沖縄県政のはじめ3
高等学校歴史読本:
「琉球・沖縄史」 新城俊昭著(編集工房・東洋企画出版)から引用
上杉県令の見た沖縄農村の実態
1881(明治14)年、第2代県令に東北の旧米沢藩の【別資料より・最後の13代藩主】上杉茂憲(うえすぎもちのり)が任命された。上杉県令は、初期県政において、旧慣の改革を試みた政治家として知られている。
上杉は、前県令によって進められていた旧慣の調査を継続し、着任した年に「新政による県民の生活実態を探り、県政の方策を決める」ことを目的に、沖縄島各地を巡回し、翌年には、久米島・宮古・八重山を視察した。その時の記録が『上杉県令巡回日誌』として残っており、近代沖縄を知る貴重な史料となっている。
この視察で上杉が見たものは、重税と貧困にあえいでいる農民の実態<*5>と、一方で大きな屋敷をかまえて穀倉をいっぱいにしている富裕な地方役人の存在、さらに農民を不当に搾取している地方吏員(りいん)の姿であった。こうした状況を目の当たりにした上杉は、改革の必要性を痛感し、とりあえず、教育と勧業を重点施策として取り組んだ。
教育面では、教員を養成する師範学校を充実させて小学校を増設し、最初の県費留学生として謝花昇らを東京へ派遣するなど、人材育成に力を入れた。
勧業面では、サトウキビの作付面積を拡大し、製糖技術の改良をはかるなど、製糖を奨励した。また、人身売買を禁止するなど、社会風俗の悪習を取り除く事にも力を注いだ。
しかし、疲弊した農村を救済するには、旧慣を抜本的に改革しなければならなかった。
1882(明治15)年3月、上杉は「地方吏員改正」の上申書をたずさえて東京へおもむき、沖縄の旧慣改革が急務である事を政府に訴えた。<*6>
<本文中の注>
<*5>:一般農民は、貧困・借金・身売り、そして身売りを請けだすためにまた借金をするという、悪循環に苦しめられていた。
<*6>:旧慣を改める場合は、どんな些細なことでも政府に伺いをたてなければならなかった。そのため、上杉は日用銭(労役負担のかわりにおさめられる金銭)や浮得税(芭蕉や桑などの特定の植物に課せられた税)の一部廃止について、政府の承認を要請していた。しかし、これに対する回答が遅れていたこともあって、上杉は具体的な改革案をたずさえて直接、政府に県政の改革案を上申したのである。
上杉茂憲
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上杉 茂憲(うえすぎ もちのり、1844年4月15日(天保15年2月28日) − 1919年4月18日)は、出羽米沢藩の第13代(最後)の藩主。12代藩主・上杉斉憲の長男。母は於盤。正室は尾張支流松平義建の娘。継室は大給松平乗喬の娘、伊藤清久の娘。子に上杉憲章(長男)など。官位は正二位伯爵。侍従。
経歴
1844年4月15日生まれ。斉憲の庶子であったが、生まれてまもなく嗣子として指名された。しかし藩の実権は父が掌握しており、茂憲には活躍の場がほとんど無かった。1868年、戊辰戦争が始まると、父と共に幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。このとき、父が処罰として藩主の地位を退くことを余儀なくされたため、同年12月18日に家督を継いで藩主となった。1869年、版籍奉還により米沢藩知事となる。旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから十万両余を分与(後の米沢義社、現在は山形銀行と合併)。1871の廃藩置県により東京に移住した。その後、イギリスに自費で留学し、帰国後の1881年5月には沖縄県令となる。
沖縄県令への赴任に当たって書記官として補佐したのは旧臣の池田成章(池田成彬の父)で、在任中の施策には池田の具申の影響も大きい。県の現況を把握するため、当時の交通事情の中ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている。視察時の記録をまとめた「上杉県令巡回日誌」は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る上での重要な史料である。産業発展には人材育成が要として、1882年に謝花昇、太田朝敷ら5人の第1回県費留学生を東京に留学させた。沖縄県は旧支配層の不満を抑える目的で琉球時代からの旧制温存が政府方針となっており(清国との琉球帰属問題が完全に解決するのは日清戦争後である)、これを打破するため上京し上申書を提出したが、政府方針に反し急進的過ぎるとして2年で県令を解任された。離任時には1500円の私財を奨学資金として県に提供した。
1883年には元老院議官、翌年には伯爵となった。

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