カレンダー

2021
December
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

掲示板

検索



このブログを検索

カウンター

本日のアクセス
昨日のアクセス
総アクセス数

ブログサービス

Powered by

teacup.ブログ
RSS

無限寛容

5月も末になろうとしている。本州はもう夏日があるというのに、北海道は桜の開花が遅れて寒い日が続いた。それでも、雪の間からアイヌの好んだ行者にんにくが顔をだし、カタクリもエゾエンゴサクも咲き、今週はやっと桜が咲いた。

先週土曜日、真宗大谷派旭川別院で、藤原新也 講演会 

「人が死ぬという事」

という講演会があった。インドから東日本大震災へ至る死と向き合ってきた藤原の話は、彼の著書「メメント・モリ」以来、写真集、エッセイ、小説を読み続け、影響を受けて1991年にインドまで旅した私には大きく響くものがあった。

午後6時、講演会場には約300人を超える人々が集まっていた。聴衆の年齢は高い。最初は藤原新也の人気が高いのかと思ったが、実は檀家が講演に召集をかけられたにすぎないということが分かった。

おそらく、私はこの人々の中でも、もっとも彼の話を心から聴きたいと思って参加した人間だろう。

彼自身の撮影したインドから東北の映像を駆使した話は、約二時間ほど続いた。特に、文章化していない撮影に関する裏話は興味深かった。

講演最後の結論の言葉は、

「無限寛容」

だった。一般に流布している言葉ではない。この言葉は、2011年冬に藤原の文芸春秋に寄稿した藤原自身の文章によると次のようなものである。

「―無限寛容―すべてを許すという意味である。
すべての人の死や弔いの風景には人それぞれ国それぞれ、そして時代それぞれの異相があり、そこに優劣をつけてはならず、すべてを受け入れたい。今はそういう心境がある。
理想の死や理想の弔いの風景を持つことは息苦しく、またそれから外れた人の死を不幸とすること になる。だが死というものはそれを無限に寛容するからこそ死であり、それが死の懐の深さである ように感じるのである」

1991年3月、インドの西海岸の大都市ボンベイ空港に着いた私は、その場で地べたに横たわる死体を見た。町にも病の人が路上で横たわり苦しんでいた。一体自分は何のためにここまで旅したのか・・・。騒音と汚さと匂いの充満するインドで、藤原新也の本を読みながら歩いていた日のことがまざまざと甦る。

「無限寛容」・・・。「死の懐の深さ」・・・。インドへの旅から20年以上が経過し、今再び死を巡るこの言葉を、私は心の中で繰り返し呟いている。

なお、講演が終わった時、廊下で藤原新也にひとこと声をかけた。小柄で白髪の人だった。

「―ディングルの入江―というあなたの小説を繰りかえし読んでいます」
そういうと、ややはにかんで
「ありがとう」
と、彼は答えた。

「ディングルの入江」は1998年に出たアイルランドを舞台とした小説である。以来15年、私はこの小説を読んだという人に出会ったことがない。



1
投稿者:玄柊

寺山修司と「サヨナラ」

「さよなら」は別れの言葉である。日常のあいさつでしばしば使われる。しかし、これが死を目前にした場合は永遠の別れを意味し、より深刻で悲しい言葉となる。

しかし、「さよなら」はこうした日常的な挨拶レベルと、永遠の別れという否定的な意味合いだけで使われるのではない。「さよなら」には過去との決別、古い因習との決別、捨て去るべき人間関係との決別、男女の別れにも使われ、残された人生をより積極的に希望に向かって突き進む場合の言葉としても使われているのではないか・・・。

そう思っていたら、寺山修司の文章と出会った。

寺山修司に、角川文庫の「ポケットに名言を」という本がある。「名言」という言葉は教訓めいた含みがあり、寺山には似つかわしくないタイトルだが、この本のトップに次のような文章がある。

「時には言葉は思い出に過ぎない。だが時には全世界全部の重さと釣り合うこともあるだろう。そんな言葉こそ名言という事になるのである。
学生だった私にとっての、最初の名言は、井伏鱒二の

花に嵐の例えもあるさ
さよならだけが人生だ

という詩であった、
私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度乗り越えたか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」は、言わば私の処世訓である。私の思想はいまやさよなら主義とでも言ったもので、それはざまざまの因襲との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかの理念に(習慣とその信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているようなところさえ、ある」

