泡瀬干潟3
2008.07.20〜07.21昨日が海の日、今日はその振り替え休日、両方とも海に関わる行事が行われている。千葉県の三番瀬では海の生物を見る会が行われた。沖縄泡瀬でもきっと行事が行われたと思う。
1)泡瀬土地で海岸に近い岬になっているところは昔から砂地の場所で歴史的にこの場所は砂が寄ってくるところであろう。『あわせ』という地名も勝連半島から回ってくる海流と久場先、渡口、比屋根と渡ってくる二つの潮の『合わせる所』から来たというのもうなずけるのである。
私の祖父母の話では砂丘が三つほど?あったということである。砂丘一つひとつはそれぞれ家の屋根より高かったというから四五メートルはあったのであろう。この砂丘を中心として泡瀬も村が形成された。ただ正確な位置を聞き漏らしてしまった。
台風で何度も波に洗われたようで、防波堤をつくり防風林に木麻黄(モクマオウ)が使われやっと、土地が安定したと聞いた。その時の村人の安心は大きかったと聞いた。砂丘を取り囲むように防波堤とモクマオウの防風林があるというのが泡瀬の地形である。
その砂丘に目をつけたのが終戦直後のアメリカ軍で、基地建設の材料に重機を投入し根こそぎ砂を取ってしまった。その端っこの方は、海面レベルよりも、更に掘って取ったものだから海水面より低くなり、ある時の台風で海水が入り、すっかり水没してしまった。塩水が入り畑にも戻せなくなってしまった。ここが現在の通信隊の鉄塔の東側に当たる。
2)この地域の自然をもう少し丁寧に見るべきであったと思う。コザ高校の恩師は生物学者・仲宗根先生で国頭のヤンバルに生息しているノグチゲラを研究し、ちょうどわれわれが在学中に第1版の掛図「沖縄の鳥類1」が出来たばかりであった。あの頃の学会はまだ水鳥とか、干潟の研究が始まっていなかったのではなかろうか。
3)美東中学校の創られたところは田圃で、当初から生徒は、土地改良に狩り出された記憶がある。従って泡瀬は陸地から離れた砂州であったと思う。その南側に広がる地域が伝統的な塩田の地域であったと思う。
戦争中アメリカ軍は占領と同時に塩田と陸地の間に約2000mの補助飛行場を作り南部地域への爆撃を始めたそうである。子どもの頃の記憶にもその周辺が水はけの悪い湿地帯に飛行場が囲まれていたと思う。その周りに葦原が繁って、ガマの穂もいっぱい見えていた。アメリカ軍は、時々、セスナ機で農薬散布を行なっていた。レイチェル・カースンの指摘したことと同じ現象と思う。アメリカ軍には蚊の発生地と見えたのであろうか。
4)沖縄県総合運動公園になっているあたりは埋め立てられる前は葦原で、野生の鳥の生息地であった。あの広さと位置関係からするととても貴重であったと思う。ただ残念なことに鳥類などの記録がない。少年時代にこの地域を離れて久しいので、一般に言われる第一期埋め立て工事というのがどこの埋め立てを指すのか私は正確にとらえていないので詳しいことは別の機会に述べる。
5)もとの塩田跡までは埋立地になっている。そこから見る泡瀬干潟というのは泡瀬の通信隊の南側の浅瀬である。高校生の頃、祖父が畑仕事の合間にウミンチュとして潮干狩りをしていた所である。祖父の取ってきた牡蠣などの貝類、それから、お盆や、正月の頃には、秘密のスポットがあったそうでタコを捕まえてきていた。考えようによっては、私の体の一部を造っているのは間違いなく泡瀬干潟の生物と言える。

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