読谷の風

(yomitan breeze)です。
約30年前読谷高校を風のように通り過ぎた、ある教師のブログです。
教育現場での感想や、見聞きしたエピソードを書いています。

 

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投稿者:Takaesu Akira
私はニコラス神父の言い方が好きです。それとumenomさんの考えで十分(人間らしい生き方)だと思います。
人間が「自分が神として振舞うことが一番の悪ではないのか」とそうならないために我を棄てるという意味だと思うのです。
ご意見の後半の部分は本当にその通りだと思います。どこにも神はいると思います。そのような視点で自分を律することが信仰心ではないでしょうか。

http://navy.ap.teacup.com/yomitanbreeze/
投稿者:umenom
私のためにご説明を頂いて恐縮です。それでもまだ「神」とは、「宗教」とは何か、自分ではよく分かっていません。

ニコラス神父様の「何時も自分から出る、自分の外に出なければだめだと言っています。だから、『我を捨てるために祈る』」という発言が自分のどこかに引っかかっているように思います。自分の外に出るというのがどういうことかまだよく分かっていないんだと思います。

私は「神」の存在を否定も肯定もしません。しかし造物主のような絶対者がどこかにいるような気がしています。それを神と呼ぶのなら、私は日本のアニミズムのようにどんなものにも神はある、どこにも神はいるというような気がしています。自然に対して感謝する、周囲の人のしてくれたことに感謝する、それが信仰の基本にあるような感じがしています。

しかし一方で人間は自分で考え何かをなすものだとも思います。それは偶然の固まりのようなものかも知れませんが、自分の意志に基づいて行動することが人間として理性的で人間らしいことなのだとも思うのです。

そんなわけで自分の信仰心が一体どのようなものなのか定かには分からないままですが、取り急ぎお返事まで。失礼いたします。
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