奇跡に関する簡単な科学的考察(その2/4)
「人生診断」 戸塚文卿著作集 4 (p148): 小田部胤明編 ・ 中央出版社
(「東大カトリック研究会」のため昭和三年六月執筆、同会機関紙「光」に謄写印刷されたもの)
独断を忌むべきはずの科学者が、アプリオリに奇跡を排するこの現状では「奇跡は事実なりやいなや」との問題を解決するに先立ち「奇跡は可能なりやいなや」との問題を解決する必要に迫られている。
昔は人々の心が宗教にとらえられて自由研究の志をすりへらした、とは今日、人がよく口にするところであるが、今日の科学者の心が一種の主理主義的、唯物論的形而上学にとらえられて、自由の精神を失っているのである。科学者は科学的精神を哲学者に吹き込んだと誇っているが、なんぞ知らん、彼らは一派の哲学者の従順な僕(しもべ)と化しているのである。
科学者の中にはまず第一に、奇跡の存在の容認は科学の法則を否定することであると考えて、奇跡を欲しない人がある。しかし、これは大変な思い違いであって、奇跡の存在の主張は、科学的法則を無視することではなく、単に時として、科学的法則がある大なる目的のために神の干渉によって変化されることがある、というのにすぎない。日常経験する現象を貫く一定の法則があるということを認めないわけではない。この事実を認めなければ必然的にすべてが偶然の所産であり、すべてが新しく、すべてが奇跡であるということになるが、それはつまり、どのような事件が起ころうとも、何一つ取立てて奇跡と名づけるべきものがないということに帰着するのである。実際には、このような乱暴な議論によって、奇跡の存在を否定した学者はいない。しかしながら、もっとsubtleな[温健な]言いまわしかたによって、これに類する説を主張するのはモーリス・ブロンデルMaurice Blondel一派の新哲学者である。
科学と奇跡との関係を解くかぎは、科学の法則というものがどの程度に
rigid〔厳格〕であるかという問題である。科学の法則は絶対的に除外例を許さぬものか、あるいは、ある場合に除外例の存在する余地があるものか。この問に対して絶対的に除外例(奇跡)の存在を許さないと答える人は、もはや科学の立場を忘れた科学者である。科学の法則は形而上学的原理ではなく、経験的法則に過ぎず、日常の経験の観察の上に築かれたものである。ゆえに、この法則の支配を受けるのは、日常の経験的事実である。「人は水の上を歩むことを得ず」と言うのは、普通の条件の下に、すなわち日常の経験的事実として、歩むことが不可能である、と言うにとどまる。しかるに、奇跡的にキリストが水の上を歩かれた、というのは、これが日常の経験的事実ではなく、このきわめてまれな例外として、水の上を歩かれたというだけであって、すなわちこの法則の規定する場合以外のできごとであるから、この法則の支配を受けなかった、というだけである。ある観察した事実が奇跡であるかないかと、事実に基づく判定を下すのが科学者の仕事であって、奇跡が可能か不可能であるかを論ずるのは彼の任務ではない。<つづく>

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