ある方から、特に、信仰を持っていないとのコメントを頂きました。私も自分のブログで信仰を広めるつもりもなく、自分の興味にまかせて話題を取り上げています。お話を読みながら、以前このブログで紹介した、イエズス会総長の話を思い出しました。宗教について一番、納得できるはなしでした。そのメインの部分を再収録します。
080518:ブログの記事から
毎日新聞2008/04/28の紹介された記事から引用しました。
特集ワイド: 祈りとは
イエズス会総長・ニコラス神父を訪ねる
――― <一部省略>―――――――――――――――――――
柔らかい日本語で話すニコラス神父は、日本で多くを学んだと言う。「和の精神ですね。日本のコンセンサス(合意)のやり方に慣れたんです。判断が自然に盛り上がる。独りで決めるのは緊張し、ストレスにもなります。西洋人は、皆で決める日本のやり方は遅いと思っていますが、逆に早いんですね。一度皆で決めると進むのが早い。4人が賛成、6人が反対という西洋のやり方だと、後々までいろいろ残るんですね」
イエズス会は、右派が強い現在のローマ法王庁と思想的な対立があると言われる。だが、「今は社会と同じく、教会内でも思想をあまり取り扱わなくなりました」と否定する。「むしろ、若者の教育、エコロジー、そして(人の)内的な問題の方に関心が向いています。そのようなところでは、オリエンタル(東洋)のウイズダム(英知)、和の精神が大事になってくるんです」
祈りについて聞いてみた。無心になり、我を捨てるために祈るのでは?と自分の考えをぶつけてみた。神父はうれしそうな笑みを浮かべ、こう答えた。
「そう、人は黙想しているつもりでも、いろいろ考えているんです。だから禅ではそれを厳しく直す。祈るとき、自分より大きいものに心を開く。聖イグナチオ(イエズス会の創始者)は黙想の間もいろんな祈り方があると語っていますが、大事なのは、何時も自分から出る、自分の外に出なければだめだと言っています。だから、『我を捨てるために祈る』というその表現、私は好きです」
では、神についてはどう考えているのだろう。
「仏教で一つ、私が尊敬しているのは、神について話すことはできないと言うことなんです。神様はキリスト教にもイスラム教にもヒンズー教にもあり、千の名前があると。(仏教では)神を説明すればそれは神様ではない。仏教は『仏に会えば仏を殺せ』というんですね。自分を深めれば、神様が自分から出て、すべてを生かす。何か生きたものとして、自分を生かしてくれるんですね。それで、漢字を使うか、ひらがなで書いたほうがいいのか。でも『神』と漢字にするとイメージがつく。イメージがつくともう神ではないという教えですね」
ニコラス神父はそれを踏まえた上で、こう続けた。
「聖イグナチオの教えでは、神は説明するより、感じとるものだと。愛とか希望とかにとらわれて自分がなくなったとき、初めて、ああ、これは自分ではない、神の霊、神の心が向いているのだと気づくと。そのようなあいまいな表現でしか暗示できない。説明すると、どうも違うと。神は説明のためじゃなくて、黙っていられないから言う言葉。他の言葉がないからそれを使う。大事なのは、どういうふうに歩んでいくか、そこに力を入れることなんです」
神様は、考えるというより、感じるもの、ということか。
「そう。自分から出て、自分より大きな良いものに自分の心を開く。アジアではよく、知恵のある人がお月様を指さす、愚か者は、その指を見ると言います。そういう表現が宗教にぴったりだと思います」
身の回りの出来事だけで考えてもわからない、もっと遠くを見ろ、ということなのか。少しすっきりした気分になり、バチカンを後にした。

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