奇跡に関する簡単な科学的考察(その1/4)
「人生診断」 戸塚文卿著作集 4 (p148): 小田部胤明編 ・ 中央出版社
(「東大カトリック研究会」のため昭和三年六月執筆、同会機関紙「光」に謄写印刷されたもの)
<戸塚文卿神父様の著書を乱読的に読んでいます。科学的な思考方法で、学問を目指す諸君に書いたということで、注目しました。一読に値します。当初、要約にしようと思い書いてみたのですが、大切な部分が欠けるようでしたので、あえて原文を載せてみます。>
私たちが聖書をひもとけば、そこには無数といってよいほどおびただしい奇跡の物語がある。カトリック聖人の伝記を読むとき、また今日のカトリック新聞に目を通すとき、やはり、いたるところに奇跡談はある。聖人伝ないしは現代の事実として報道されるものはさておき、聖書中に記載された奇跡談は、私たちはこれを信ずるのである。私たちは聖書の無謬を(宗教的真理としての無謬のみならず、歴史的文献としての無謬をも)信ずるがゆえに、したがって聖書の奇跡談にもこまごました解説をつけることなく、子供のように単純に、すなおにこれを受けいれるのである。
しかしながら本当を言えば、私たちがそれらを奇跡と信ずるのは、単に聖書の無謬を信ずるからばかりではない。奇跡は予言とともに天啓に対する神の証印の重要なものである。自ら天啓教(revealed religions)なりと称するユデア教およびキリスト教では、奇跡はキリストがメシアであり、神の子であることの証拠であり、信仰の本質的な価の聖典の中に奇跡談の多いのは偶然ではない。奇跡はキリストがメシアであり、神の御子である証拠であり、その意味で、われわれの信仰に本質的な価値を有するのである。私たちは聖書に記載してあるから、いやいやながら奇跡を肯定するのではなくて、むしろ、キリストおよびキリスト教の奇跡を信ずるからキリストを信じ、聖書の無謬を信ずるのであるといってさしつかえない。
ゆえにたやすく奇跡を受け入れる心持はカトリック(およびプロテスタント正統派)にとって彼らの特徴となるはずである。
しかしながら私たちは日本において、まだ科学至上主義Scientismの影響を極めて深く受けている時代に生きている。そうして科学者およびその他の人々(「科学的な考」をする人、すなわちほとんどすべての学者および思想家)は、科学の法則の名によって、奇跡の存在、むしろその可能性を否定し、したがってあらゆる天啓を冷笑する。
本来の科学者の立場からいえば、彼らのなすべきところは、宗教家から奇跡として提示されるひとつひとつの事件に関して先入観なしに研索することでなくてはならないはずであるが、かれらはいっさいの奇跡に対して総括的にこれを否認する。彼らはその一つ一つを吟味するだけの労力を惜しみ、その興味を持っていないのが常である。しかし、これは大変な非科学的態度といわなければならない。なぜなら、自然科学は少数の原理から出発して、多くの結論を引き出す学問ではなく、多数の事実の研究から出発しその根本に横たわる法則を発見する学問だからである。観察と研究とを生命とする自然科学者が、「奇跡は存在することを得ず」という原理の名によって、事実の調査を否むとは、それが科学の破壊でなくて何であろう。それはあたかも、「地球は不動なり」という命題を真理と考えて、天界における事実の観察に基づいて太陽中心説を唱えた人々に反対した固流者の亜流でなくて何であろう。

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