寺山修司にとっての名言とは、世界全部と釣り合うだけの重さを持ったものだった。井伏鱒二の訳した中国詩のこの訳に、寺山はこれだけのこだわりを見せた。

寺山はその後、二編の詩にこのフレーズを入れ、浅川マキとカルメン・マキへ提供した歌にもこのフレーズを取り入れた。

彼は48歳で早々と亡くなったその人生の通り、さよならを挨拶としての、あるいは悲しい「永遠の別れの言葉」だけとして受け止めてはいなかった。因襲、画一化への抵抗精神みなぎる言葉として「さよなら」を受け止めていた。

「さよなら」という言葉に関して、寺山修司とも井伏鱒二とも全く関係がないが、薬師丸ひろこのヒット曲「セーラー服と機関銃」(歌詞 来生えつ子)が印象的である。

「さよならは 別れのことばじゃなくて
 再び逢うための遠い約束

 夢のいた場所に
 未練残しても
 心寒いだけさ」

1990年暮れ、雪の深々と積もる旭川の深夜の街で、私は仕事からの帰りに、ひとり車でこの曲を繰り返し聞いていた。私にとって、「さよなら」と雪の降るシーンはこうして深く結びついている。やはり「さよなら」は、悲しくもさびしくもない、私は今そんなふうに考えている。

それにしても、人は一生で一体何度「さよなら」を言わねばならないのだろうか。
0
投稿者:玄柊

サヨナラだけが人生だ

1992年6月に尊敬していた叔父が亡くなった。20年も前のことになる。

叔父は、私の父の一番下の妹の夫、つまり私には義理の叔父である。当時、彼は58歳、現在健在ならば78歳となる。優秀なエンジニアで一流会社に勤め退職まであと2年というところだった。叔父は、退職したら日本中を旅し、山に登り、仕事で疲れた心と体を癒したいと言っていた。叔父の仕事は、自然環境を破壊する方に手を貸す分野の仕事であり、それに少なからず心を痛めていたようだった。

会うと文学の話もしたが、最近聞いた音楽の話が多かった。それは時には喜多郎だったり、バッハだったり、モーツアルトだった。


病に倒れた叔父に、亡くなる一月程前に私はお見舞いの手紙を出した。すると、こんな手紙が来た。

「文学系の君とは違う分野で生きてきたが、山とモーツアルトを愛し、詩を愛する点では響きあうものがあるように思っている。私の命はもう長くはないらしい。今、中国の詩人のこの言葉が繰り返し心を巡っている。
 
    サヨナラだけが人生だ

詩人の名は干武陵(うぶりょう)、日本語訳は井伏鱒二です」

死を目の前にした詩の言葉は、悲しい言葉だった。死と詩は近いものかもしれないと思った。しかし、そうは思っても60にも満たない叔父の人生を少しでも長引かせる術を私は持たなかった。まだ、6月初旬だというのに、東京郊外の叔父の住む町で行われた葬儀の日は随分と暑かった。

叔父の死から20年が経過した今年の夏、旭川の友人で古本屋をやっているOさんから井伏鱒二の
「厄除け詩集」
という函入りの和綴じの本を手に入れた。井伏自身の詩作品と、中国の詩人たちの詩を井伏が自由な感性で訳したものが集められた詩集である。なんと冒頭には井伏鱒二自身の署名が入っている稀覯本である。
 この中に干武陵(うぶりょう)の

