長安において詠まれたものである。背景に留意すれば普通に「哭」せない「呑声」であることが分かる。
 以上先学の所論を引用しつつ述べたことは、日本人がつくる漢詩文の和臭に関する問題の指摘である。一方で詩に限ったことであるが、高島や福本のとは正反対のタイプの批評がある。
 現代の漢詩人として優れた作品や作詩指導書を著した太刀掛呂山は、荻生徂徠の詩について「京都や江戸の詩がまるで長安の大道で、完全にシナ風の模擬詩ばかりなので失望して見ぬことにした」云々と述べている(『漢詩作法入門講座』名著普及会・262頁)。これは徂徠詩の「華臭」に対する批判とでも言うべきであろうか。
 もとより太刀掛の気持ちも分からなくはない。ただ中国の都市と日本の都市とでは風景が異なるからと言って後者を詠むのに妄りに造語したり、漢語として不自然な言い回しに走るのは避けるべきである(太刀掛の作品がそうだと言っているのではない)。尤も日本人である限り和臭が生じるのは仕方がないとして開き直るのであれば話は別であるが、それを避ける努力をしないのならばしばしば指摘されるように漢詩文以外の表現方法に頼ればいいのである。
 「シナ風」を嫌う太刀掛は、江戸時代の詩としては菅茶山・広瀬淡窓・頼山陽・梁川星巌等のものを推奨している(同書416頁)。これにケチをつける気は毛頭ないが、興味深いことに漢文の国史叙述においては逆に「シナ風」の史観が和臭を生じさせているではないかと思われる節がある。
 『日本外史』や『大日本史』に目を通してその文章にどことなく違和感を感ずる人は少なくはないのではないかと思う。但し前者については吉川幸次郎『漢文の話』(ちくま学芸文庫他)において、山陽の文章を激賞した中国人として清朝末期の譚献の存在が指摘され、全くの無傷ではないにせよ中国人には読めない漢文であると言うのは誤解だと評されている。
 因みに最初に触れた高島『漢字と日本人』が引用している『外史』の一節は「外史氏曰く、余将門の史を修して平治承久の際に至れば…」(訓読は高島のもの)で始まる巻之五新田氏前記「楠氏序論」の一部であるが、私が見る限り文法的におかしいところはない。しかし私も高島と違った意味で(高島は「どこがどう滑稽なのか、説明せよ、と言われても、それはできない。」云々と記している。同書123〜124頁)、つまり漢語としてどうこうというわけではないのだが『外史』(や『大日本史』)の文章に違和感を抱くのである。
 その違和感はどこから来るかと言うと、『外史』にせよ『大日本史』にせよ武家政権の時代=公武二重王権の時代を正史もしくはそれに準じた体裁で叙述しているところからではないかと思う。
 仮に私が鎌倉〜江戸時代の歴史を漢文で記すとすれば、『国語』や『戦国策』あるいは正史ならば『三国志』の構成に倣って公家(京都朝廷や南朝)と武家(幕府)さらには有力戦国大名をそれぞれ独立した王朝として扱うであろう。複数の王朝を並列させることが許されないとすれば、室町からは「足利王朝」が成立したと見做し、以下織田・豊臣・徳川各王朝の興亡を描いて、建武政権より後の天皇(幕末の孝明天皇まで)については「室町本紀」に先行する「倭本紀」の末尾に記述するか、「山城天皇世家」として纏めるであろう。
 先に引用したように山陽は「将門の史」という表現を用いている。現代語訳すれば、「将軍家の動向についての史料」ということであろうが、私ならば幕府も戦国大名もそれぞれ一つの王権として認めるから、殊更に「将門の…」という言い方はしないであろう。そもそも単に「史を修して平治承久の際に至れば…」と記していないのは、「非将門」(即ち日本史における武家と並ぶ“公家”)の「将門」に対する優位を念頭に置いているからだと思われる。
 『外史』や『大日本史』は複数の王権の屹立という現実に対してあくまで天皇を唯一の帝王と見做すという前提で書かれているために、どうしても全体に武家の専横や下克上を慨嘆する口調となり、読む者をしてどことなく不自然な歴史叙述であるという印象を抱かせる。もとより皇国史観を信奉する者にとってはそうでもないのであろうが。つまり春秋戦国・魏晋南北朝・五代十国といった分裂時代(これを「分裂」と見做すのもある種の強固な史観の賜物であるが)を除いて中国史においてはありえない複数王権の並立のあり様を、敢えて一君万民的な正史の形で記述しているために武家の棟梁の扱いに苦慮して全体の構成に無理が生じるのである。
