1939年に生起したノモンハン事件では、日本軍の第23師団が大打撃を受けました。
ソ連軍の包囲下に陥った結果、多くの捕虜も発生しています。正確な数は不明ですが、日本側第6軍の調査結果では約1000名が生死不明となっており、そのうちのかなりは捕虜となった者と思われます。(3千人以上との話もあるようですが、後述のような戦死誤認の事例があったことをふまえても、なお多すぎると考えます。)
ノモンハン事件の停戦後に2度に渡って捕虜交換が行われ、合計200人余りの日本兵が帰還しています。元捕虜たちは厳しい取調べの対象となり、うち士官については略式軍法会議の後に自決させる処分となったようです。
陸軍刑法では捕虜自体を処罰する規定はなく、集団投降した指揮官及び敵方への脱走兵についての規定があるのみです。したがって、超法規的な措置と言ってよいでしょう。
西洋では、限界まで戦闘した結果の捕虜については、むしろ名誉であるともとらえるようです。これと比べて、日本軍は「生還した者を正当には扱わなかった」(五味川)と言われます。
しかし、下士官兵については、必ずしも厳しい一方であったわけでもないようです。
第23師団で戦死と誤認された17名の捕虜(伍長1名のほかは兵)の処理に関して、内地の連隊区司令官に対して出された命令が残っています。1940年6月という時期からすると、同年4月末の第2回捕虜交換で帰還したものと思います。
この文書によると、不起訴となったことで捕虜としての汚名は消滅したのだから、家族に資料提供してその旨を十分に説明し、名誉回復に配慮するよう指示されています。特に、重傷で人事不省に陥ったケースなどについては、その功績を賞賛すべきとまで言っているのです。前述の西洋的発想に通じるものがあります。
なお、17名のうち7名については、生死不明からの「戦死認定」ではなく、明確な戦死処理がされてしまっていたのが問題となっています。「腹部盲管銃創」などの検死結果までついていたようで、遺族には遺骨も渡されていたようです。ノモンハン事件の特異性からやむをえなかったとしつつも、師団に対して厳重注意する文書が残っています。
五味川によると、捕虜の出迎えをした第6軍参謀長も涙ながらにねぎらいの言葉をかけていたといいます。この点、五味川は、実際の待遇にはそのような温情はなく、「非人間的扱いを否定する資料や体験談には接しない」としています。今回紹介した文書は、非人間的扱いを多少とも否定する珍しい資料といえそうです。
もっとも、ひとつ気になるのは戦死誤認者のうち1名が、収容中の新站(しんたん)陸軍病院で死亡していることです。新站陸軍病院は帰還捕虜の収容・取調べに使われた施設です。周辺に他の施設がないことから、捕虜の隔離に適していたようです。
処遇を担当した憲兵の談話によると、病院とは名ばかりで、特に独房の収容者は半死状態にも関わらず治療も受けられなかったといいます。拷問に近い取調べがあったのではないかと思われます。戦死誤認者の1名も、こうした処遇のために落命したのであれば、やはり実態は非人間的な面が強いといえます。
また、軍の公式の処遇が、必ずしも過酷なばかりではなかったとしても、一般国民からの風当たりは強かったものと思われます。日露戦争時に発生した捕虜の場合、軍からの処遇よりも一般国民からの迫害のほうが強烈であったとも言われます。
前述のように捕虜交換で帰国した日本兵は約200人ですが、自ら帰国を拒んでソ連に残った日本兵もいたようです。太平洋戦争後のシベリア抑留中、日本兵の間では、ノモンハン時の元捕虜が近くに住んでいる、といった噂が流れていたといいます。帰国して故郷の家族に迷惑をかけるより、戦死認定による「名誉の戦死」を選んだとしたら、なんとも厳しい運命の選択です。
追記
もう少し詳しく調べて連載にしてみました。「
ノモンハン捕虜の運命」
参考文献
「戦死誤認者処理の件」(アジ歴C01003589000)
「戦時死亡者生死不明者報告方に関する件」(アジ歴C04122413700)
五味川純平「
ノモンハン
」(文春文庫、1978年)
吹浦忠正「
捕虜の文明史
」(新潮選書、1990年)

0