「勧酒」

という詩があった。友情と波乱万丈の人生を短い詩で表現した短いものである。井伏はこう訳した。

  どうぞこの盃を受けてくれ
  どうぞなみなみ注がしてくれ
  花に嵐の例えもあるぞ
  サヨナラだけが人生だ

最後の部分は原文では

「人生足別離」

である。叔父が最後に手紙に書いてくれた言葉は、この詩の最後の一文だった。私は叔父の死後20年を経てやっとこのことが解明できた。

その後、この詩について私なりに執拗に調査し、この詩に関して次のことがわかった。

1.代表作「幕末太陽伝」を撮った映画監督川島雄三は45歳で亡くなったが、彼の出身地青森 県むつ市の徳玄寺にある彼の墓碑に

 「サヨナラだけが人生だ」

 と彫られている。字は、川島の作品で使われた森繁久彌である。

2. 青森出身の詩人寺山修司の詩

  「幸福が通りすぎたら」
  「さすらいの途上だったら」
 
 に、この言葉が使われている。寺山は川島と同郷の青森出身であり、同世代である。ひょ っとしたら交友があったかもしれない。

3. 昭和初期に井伏鱒二は、昭和初期に林芙美子と尾道で講演会を行ったことがある。この  時に因島への船中で林芙美子が

 「人生はサヨナラだけね」

  と井伏に言ったことがあり、これが井伏の「勧酒」の訳に影響があった。

北海道ではお盆を迎え、暑い夏が日毎に秋へと向かっている。今年も既に、私は数人の高齢の人々を見送った。9月には、青森へ行き先日亡くなった母方の叔父の納骨式に出る。こちらの叔父は大正11年青森生まれで90歳だった。

私は、青森へは1990年3月に訪れたきりである。
今年6月に亡くなった叔父の納骨の前後に、私は幾つかの予定を果たす。その1つが、下北半島のむつ市へ出かけて映画監督川島雄三の墓碑を見てくることである。この詩の

「サヨナラだけが人生だ」

という言葉を胸に秘めて亡くなった人々への弔いの意味もある。

なお、川島雄三は井伏鱒二原作の「貸間あり」を映画化、劇中で桂小金治のせりふに「花に嵐の例えもあるそ。サヨナラだけが人生だ」を言わせている。

3
投稿者:玄柊

澹然として累無し

個人的な話だが、父のような存在だった東京秋葉原に住む叔父が90歳で亡くなった。私は叔父の資金援助を得て東京へ行き、大学へ進学することができた。遥か昔のことだが、叔父の存在は、いつも私を支えてきた。

叔父は大正11年生まれ、税法の専門家で、最初は大蔵省に入ったのだが、若くして公認会計士となり、次に大学教授となった。

私にとって、叔父は社会的にも学問的にも名誉ある立場にいる人であり、私は自分が社会的地位も名誉とも無縁の人間なので長い間、正直に言えばやや煙たい存在でもあった。

しかし、いつのまにか自分も結構な年となり、叔父とやや対等にものを話せるようになり、このところ、上京するたびに叔父を訪問し、税法以外の文学関係の話しをするようになった。

約束の時間に着くと

「待っておった」

と言う。そして、最近読んだ本の話をして、食事に出かける。まさに、父と子の充実した時間だった。

叔父の好きな文学者は、永井荷風、夏目漱石、森鴎外・・・。学者や思想家では河上肇、加藤周一、長谷川如是閑等である。

中でも、荷風と河上肇はよほど好きらしく、訪れるたびに本をくれたり、興味深い話をしてくれる。

今年3月に訪れた時に、別れ間際にしばらく入院するという話を聞いた。心配だったが、きっと乗り越えるだろうと願った。

しばらくすると、叔父の好きな作家、学者、思想家の全集が何種類も送られてきた。合計で200冊以上になる。鴎外全集38巻は、もう数十年も欲しいと思いながら、手にいれることのできないものだった。

叔父は自分の命がまもなく閉じられるだろうという予感の中で、文学好きな息子のような存在である私に、蔵書を送ろうと決意した。私にできることは手紙を出すことくらいだった。

蔵書と共に送られてきたモンブランの万年筆で何度も手紙を書いた。以前は、返事が来たがなかなか手紙を書けなくなっている様子だった。

5月下旬、叔父の命がそう長くないと分かっていた私は、決意して上京した。

5月26日午後5時、叔父宅へ到着した。3月よりも、かなり痩せて、食欲も衰えていたが、頭脳は明晰でまず頂いたのは

「河上肇研究」

という本だった。結局のところ、叔父は河上肇を一番好きだったのだ。

叔父は墓を故郷の青森に作った。墓石に

「累無し(るいなし)」

という言葉を刻んだという。私は、子供のいない叔父が「系累なし」という意味でそれを選んだのだろうと思った。しかし、よく叔父の話を聴くと、江戸時代の学者佐藤一斎の言葉で

「澹然として累無し」(しずかに憂いもなく)