 文章以前の問題だが、『大日本史』が「将軍伝」とか「将軍家臣伝」といった列伝を立てるのに私は感覚的についていけない。日本人は“将軍”や“執権”といった名称で実質的には王である武家の首長の地位を連想する。日本史好きなら「ショウグン」・「シッケン」といった音で単なる一軍団長や貴族の執事のようなものを思い浮かべないであろう。
 しかし漢文脈で「将軍」とか「将軍家臣」といった文言に接すると、一司令官や幕僚長のようなものであると錯覚してしまう。故に一つ一つの字句はれっきとした漢語だが、描かれている状況が“特殊”なので何か「漢文でない漢文」読まされているような気分になるのである。 
 儒教文化圏に馴染みの深い言葉で表現すれば、「封建」の実態を「郡県」として描こうとしたと言ってもよい。武家政権期の日本史を漢文で記したものを読んだ時の違和感はこのギャップから来るものではないだろうか。実質的には王である有力武家がどこか郡県制下の武官のように記述されているが如く感じるのである。(6月19・20・21日加筆訂正。文中敬称略)
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2008/3/26

[書評]小島毅『靖国史観』ちくま新書(筑摩書房・2007年)  評論

 本書に関してはネット上の諸サイトで既に紹介・論評がある程度成されているし。あるいは学術雑誌で論評されることもあるかもしれない。当ブログで本書を取り上げるのは、靖国に対する見方がユニークであるからに他ならない。個々の論点については首肯しうる見解が多い。
 ただ著者と評者とでは恐らく戦争観や対中国観あるいは儒教感に大きな違いがあり、そこからくる本書の叙述の端々における読後の違和感を拭い去ることはできない。
 評者はもともと靖国問題には外交問題(対中国・韓国問題)としての側面と、国内問題としての側面との二つがあると考えている。
 「国内問題」としての靖国問題とは、具体的には政教分離のあり方、皇室と靖国との関係といった問題もさることながら(尤も憲法の政教分離規定による総理大臣の靖国参拝批判は論外だと私は思っている。但し将来生じるかもしれない自衛隊=新国軍の戦死者に対する祭祀を、靖国に委ねるなどということを勝手に政府が実行すべきではないと評者は考えている)、本書と関わるのは明治維新という事件をどう考えるか、特に「薩長史観」に対する評価の問題である。さらにもう一つ著者の専門とも密接に関わる、日本における伝統的な諸宗教、すなわち神道・仏教・儒教と靖国との関係についてである。
 著者は靖国神社に批判的であるのだが、これまでに見られた左翼・親中派・「戦前敵視派」の反靖国本(反靖国派が親中国であるとは限らないが)と一線を画するのは、従来あまり論じられることがなかった薩長史観や儒教思想と靖国制度の関係について焦点を当てているところである。
 そのこと自体は全く問題がない。しかし「私は靖国問題とはすぐれて国内的な問題だと考えている。」(15頁)というのは少し言い過ぎで、右に述べたような外交問題としての靖国問題を看過していいことにはならない(公平を期するために付言しておけば右翼・保守派・反中派等の靖国擁護派は国内問題としての靖国問題に無頓着である)。著者は近著『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)において憲法9条を是とするような発言をしている(同書19〜20頁)から基本的には薩長史観や靖国と儒教との関係如何に関わらず、大東亜戦争肯定史観的な言説には反発を感じるタイプなのであろう。
 だとすれば、「おわりに」において「近藤勇を東京裁判よりもひどい一方的な断罪で復讐刑的に斬首し」云々(196頁)とか、「靖国神社は、徳川政権に対する反体制テロリストたちを祭るために始まった施設なのだ。彼らに比べれば東条英機のほうが人格的にはずっと高潔で立派である。」(197頁)といった記述はどこか欺瞞的に感じる。
 著者はアイロニカルに述べているつもりなのかもしれない。すなわち東京裁判史観や「A級戦犯」という概念が勝者の裁きによって齎されたものに過ぎないから否定されるべきだというのであれば、靖国だって勝てば官軍の理屈で設立されたものではないかと。東京裁判を勝者の復讐と批判するのであれば靖国も同じ論理で批判されるべきだと。
