2015/4/18  13:46

Person of Interest(パーソン・オブ・インタレスト)にはまってます。  海外ドラマ:フレンズ他

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久々に海外ドラマにハマってしまいまして...(いや実は見始めたのは去年なんですが、加速度的にハマってきて。)

ずっと前に、自分の「萌えツボ」を↓のように定義したのですが...

http://navy.ap.teacup.com/kumiko-meru/229.html

「一見、弱々しいインテリのお兄さん(おじさんでも可)が、暴力的世界に巻き込まれる(または、致し方ない事情で自ら飛び込んでゆく)話が好きです。

そのお兄さんが意外と強かった、というのもよし、頭の良さで危機を乗り越えるもよし、ボロボロになりながら根性だけで突き進むもよし。

その世界のプロである、見るからにタフな別のお兄さん(おじさん可)が、彼を密かに(またはあからさまに)心配し守ってくれていたりしたら、もっと嬉しいです。」

このドラマはまさにずばりこれで、変わらんなーワタシの好みは、と思ったり。

と、キャラクター設定がいいのはもちろん良いテレビシリーズの第一条件ですが、これは全体のストーリー展開もいいんだよなー。

第一〜第二シーズンは、アクション主体で犯罪捜査モノとしての側面が強いのですが、とんでもなくスケールのでかいSFとしての物語の枠組みはがっちりあって。

いや、でも、「すべてを監視している政府システム」っていう設定は現実に近すぎて、SFであることをつい忘れてしまうんですが。

第一話でフィンチさんが(なぜそれを知っている?と聞かれて)「私が作ったからだ。」と、さらっと答える、その一言のとてつもなさが、最初はあまり意識されないのに、シリーズが進んでゆくうちにじわじわと分かってくるあたりが、たまらんです。

これが映画なら(または8話完結とかのミニシリーズなら)まっしぐらにそちらの展開だけになるところなんですが、テレビシリーズなので、一話完結の部分でしっかり楽しませつつ、キャラクター・ディベロップメントを深めつつ、じっくり展開してゆくのがテレビシリーズならではの醍醐味。

...とは言え、ハマると待てなくて1シーズン分ぐらい一気に見ちゃうのがワタシなのですがw

第一話はHuluで無料で見れますんで、見てない人にはとにかくおすすめしたいです。

http://www.hulu.jp/watch/590481

2015/2/20  19:39

フォックスキャッチャー  映画感想 2008年〜

「アメリカ的拝金主義」とか言うけど、アメリカは拝金主義なんじゃなくて成功至上主義なんじゃないか、と前にも書いたことがある。ジョン・デュポンは金はあるけど、それは家族から相続しただけで、自分の力で成功した結果じゃない。アメリカ基準では、デュポン氏は本来ルーザー(負け犬)なのだなあと、この映画を見ていて感じた。

アメリカ映画には勝者と敗者の対比を描いたものが多く、特にスポーツの世界を描いた映画ではそれは避けて通れない。勝者がいろいろ葛藤するのをシリアスに描いたり、負け犬が奇跡的に勝者になるのを痛快に描いたりするのだけど、実際には勝者と敗者の区別というのは残酷なほどはっきりしているのがスポーツの世界。

オリンピックの金メダリストであるシュルツ兄弟は、ビンボー家庭出身でも、性格がジミでも、いろいろ葛藤を抱えていても、まぎれもない、ゆるぎない勝者なのだ。デュポンはスポーツで挫折し、ビジネスでも(多分)大して才覚なく、コミュ障気味で容姿も良くない。

それでも上流階級の篤志家で、鳥類学者として博士号持ってるぐらい頭も良いので、その世界で満足していれば、それなりに尊敬を集めて優雅に暮らせただろうに。あえて勝者敗者がはっきりしたスポーツの世界にのめりこんでしまう。アメリカ的男性的価値観ってやつなのでしょうなあ。

それでも、本人が「俺はいろいろダメだが、幸い金はあるから、ハンデは金の力で埋め合わせて幸せになるぜ!」ぐらい自覚していれば、自分もハッピー、まわりもハッピーだったろうに。

まわりに人が集まる(というか集められる)のも、立ててもらえるのも、金の力であることは明らかなのに、必死で目をそらし、自分自身の指導者としてのカリスマだと思い込もうとするその様子は滑稽で、痛々しくて見ていられない。これがコメディだったら、スティーブ・カレルは真顔の悪役演技で大いに笑わせてくれただろう(いかん、怪盗グルーとか思い出した。)

ここでいつもの私の癖で、何の共通点もない(たまたま私が続けて見たという以外には)映画を引き合いに出しますが...

