「奇跡についての考察3」 戸塚文卿著作より
奇跡に関する簡単な科学的考察(その3/4)
「人生診断」 戸塚文卿著作集 4 (p148): 小田部胤明編 ・ 中央出版社
(「東大カトリック研究会」のため昭和三年六月執筆、同会機関紙「光」に謄写印刷されたもの)
なおまた、次ぎのように論ずる者もある。いわく、奇跡談は種々の宗教につきものである。それは無知の産物であって、今日でも愚夫愚婦は取るに足らない迷信のために、直ちに神仏の奇跡的干渉を信ずる。科学の使命は迷信の打破にあり、人知の進歩はすべての奇跡を科学的に説明することにあるのである。奇跡は科学の前には存在し得ない、と。
この議論はまことにもっともな議論であるが、その前半の正確なのに比して、後半の議論が論理の超躍をしている。
いかにも、いわゆる奇跡談の多数は、無知な人の狂信の所産である。しかしながら、たとえ多数がそうであったとしても、全部がそうであるに相違ないという議論は生じない。科学者の取るべき態度は、このような不正確な議論に基づいて、全部を総括的に否認することでなくして、その一つ一つを吟味して、否認したいならば、その一つ一つを否認することである。
前者に似た蓋然性(がいぜんせい)probabirityを土台にして論ずるものがある。いわく、神の干渉があったというよりも、この事実を報道する人が、有意識的あざむき、もしくは無意識的に間違い信じたという方がよりプロバブルである。ゆえにわれわれはよりプロバブルのほうに信をおいて、奇跡の存在を疑わなければならないと。
この議論は正確である。私たちも両手を上げてこれに賛成する。しかしながら、この結論は一般的に奇跡の信じにくいことを説くにあたって、その一つ一つを否認するのでないことに注意しなければならない。奇跡は例外的事実を主張するのであるから、その証言は普通一般の事実の証言よりもはるかに有力であることを必要とする。私たちは決して軽々しく奇跡を叫んではならない。慎重に慎重を重ねて、すなわち懐疑的な態度で一つ一つの奇跡談に対さなければならない。
もう一つこれに似た議論で、神の干渉があったというよりも、われわれに未知な自然の能力の作用があったと考えるほうが、よりプロバブルであるから、このように考えなければならない、と説く人がある。これは奇跡否定論者の最後の逃げ場である。しかも全く独断的な逃げ場であって、否定するがための否定にすぎない。
ルルドの奇跡に対して、主理主義的科学者は、ありとあらゆる理由をあげこれを否定しようとした。ルルドの水を分析した。そのradio-activityを測定した。奇跡的快復の証言を否定しようと試みた。暗示と催眠術とを持って説明しようと試みた。そのすべてが失敗に終わると、未知の物質、あるいは自然の未知の能力の仮定を以て、神の干渉を容認すまいとするのである。この議論は彼らにとって実につごうがいい。なぜならば、人間の知恵はいかに進歩しても、常に限られており、したがって常に未知の領域を有しているからである。未知の領域は、金城鉄壁、難攻不落であるから、百年でも千年でも、彼らは安んじてその内にこもっていることができる。
しかしこれははたして公平な、まじめな学者の取るべき態度であろうか。むしろ卑怯な、卑しいやり方ではないだろうか。<つづく>

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