という意味だそうだ。悟りの言葉だが、これを好むのは叔父らしいと思った。

別れる時、私は

「この次は秋に上京します」

と、伝えた。叔父は立ち上がることもなく、じっとわたしを見た。せめて車いすを使うことになろうとももう数年、せめて今年いっぱいくらいは生きてほしいと願った。

東京から戻って約1ヶ月が過ぎた。叔父の命はこの夏を超えて生き続けてくれるかもしれないと希望を持った。

しかし、6月24日午前4時に叔父が命を閉じたという連絡が入った。私のその日の早朝に目が覚めて、薄暗い外で陽が射し始めると同時に郭公の鳴く声を聴いた。

私は叔父を追悼する句として次のものを詠んだ。


   叔父逝ける 郭公の鳴く 薄明

人は必ずいつか命を閉じる日が来る。それは悲しいことだが、尊敬できる人格と業績を残した叔父を私は誇りに思い、特に本が好きな部分で濃い血のつながりを感じている。90年という長い航海を終えた叔父に与えられたものを思い、涙が流れた。

死者と生きているものに大きな隔たりがあるのかもしれない。しかし、叔父の表情や言葉は、私が生きている限り忘れることはない。心の虹は、生と死の隔たりを鮮やかに結んでいる。
0
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第5回 立原道造墓参-最終回

谷中玉林寺から細い隠れ道を通り、岡本文弥宅を発見し、東京の奥深さをしみじみと感じた。左手の道を行くと三叉路になる。前には江戸の香りが漂う蓮華寺がある。

柔らかい5月の早朝の日差しが快い。私は巨木の立つ三叉路のみかどパン店から右の方向を取り、野澤石材店で左折する。この地点の墓地の前の屋根つきの看板に

「寅さんは−つらいよ−と愚痴をこぼしたことはありません 作家 中谷彰宏」

と黒地に白い文字で書かれているのを発見した。なるほど・・・寅さんは「つらいよ」と言ったことはなかったのかと私は苦笑いをした。この中谷彰宏という作家を私は知らなかった。

しばらく行くと自性院という小さな寺がある。横のプレートを見ると、ここは別名

「愛染堂」

という事がわかった。しかも、昭和初期の映画「愛染かつら」の原作者川口松太郎はこの寺の愛染明王と現在はないが本堂横の桂の木にヒントを得てこの作品を書いたという。私は、映画「愛染かつら」をつい一月程前にTVで見たばかりだった。プレートの文章を読みながら映画で流れた有名なあの歌と主演の田中絹代、上原謙の顔が思い浮かんだ。およそ映画芸術とは呼べない通俗的メロドラマだが、初めて見た私は悪くはない映画だなと思った。

谷中で予測もしなかった愛染堂と呼ばれるこの寺の発見は、思いがけない収穫だった。

すぐ横の

「感応寺」

という小さな寺の門前に立った。この寺の名も初めてだなと思い、台東区の建てたプレートを見ると、ここには森鴎外作の史伝「澁江抽齋」の墓がある。澁江抽齋は江戸末期の医師で儒学者でもある。鴎外は、難解ともいえる硬い文章でこの作品を書いたが、私はこの作品をつい最近、秋葉原に住む叔父から「鴎外全集」を譲り受け、分厚い全集本でつい最近読んだばかりだった。

感応寺の境内に入ると光背を背に左手に花冠を持ち静かな表情を持つ仏陀の石仏があった。朝の柔らかな光を受けた仏陀の優しい表情に心が穏やかになってゆく。

澁江抽齋の墓はすぐに見つかった。左に石碑、右に「澁江家之墓」がある。鴎外はこれを団子坂の観潮楼から散歩してお参りしたのは確実であり、史伝を書く契機はこの寺にあったのかもしれない。

私は、この感応寺に澁江抽齋の墓があることを、まったく認識していなかった。レベルは大きく違うが映画「愛染かつら」の原作を生んだ寺である愛染院も知らなかったという意味においては同じことだった。次つぎと、私の最近の行動を助けるような興味深い事柄が予期せぬままに目前に現れてくる。

左折して谷中霊園のある北へ向かう。今度はかなり広い三叉路があった。この三叉路の左に

「多宝院」

という寺がある。私は、ここに詩人

「立原道造の墓」

があることをずいぶん昔から知っていた。しかし、ここ数年継続している東京での旅でも、なかなか訪れる機会がなかった。今回の東京での旅は是非この墓参で終えようと心に決めていた。

多宝院の前に立った。しかし、門が閉じている。多くの谷中の寺は門が開き、僧たちの読経の声さえ聞こえていたというのに、今回の旅の最終目的としていた立原道造の掃苔(そうたい)、つまり墓参りはできないのかと思った。