考えてみればジョン・デュポンさんの立場って、ベイマックスのフレディ君と同じですよね。デュポン氏はレスリング、フレディ君は科学が好きで好きで、でも自分には才能がない。それでも好きが嵩じてレスラー/科学者の仲間に入り、天才たちに囲まれている。(おまけに、フレディ君も実は大金持ちの息子。)

同じ立場でも、フレディ君はとても楽しそうに毎日過ごしている。お金の力で科学者たちに恩を売ろうとか、上の立場に立とうなんて考えつきもしないみたいだし、仲間たちも、「君は科学者じゃないからここにいるのはおかしい」なんて言わないし、ふつうに友達として接している。

いや、デュポン氏のことだって、レスラーたちは「金を出してくれる人なのでイヤイヤつきあってる」ってわけじゃないんだ。気前が良く面倒見のよいスポンサーの彼を、仲間として受け入れているし、「サーなんて堅苦しい、ジョンと呼んでくれ」と言われれば屈託なく「やあジョン!」と呼びかける。

でも、デュポン氏の「ジョンと呼んでくれ」は、本当に対等に友だちとして付き合いたいという意味ではないのよ。「あくまで上の立場の者が、目下の者に対して寛大さを発揮している」というつもりの「ファーストネームで呼んでくれ」なのよね。

そう、彼はレスラーの仲間、友達になりたいわけじゃない。あくまで指導者として尊敬されたい。人生の師(メンター)と思ってほしい。

それは無理な話なんだけどね。スポーツ選手ってのは、一流になればなるほど、競技において自分より実力が上の人しか尊敬しない。皆が人格者と認める大先輩であろうと、ファンには人気の伝説的スター選手であろうと、実力が下の人を本当に尊敬はしない。これはもう、残酷なほどはっきりしている。まあ、そりゃそうだよね、どんなスポーツであれレベルはどんどん上がっているのだから、ビデオで過去の試合を見たって「自分の方がずっと上手くできる」って思っちゃうものね。

まあ、選手としてはいまいちだったけど指導者としては超優れている人もいるし、そういう人は選手も尊敬するのだろうけど、それにはよっぽど実績がないと。デュポン氏が、なぜよりにもよってスポーツの世界で「精神的指導者」「人生の師」などという中身のない曖昧な言葉で「偉大な自分」像を作り上げられると思っているのか、いまひとつ良く分からない。

分からないけど、それは彼の「愛国者」的側面と結びついているような気がした。結果が日々シビアに表れるスポーツの世界と違って「この国の若者を導く」とか「アメリカの精神を体現」とかは中身のない曖昧な言葉。自分が「アメリカ一のレスリング指導者」だと言えば明らかに嘘だが、「レスリング選手の師となることを通じ、アメリカの若者を精神的に導く偉大なメンター」ならば...

まあ、アメリカ的価値観、アメリカの愛国主義と、アメリカアメリカ言ってますが、曖昧で中身のない言葉で偉大な自己像をでっち上げる、って点じゃ日本の「愛国者」も同じようなもので。むしろ、デュポンがヘリコプターの機上で、マークに自分を褒め称えるスピーチの練習をさせるシーン、自分を褒め称えるドキュメンタリーを作らせるところ、あの「必死やな(笑)」なことろは最近日本で大流行の「日本sugeee!」的テレビ番組と重なるところがあるような。

デュポンがクローゼットゲイで、マークを潜在意識的に愛していたのではないかという感想も読んだけど...可能性としてはあるにせよ、この映画の描写からは、私はそれはあまり感じなかった。むしろ、「そうだったら、なんぼか救いようがあったのだろうけどなー」と思う。

