返還前の沖縄の世相1
高等学校歴史読本:
「琉球・沖縄史」 新城俊昭著(編集工房・東洋企画出版)から引用しました。
<2.4ゼネスト(1969)>ゼネストとは・・・全国の主要産業の全ての労働者が、ある目的を遂行するためにそろって仕事をやらないで抗議すること。
沖縄がヴェトナム戦争の出撃基地となり、戦闘爆撃機B52が嘉手納基地に常駐するようになると、復帰運動とともに反戦・反基地運動も高まってきた。
1968(昭和43)年11月、戦後初の公選による主席が誕生してまもなく、嘉手納基地で離陸に失敗したB52が弾薬庫付近に墜落するという事故を起こした<*a1>。
事故のあった嘉手納村(現・嘉手納町)ではすぐさま抗議集会がひらかれ、12月には「命を守る県民共闘(B52撤去と原子力潜水艦寄航阻止県民共闘会議)」が結成された。
翌69(昭和44)年1月、「命を守る県民共闘」はB52が常駐して1年目に当たる2月4日に、ゼネストによる沖縄県民の徹底抗議を決定した。
日米両政府にとっては、佐藤・ニクソン会談によって沖縄返還が現実化している時期でのゼネストは大変都合の悪いものであった。そのため、日本政府は屋良主席に対し、ゼネストは沖縄の復帰を遅らせる恐れがあること、B52の撤去の見通しがあることなどを理由に、ストを回避するよう圧力をかけてきた。<*a2>
屋良主席は「不測の事態」におちいる恐れのあるゼネストは回避するよう県民共闘会議に要請してきた。革新政権を守る立場からこれに従う組織がでてきたため、ゼネストは崩壊した。当日は豪雨のなか、4万5000人の労働者や学生が結集し、B52撤去を要求するデモが嘉手納総合グラウンドでおこなわれた。<*a3>
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<私の意見>
<*a1>:離陸に失敗したB52が“弾薬庫付近に”墜落するという事故―――この言い方が正しいかどうか言う立場にはないが、気になったので書きます。私が見たのは墜落したのは嘉手納飛行場の北の端、であった。本来の航路よりもやや西より100mほど外れていたかもしれない。嘉手納飛行場は北向きに離陸し、航路上に弾薬庫がある。従って、どこに墜落しても弾薬庫付近だから間違いとはいえない。
このとき積んでいた爆弾が破裂し、その爆風で壊れたガラスで、屋良の住民が4人ケガをしたと思う。
<*a2>:屋良主席は政治家というよりも昔ながらの教育者であった。何度かお会いしたが無欲で人に尽くす{徳の高い人}であった。人を信じ、その上で政策を進めたと思う。キツネとタヌキのバカし合いという・東京の政治家とのやり取りでは苦労したと思う。
<*a3>:B52は朝早く出撃する。途中C135による空中給油を受け、ベトナムを爆撃し、夕方帰投する。その後、夜遅くから未明にかけてエンジン調整の爆音が嘉手納町に鳴り響くという、日程で動いていた。
沖縄住民は気付かなかったが、基地従業員によると、夕方サイレンが鳴る、基地従業員の話では「ベトナムで落としたはずの爆弾が、落ち損なって翼の下に引っ掛かって戻ってきている。着陸のショックで落ちると破裂するから退避しなさい」という話を聞いた。現実に爆発する事故はなかったが、進入路のある砂辺(すなべ)あたりでは、理由は分からないが、時々MPが車の通行を止める事があったそうだ。これもその時の話かもしれない。戦争の後方基地といえども安全ではないと気付かされた話であった。

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