しばらく、人通りのない三叉路に佇んでいると、多宝院の中から中年の女性が門へ向かって歩いてきた。そして、門を開いた。まるで奇跡のようだった。つまりは何という事はない、、午前7時ぴったりとなり、毎朝の作業を彼女は行ったのだ。

私が、

「立原道造の墓をお参りしてもよろしいでしょうか」

と、彼女に告げると

「もちろん、結構です」

と答えてくれた。

境内の左へ張ると、さして広くはない墓地があり、立原の墓はすぐに見つかった。日本橋橘町の発送用木箱製造業の家に生まれた彼は、建築家となったが、同時に詩歌に関心を深めて詩人となった。堀辰雄主催の「四季」に参加したが24歳で中野区江古田の東京市立療養所で亡くなる。荼毘に付されて葬られた場所が、ここ谷中多宝院だった。

立原の最後の恋人水戸部アサイの墓を、神奈川県藤沢大庭墓地に探り当てお参りしたのは20年近く前のことである。水戸部アサイは立原の死後、他者に嫁いでいたので、大庭墓地の彼女の墓に行きつくのはなかなか困難だった。しかし、肝心の立原道造の墓に行きつくのにその後20年を要したのである。

これで、70年近く前の若き恋人同士の墓を両方ともお参りしたことになる。

多宝院を出て私が歩く日曜日午前7時台の谷中三崎坂は、人通りも車も少ない。立原の詩に

「爽やかな5月に」

という詩があったことを思い出しながら緩やかな坂を下った。一泊だけの短い東京への旅が終わろうとしている。




5
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第4回 森鴎外旧居

弥生坂から迂回して、早朝の団子坂を登り、森鴎外旧居へ向かった。鴎外は、観潮楼と名付けられたこの家に明治25年(1892年)30歳の頃から大正11年(1922年)60歳で亡くなるまで30年間住んだ。鴎外文学ファンにとっては重要な地点である。

鴎外は東大医学部を19歳で卒業後に軍医となり、22歳の時にドイツへ留学、ベルリン、ライプチッヒ、ドレスデン、ミュンヘンなどの地で4年を過ごす。この間、「舞姫」で描かれたドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトと恋に落ちるが、彼女との縁を切り単身で帰国する。

明治21年(1888年)9月8日、鴎外は横浜に帰着した。9月12日、つまり鴎外の帰着の4日後にエリーゼは鴎外を追って来日、一か月ほど滞在する。つまり、ドイツで鴎外と別れた直後に、エリーゼは日本へ行くことを決意、すぐに船に乗ったことになる。
エリーゼはこうして恋人鴎外への想いを強く持って来日したが、鴎外自身の逡巡、森家の人々の反対があり、エリーゼは結局帰国する。

このエリーゼの帰国後、同じ津和野藩出身の親類西周(にしあまね)の紹介で鴎外は海軍中将赤松則良の長女・登志子と結婚、翌年長男於菟(おと)が生まれる。平凡な人生を選び取ろうとした。しかし、この結婚は鴎外にとっては意に染まぬ結婚であり、その後二年を経過しないうちに彼女と離婚し、以後40歳まで独身を貫く。

つまり、団子坂の観潮楼に住んだ当時、鴎外は父母、祖母と同居していたが独身であった。独身を10年余り続けた経緯は、さまざまに取沙汰されているが、エリーゼとの恋が成就できなかった心の傷がなかったと言えない。

私は、1997年、つまり15年ほど前に鴎外旧居であるこの地へ来たことがある。本郷から北へと遡る長距離の散歩だった。
当時、観潮楼跡は鴎外記念本郷図書館となり、鴎外の遺品が集められた記念室のある素敵な図書館だった。現在は本郷図書館は2006年に近くへ移設、鴎外記念館は、今年2012年11月1日にオープン予定で観潮楼跡に建設中である。おそらく、この記念館は以前よりかなり広く、鴎外を知るためには非常に良い指針となる。

この記念館に昭和29年(1954)年、鴎外の33回忌を記念して長男於菟の努力で鴎外の詩「沙羅の木」の詩碑ができた。揮毫は於菟自身が当時千葉県市川に住んでいた晩年の永井荷風に頼んだものだった。永井荷風は若き頃から鴎外を尊敬していたので、鴎外の長男の申し出を快く引き受けたのである。