デュポンが愛していたのは、現実には存在しない理想の自分だけ。どんだけ悲しいねんそれって。
タグ: 映画 俳優 foxcatcher

2015/1/15  22:55

年末年始にうちで見た映画感想  映画感想 2008年〜

トシは取りたくないもので、近頃、見た映画の内容を忘れがちなんだよなあ。その防止策としては、短くてもとにかく感想を書くことが有効なようなので、あくまで自分のために書いておきます。

「きみに読む物語」The Notebook

あらすじ:記憶を失った認知症の老女性に、ある恋人たちの物語を聞かせる老人。

アメリカドラマ等で、女性(あるいは、ひそかにロマンティストの男性)が好む映画としてよくリファレンスが出てくる、Chick Flickの「名作」ですが、実は今まで見ていなかったので、見てみました。

で、思ったのは...私は同じチックフリック(「女好み」映画)でも、ロマコメはこんなに好きなのに、コメディでないマジな恋愛映画って意外と苦手なんだなあ、ということでした。

特にこの映画は、夢のようにロマンティック、なのでしょうか?現代パートのシビアさは、かなりこの...このヒーロー・ヒロインのような、言わば究極のリア充で、しかも金持ちであっても、病気ひとつで、こんなにも苦しく辛くなるのだなあと。しかも、数万人にひとりの難病とか、数奇な運命のいたずらとか、戦争の悲劇であれば、見ているこっちはあまり現実感ないのですが、この映画で描かれる老いというのは、平和な時代のフツーの人にも、かなりの確率で襲い掛かってくるものでなあ。

それでも、この二人が最高に幸運で最高に幸福であるのは確かで。なんか、「幸せな人ですらこんなに辛いのに、幸せ度がぐっと落ちるおいらの老後に救いようはあるのか?」とか...

あああ何てロマンティックと程遠い感想(笑)。



「チョコレートドーナッツ」Any Day Now

あらすじ:1970年代、ゲイカップルが母親に捨てられたダウン症の子供を引き取るが、ゲイであるがゆえに養育権が認められない。

一方こちらは、間違いなく不運で不遇な人たちのとっても辛い話なのですが、意外と後味は暗くない。

この映画の原題は「Any Day Now」というのですよね。訳すと「もうそろそろ」とか「その時はもうすぐ」という意味。

「ミルク」とか「遠い夜明け」とか見たときもそうだったのですが、主人公たちが差別や社会の不正義と全力で戦うが、力及ばず、時代は間に合わず、主人公たち個人にとっては不幸に終わる。でも、映画はハッピーエンドにならなくても、その戦いがムダではなく、その後の時代には確実に実ってくるのを私たちは知っているから。

しかし、この邦題は、いくらなんでもなあ。辛い主題を扱った映画であることは隠しきれないので、せめて、その辛さも優しくかわいく描いていますよ、というフリをしたかったかもしれんが、いくらなんでも観客を「スイーツ」扱いしすぎだろう。


「グランド・ブダペスト・ホテル」Grand Budapest Hotel

あらすじ:今は寂れた東欧の高級ホテル。宿泊した作家に、ホテルオーナーが語る第二次大戦直前に起こった数奇な物語。

一方こちらは、実は壮大なる悲劇(※)である話を、本当に優しくかわいくclassyに描いた映画。

かつてヨーロッパに存在し、二つの大戦を通じて崩れ去った世界...現代のわれわれがヨーロッパ旅行に行って、その遺跡というか残滓というか欠片を見て「わーすごいなー素敵だなー」と思ったりする世界を、ミニチュアに再現してピンクの箱に入れてリボンをかけたような...

ひたすら左右対称な画面とか、美術の凝りようを見ているだけでも楽しいですが、役者見物も楽しいです。レイフ・ファインズはもっとコメディやればいいのになあ。こんなにウマいのに。

※参照:http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20140604
タグ: 映画 俳優

2014/12/9  22:12

HER/世界でひとつの彼女 ☆☆☆1/2  映画感想 2008年〜

久々に、ツイッターでなくブログに映画感想を書くことにしました。

レンタルで鑑賞。

思った以上に、いろいろ面白い映画でした。

以前、「魔法にかけられて」の感想で、「恋は目と目が合った瞬間に生まれるものではない、本当の恋は会話を通じてお互いを知り合うことでしか生まれない−ということを描くことで、かつてのディズニーアニメにアンチテーゼを提示している」と書いたのですが...