 しかし勝てば官軍の薩長史観を疑うことと、中国や韓国の正統性に加担することは同義ではないはずである。
 私も出発点が討幕派戦死者のための施設であった靖国神社の、今日における対戦死者祭祀施設としての性格には問題があると思っている。しかし言うまでもなく佐幕派の人々は中国や韓国のために戦ったわけではない。また旧佐幕派の人々といえども明治以降の国力発展の恩恵を被っているはずである。
 従って薩長史観や今後の靖国や対戦死者祭祀施設のあり方は別にしても、日清・日露や大東亜戦争を戦って命を落とした人々には素直に感謝の念を捧げてもよいであろう。その意味では私は総理大臣も含めて靖国に参拝したいという人を止める権限は誰にもないと考えている。靖国に冷淡であっても一向に構わないが(かく言う評者も靖国という建築物に対して格別なシンパシーがあるわけでない)、中国に抗議されたから参拝を自粛するというのは少なくともよくないであろう。
 そうだとすれば著者は「いわゆるA級戦犯問題は、私にとってはどうでもよいことである。(中略)この案件は靖国問題の本質でもなんでもない。(中略)靖国神社は勤王の志士たちを顕彰・慰撫するために創建されたのだ。そこにこそ靖国の本質がある。」と突き放す(引用文後段の「靖国の本質」についてはその通りだと思うが)のではなくて、中韓両国の無礼をたしなめる一言があってもよかったのではないか。
 尤も私は中韓両国が首相の参拝問題で騒いでくれたことを感謝している。そのおかげで靖国に対する内外の関心が高まり、日本人が靖国を見つめ直すきっかけともなったからである。本書がその一つの成果であることは言うまでもない。
 因みに私は今後自衛隊(将来の新しい国軍)から不幸にして戦死者が出るような事態になった場合は、その鬼神を今となっては一宗教法人に過ぎない靖国で祀るのは反対である。ここで詳細を述べる余裕はないが、必要であれば憲法20条も改正して、新しい対戦死者祭祀施設を創設すべきである。国家のために戦って亡くなった者を祀る権限は国家が原則として独占すべきで、もしも民間の団体や宗教法人がめいめいで戦死者を対象とした祭祀を行なえば、日本のように無数の新興宗教が存在する中ではかえって混乱を生じさせるかもしれないからである。
 それはともかくとして最初にも述べたように、著者の戦争観や中国観を別にすれば本書で述べられていることはそれほど間違った内容であるとは思われない。ただ第三章の「維新」の概念に関するところだけ瑣末なことながら少し気になった点がある。
著者は、明治維新がと明治革命と称されないのは、討幕派が王朝交替ではなく「王政復古」という形式を採用したかったからだという意味のことを述べている(157〜158頁)。
 京都の公家衆や国学者あるいは水戸学的な皇国主義系の儒者にとってはまさにその通りであろう。またこれとは別に「御一新」という言い方もあり、こちらは単に大きな変革がなされた、といったニュアンスで受け止められていただろうから、「維新」という語もこれと混同して称されていた可能性もあるだろう。
 ただ著者も言うように(157頁)、儒学者・漢学者にとっては「維新」という語は王朝交替の意味で用いられていたのであろう。
著者は「維新」について『詩経』(および『大学』)の文言に遡って検討しているが、もとの文脈においては周が「旧邦」であるという認識はあるものの、周王朝の成立が「復古」であるという認識は示されているようには見えない(但し『論語』憲問に「禹稷躬稼而有天下」という文言がある。「稷」というのは一般に周の遠祖である后稷のこととされているから、「有天下」という文言が王として天下を領有するという意味であるとすれば、孔子の頃には稷が王=天子であったという伝承が存在した可能性も否定できない)。
そもそも「維新」という語は、江戸時代にあってはー京都朝廷の代替わりや改元サイクルの「維新」は別にしてー儒者の間で徳川氏が豊臣氏に代わって政権を掌握したことを表現するものとしてまず登場している。
 例えば荻生徂徠門下の漢詩アンソロジーである『ケン園録稿』の序(平野金華執筆)に「慶元維新之政」という表現が出てくる。「慶元」というのは関が原戦と大坂の陣が行われた時の年号である慶長と元和の略である。金華は徳川家康が豊臣氏に取って代わって名実共に天下人となったことを「維新」と表現しているのである。因みにこれに先行する新井白石『藩翰譜』凡例には家康の天下取りを「維新」とは表現してはいないが、「関が原の戦終て後、天命一たび改りて」云々とある。
