4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(3)将校への自決強要
ノモンハン事件の捕虜について言われる最悪の不当処遇が、自決の強要です。敵前逃亡罪の最高刑には死刑もありますが、その執行方法は銃殺刑です。すなわち「自決」というのは公式な取り扱いにはありません。
帰還捕虜全員に自決が強要されたわけではなく、将校のみが対象だったようです。
ここで注目すべきは、4の(1)で挙げた「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15)です。この文書には軍法会議などによる処理の方針が書かれていたわけですが、特記事項として「但し将校の分限、進退に関する事項は別に措置せらるる儀と承知相成度申添う」(原文カタカナ)となっています。別の措置の内容は明示こそされていませんが、後の経過を見るに、当然に自決による非公式解決を指していたものと思います。秦郁彦も同様の推定をしています(資料22・73頁)。
すなわち、将校については正規の手続きによらず自決させる方針が、すでに陸軍中央において決定されていたと言えます。
実例を見ると、第1回交換で帰還した唯一の将校(中尉)は、一旦は敵前逃亡罪で起訴されています(資料17)。名前と階級から推定すると第8国境守備隊から編成された長谷部支隊の中隊長です。事件後の戦訓調査の中心人物となった小沼治夫中佐(当時)による、いわゆる小沼メモにも、「長谷部支隊の最左翼中隊、一中隊二十名となる迄大奮闘せり。中隊長居なくなり戦死として通知せり。然るに捕虜となり帰り来れり。」とあります(資料2・下148頁)。(なお、第1回帰還者中のもう一人の起訴者も第8国境守備隊の兵で、あるいは同時に捕虜となったのかも知れません。そうであれば巻き添え起訴だと考えます。)
しかし、判決期日と同日の11月16日に「自決」しています。おそらく正式の判決言渡し前のことと思われます。
第2回交換では少なくとも航空将校2名が帰還しました。既述のように第2回帰還者で日本人は64名、関参一電611号によれば下士官兵は60名なので、ほかに2名の地上部隊将校が帰還したものと考えられます。もっとも、この地上部隊将校について述べた文献には接したことがなく、あるいは軍属という可能性も否定はできません。
これら第2回の帰還将校については、3の(3)で述べたように関参一電611号では帰還が報告されていません。つまり、戦死して最初から帰還しなかったとされたのだと思います。例えば原田少佐については、撃墜された7月29日に戦死と認定済だったのが、そのまま公式記録となっています(資料14・下419頁)。
実際には生きて帰った将校たちは、第2回の場合もすぐに自決となったわけではなく、戦訓や捕虜生活についての念入りな取り調べを受けたようです。起訴されたのかはっきりしないのですが、戦死者扱いであることからするに、おそらく第1回とは異なって記録に残る正式の起訴手続きは取らなかったものと思われます。特別査問の後に、実弾入りの拳銃と個室を与えられるといった態様だったようです。
さて、これら自決が、強制的なものであったのかです。
当時の価値観からすれば、自発的な側面もあったと考えられます。原田少佐は帰還した際には、自決する覚悟だったようです(資料14・下271頁)。捜査完了前に自決することを警戒されて、厳重な監視下に置かれ、用便の際にも憲兵が付いていたといいます。なお、原田少佐に対して「名誉の戦死をとげた」と書かれている出版物を渡して自決を迫ったという話もありますが、これは誤りのようです。ソ連に抑留中に、自分の戦死を賞賛する日本の新聞報道に接したことから、自ら覚悟を決めたというのが真相でした(資料22・上75頁)。
しかし、明らかに強制があったと見られる例もあります。一人の将校は取り調べに対して、負傷して捕虜になったことは恥じないし、我々を盾として逃げた「○○○の生きている間は我々も死ぬ必要なく生還を恥ずる必要なし」(原文カタカナ)などと答えていたようです(資料19。なお注記参照。)。この将校も入院中に「自殺」したとされますが、発言からすると、とうてい納得しての自主的な行為とは思えません。
将校が捕虜になるという現実が、陸軍の名誉のためにとうてい受け入れがたいものであったため、本人の意思に関わり無く自決処分とされたと評価するのが妥当でしょう。
ただし、自決以外に、家族と連絡を取らず身分も明かさないことを条件に、変名で満蒙開拓団に参加するという提案も、航空将校2名に対して行われたとする三好中佐(当時。航空兵団参謀)の後の証言があるようです。ブラジル移民として処理する献策をしたという別の将校の証言もあります。しかし、少なくとも原田少佐はこれを拒絶し自決を選んだと、いずれの証言者も述べています(資料22・75〜76頁)。
なんらか、こうした非公式な救済策が検討された可能性はありそうです。温情的といえばそうですが、そもそも捕虜になることが罪ではないのを考えると、やはり妥当な処遇とは言いがたいと私には思えます。
なんらかの救済の動きはあったにせよ、陸軍刑法と正規手続きでは死刑とならないだろう捕虜将校たちは、結局非公式手続きによって死を選ばされ、「名誉の戦死」を遂げることになったのです。(
つづく)
注記
引用文中の○○○の伏字につき、皇族将校で途中で転属となった東久邇宮盛厚中尉のことではないかとの
仮説を立てている研究者もいるようです。
しかし、私は第23師団長であった「小松原」中将だと思います。ソ連軍の従軍作家シーモノフが、捕虜となった日本軍将校から、「小松原が満州へ飛び去った。反撃準備の表向きだったかもしれないが、じつは単に自分が助かるためだった」旨の言葉を聞いており(資料10・157頁)、おそらく帰還将校と同一人物と考えるからです。
参考文献
19.『無形戦力思想関係資料第五号』
(松野誠也「日本軍思想・検閲関係資料」(現代史料出版、2003年))
22.秦郁彦「日本人捕虜―白村江からシベリア抑留まで」(原書房、1998年)

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