「Her」を見て面白いと思ったのは、これは逆に「ヒーローとヒロインが出会い、会話を通じてお互いを知り合うことによって恋に落ちてゆく」という数々の恋愛映画に対して、その極端な例を提示することで疑問を呈しているようにも思えたことです。

恋愛は言語的なものか。恋愛に限らず、人間の感情というものは、「愛している」「怒っている」などと言語で表現しないと、認識できないことが多いですよね。でも、言語で表現することはその感情の「本体」なのでしょうか。

もし、恋愛が純粋に言語的なものなら...愛の「本体」が言語表現とイコールなら、会話のできるコンピューターと人間が恋愛したって何もおかしくないわけで。

主人公の職業は手紙の代筆。自分が経験しているわけではない他人の人生/愛/感情を言語表現することで、その人生を実際に経験している人々をも感動させている、というのもダメ押しのメタファーで。

しかし、セックスまで完全に「言語的に」いたしてしまえるのは、さすがについてゆけない気もするが...まあ、「テレフォンセックス」というのはかなり前からあるもんですけどね。主人公はOSのサマンサと出会う前から、テレフォンセックスを普通にやっているヒトであるのも、まあ「らしい」のですが。

恋愛に関しては、よく「精神的なものか、肉体的なものか」と問いかけられるけど、この映画の恋愛の場合、肝心なのはそこよりもむしろ、「どこからが愛の表現で、どこからが『本体』なのか」という疑問なのだと思います。

主人公の友人が、主人公が代筆する「妻から夫への愛の手紙」に感動して、「おれも女性にこんな風に愛されたい」と言うのも、その混乱のわかりやすい一例で。友人が感動したのは手紙という「表現」なのだけど、彼は確実にそれを愛そのものとして見ている。

愛の表現と、愛そのものは違うに決まってるじゃん、とも思うけど、意外とこれは、境界線が引きにくい...玉ねぎをむくように、表現をどんどんはがしていったら芯には何も残らないのかも...

あと、主人公の友だちのエイミー・アダムスは、元夫が置いていった女声OSと親友になるのですが、恋愛と違ってセックスというわかりやすい障害がない「友情」は、人間とOSの間に成立するのか、つまづくとしたらどこだろう、と考えると興味深い。(そこのところは、残念ながら描かれていないのですが。)

もしこういうOSがあったら、男性は女声を、女性も女声を選ぶことが多そうだなあ。ヘテロセクシャルで男と恋愛したいと思っている女性でも、本物以外の「男」の存在は余計な負担。一方男性にとって「女」の存在は追加の癒し...らしい。(男声を選ぶとしたらゲイの男性かなあ。)

異種恋愛モノや「物質との恋」を描いた映画には圧倒的に「男が人間、女が異種/物体」であることが多くて、私はそのへん不満ではあるのですが...そもそも男性視点の映画が多いってこと以外に、女性視点だとそもそも、こういう話が成立しにくいというのもあるんだよね。上記のようなことも、その原因のひとつかも...

以下ネタバレ
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タグ: 映画 HER 感想

2014/10/10  19:18

「ジャージー・ボーイズ」ボブ・クリューと「女言葉・男言葉」  ミュージカル

「ジャージー・ボーイズ」映画版で、プロデューサー/作詞家のボブ・クリューのセリフの字幕が「オネエ言葉」になっていたことの批判を読んだのですが、私はそれはいいと思ったな。以下その理由(途中で話それるし長いのでブログにしました)。

ボブ・クリューを演じている人は、舞台でも映画でも、明らかに女性的発声で喋っています。いわゆる男性的喋り方とは違う。以前から英米映画等でこういう喋りのキャラが出てくると、私は「ああ、いわゆる『女言葉・男言葉』というのがない英語では、日本でいう『オネエ的喋り』っていうのはこうなるのだな」と思って、頭の中で女言葉に変換されるようになっていたのです。