 サンプル数を増やしてみないと確定的なことは言えないが、江戸儒者にとっては殷周革命に類する事件(ここでは「豊臣徳川革命」)が「維新」であるとする認識があった可能性がある。従って武力を伴っていた明治維新によって打倒されたのは「徳川王朝」であるという認識は漢学者系では一般的であったとしても不思議ではあるまい。
 なお白石の『折たく柴の記』には「其命維レ新」という文言が主君の徳川家宣に対して徳を積むことを期待する文脈で出てくる。こちらは王朝交替の意味の「維新」とも王政復古のそれとも異なる中興の祖に関する「維新」であろう。こういう用法もあるものの、天皇家における中興の祖とでも言うべき後醍醐の討幕を「(建武)維新」と表現した例を評者は見たことがない。これは建武政権が短命に終わったということもあろうが、鎌倉幕府が江戸時代の識者には王朝と認められていなかったからではなかろうか。
 このように体制や人心が大きく様変わりすることを江戸儒者は「維新」と表現していたわけだが、ではなぜ明治維新は「(明治)革命」と呼ばれないのだろうか。これは薩長主体の「討幕」が「放伐」であると漢学者達が認識していたからではないだろうか。「革命」は広く王朝交替一般を指す言葉で、禅譲か放伐か手段は問われない。戊辰戦争は江戸城攻撃こそ回避されたものの、京都以西では広範な戦闘があった。これは放伐と認識せざるを得ないであろう。
 尤も「御一新」との混用、王政復古としての「維新」、放伐としての「維新」といずれか一つに収斂させてしまうのは適切ではないだろう。さまざまな立場の人がそれぞれの思想信条から維新という語を使用していたのであろう。
 なお本書は、その性質上皇国史観批判という側面も有しているが、上引した靖国に祀られている討幕派人士を反体制テロリスト呼ばわりする(この指摘そのものには共感する。評者は厳しすぎる面もあったとは思うが安政の大獄は正しい措置であったと思っている)薩長史観批判的な言説は、靖国を貶めるための単なるダシに使われているとしか思えない。
 これに関連して評者がひっかかるのは、著者が明治維新・近代天皇制が直ちに対外侵略の論理を生み出したと見做している(55〜56頁)点である。
 近代日本が共和政体あるいは徳川王朝主体で出発していたとしても果たして半島・大陸へ進出することを避けることができたであろうか。評者にはそうは思われない。それは後期水戸学の論理とは無関係に行われたであろう。
 従って明治維新の評価(徳川に同情して維新を否定的に見るということ)と、近代日本の海外進出に対する評価は切り離して考えなければならない。近藤勇の不当処刑に憤る立場からしても靖国を全面的に否定することは難しいのである。
 靖国神社が東京裁判同様勝てば官軍式の論理で創設されたものではないかと異議申し立てをしたいのであれば、討幕派の戦死者の合祀をやめろと言ってもよさそうだが著者はそういうことは主張しない(靖国神社が一度合祀した者は分祀したり廃祀したりすることができないと主張しているのは理論的には誤っている。ただ現行制度下では政府命令でそういったことはできないというだけである)。因みに評者は「徳川王朝派」として討幕派史観の正当性は認めない(従って全面的に靖国制度を礼賛することはない)が、東京裁判の正当性も認めない。故に中国・韓国に対して「戦争責任」なるものを感じて遠慮することがあってはならないとも思っている。
 もし著者が徹底して徳川王朝にシンパシーを寄せ、民主主義も批判して「反革命」の立場を明らかにして、「民主的な宗教施設」(91頁)である靖国(評者はその「民主的」なところに問題があると思っている。なぜ被祭祀者は皆等しく「〇〇命」なのか。「陸軍大将東条英機」とか「土佐郷士坂本直柔」ではなぜ駄目なのか。この神道式とされる方法は実はキリスト教の影響を受けているのではないのか)を否定するというのなら話は別である。しかし評者には著者がそこまで覚悟して本書を執筆しているようには見受けられない。先に本書の論調に対して「欺瞞的」と評したのはこういった著者の曖昧な姿勢からくる印象も含めてのことである。(なお当ブログで変換できない漢字はカナ書きとしています。3月27日・28日・29日、4月4日・6日、12月1日加筆訂正)
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