でも、ボブ・クリューのセリフの字幕が女言葉になっていたのが悪いと感じなかった理由はそれだけではなくて。そもそも、あれは「オネエ言葉」ではなくて「女言葉」だよね。あれを男性が喋ると「オネエ」と称して特別なことと見なす、または男性のセリフをそう訳すこと自体を差別的なことにように見なす、というのが、そもそもちょっとひっかかる。「男言葉」がデフォルトになっているのよね。

ここで話がそれますが、私の以前勤めていた会社の後輩に、何代も浅草で職人をしている家庭の娘さんがいたのですよ。まあ、ちゃきちゃきの江戸っ子家系ですね。で、その子はかなり政治的には保守的な人に思えたので(政治の話なんかほとんどしなかったのですが)、ある時「石原都知事(当時)ってどう思う?好き?」と聞いてみたのです。そうしたら、「言葉が汚い。乱暴なので嫌い。」とのことでした。私は「そこかよ!」と思ったのですが...

ところが後で、その子のお父さん(職人)に会った別の後輩が、「お父さん、意外と女っぽい喋り方をするんですねえ〜」と感心していたんです。一人称は「あたし」で、「〜なのよ。」みたいな語尾になる、と。

そこで「おお!」と思ったのですが、昔気質の江戸っ子にとっては、「俺は〜だ。」みたいな喋り方は、男としてのデフォではなく、田舎モンの、乱暴な、洗練されていない喋り方なんですね。彼らの「普通に丁寧な喋り方」が、現代の全国レベルの感覚では「女言葉」に近くなっているのです。

また、最近ツイッターで、九州の男は常に「男らしい」乱暴な喋り方をする、そうでない喋りは「オカマみたい」と思われると思っているみたい、九州を出て他の地方では男がフツーにやさしい喋り方をするのですごく心がなごんだ、と書いている人がいて、これも「おお!」と思ったのです。(私自身は九州のことは知らないので、あくまで九州出身女性のそういう意見を聞いた、という話ですが。)

ボブ・クリューの話に戻りますが、「男言葉・女言葉」のない英語圏で、また女性が日本より低い声で喋ることが多いアメリカでも、男の発声、女の発声は明らかに違うのですよ。で、生まれつきの声の高低はあるにせよ、男と生まれついたら自然に男性的発声をするようになる、というわけじゃないと思うのです。やはり、親や友だちに、男なら「そんなナヨナヨした女みたいな声を出すな」と言われるし、女なら「そんな乱暴な喋り方をするもんじゃありません」と言われて育つからこそ、いわゆる「男らしい・女らしい」喋りになる。

でも、前述の江戸っ子職人さんじゃないけど、そういう「男らしい」喋り方は洗練されていない・都会的でない・乱暴で脅迫的、と感じる男性もいるのですよ。その人が女性的発声で、あるいは女言葉で喋るのを、「オネエ言葉を使っている」とは言えないのではないかなあ。ボブ・クリューはまさに都会的洗練を大事にするタイプに思えるし。

...父親に「男らしく歩け、男らしく話せ(Walk like a man, talk like a man)」と言われる歌を作詞して大ヒットさせた張本人について語っていると思うと皮肉ですけどね。(「それはメタファーよ!あたしが言うのも変だけど。」)

もちろんボブ・クリューはゲイなわけですが、シスヘテロ男性の無意識でも常に男らしさを誇示する喋り方と、ゲイ男性に多いそいうのを嫌う喋り方と、どちらが「男性として自然な喋り」とは言えないと思うのです。後者を殊更に「オネエ」と言うのは、無意識のうちに前者をスタンダードにしてないかな、と。

私自身、ネットに書くときは(ですます調でないときは)「〜なのよね。」などのいわゆる「女言葉」を使うことが多いのですが、それは女らしいと思われたいとかではなくて、いわゆる「男言葉」の内包する乱暴さや脅迫的なところが嫌いだというのがあります。

ぐちゃぐちゃ書きましたが、言いたいことは3つ。

@ 女性的発声で喋っているボブ・クリューのセリフの訳が女言葉になるのは別におかしくない
A 男性が「女言葉」を喋るとことさらに「オネエ喋り」と特別視するのはよくない
B というわけで、(シスヘテロ)男性も、もっと女言葉で喋りましょうよ!

以上よ。



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