       沙羅の木

     褐色の根府川石に
     白い花はたと落ちたり
     ありしとも青葉がくれに
     見えざりしさらの木の花

沙羅の木とは、夏椿のことで、平家物語冒頭の「沙羅双樹」とは別のものである。私はこの詩碑を見たことがあるが、新しい鴎外記念館でも以前と同じようにこの詩碑が見られるようにと願っている。

こうして鴎外とエリーゼとの恋は実らなかった。鴎外が帰国した4日後に彼女が日本へ訪れたことは、エリーゼの鴎外に対する想いがどれだけ切実なものであったかを証明する。
この件については、様々な憶測があり、多くの本がある。この謎を解く鍵が新しい記念館にあるかどうか・・・・、次回の東京探索行では可能ならば是非ここを訪れたいと思っている。

鴎外はその後40歳で荒木志げと再婚、長女茉莉(まり)、次男不律(ふりつ)、次女杏奴(あんぬ)、三男類(るい)を得る。また多くの歌人や作家と交流、作品を次々と生み出す。鴎外の20代から30代の人生は平坦ではないが、後半の家庭生活は安定し幸福だったのではないかと思っている。

生涯を通した軍医と作家の二足のわらじは鴎外にとっては大変なことだったろう。また漱石に比べるとやや硬いイメージが強く一般受けするストーリー性のある作品は少ない。しかし、私はつい最近全38巻の岩波版鴎外全集が手に入ったこともあり、鴎外と向き合う日々が続きそうだ。


私は、建設中の鴎外記念館を横目で見て根津神社へと下る

「藪下の道」

を通った。藪下の道は緩やかに南へと下る。鴎外は繰り返しこの道を下り、根津神社を通り抜け、谷中、上野、本郷へ、そして時には神田、銀座まで行った。こうした散歩を幾度も重ねながら「青年」「雁」「澁江抽齋」などの多くの作品を書いた。

私は、不忍通りを南下し、弥生坂とぶつかった地点で言問通りを西へと入る。すると、急に谷中の下町めいた雰囲気の街並みとなる。早朝5時半から歩いた散歩はそろそろ7時になろうとしている。

うなぎ屋丸井のある地点で左折して玉林寺へ入る。この寺に来た目的であった小説家・正岡容(いるる 1904-1958)の碑を見る。正岡容の碑には

−思ひ皆 叶う春の灯 ともりけり−

とある。正岡容については、坂崎重盛の「神保町二階世界巡り」という本で知ったのだが、なかなかいい句だなと思った。正岡は荷風の研究でも知られるが、鴎外も好きらしく次ような歌を詠んでいる。

−団子坂に 観潮楼のありし頃 いまも恋うなり この書を読み−

「東京恋慕帖」という著書がある正岡容という人について私はもう少し深入りしそうな予感がする。なお、坂崎重盛にも

−鴎外の 坂を登れば 梅の花−

という正岡容の向こうを張った秀句がある。 

さらに、私は玉林寺の入り口の横の、よほど気を付けないと入り込めないほど狭く、迷宮のような細道へ入った。東京でも、これほどわくわくする道はないだろうと思うくらい不思議な雰囲気の道だった。圧巻は個人使用しか許可されていないと但し書きのある古風なポンプのある地点だった。

抜けると、知る人ぞ知る岡本文弥という浄瑠璃太夫で俳句を詠んだ人の小さくて黒塗りの家があった。この人についても、ここ数年愛読している坂崎重盛の書から学んだ。私は岡本文弥について多くを知らないが、この迷宮の細道からに毛出る地点に彼の家が存在したというだけで大きな縁を感じる。今後彼の句集やエッセイなどを読んでみようかと思っている。まだまだ、東京を巡る街や人物の未知の事柄は多い。

0
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第3回 漱石旧居

午前5時半、ホテルを出て神保町駅から都営三田線に乗る。日曜日である。それでもさすがに人口の多い東京はこのような早朝でも地下鉄に乗っている人がそれなりにいる。

白山駅で下車する。晴天である。車も人もほとんど見かけない。向丘二丁目の交差点を過ぎると左に浄土宗瑞泰寺がある。門柱の両脇にどっしりとした象が二体乗っかっている。なかなか面白い。閉ざされた扉には、菱形のしゃれたデザインが組み込まれている。

されに進むと光源寺がある。ここは門が閉じられていないので中へ入る。どこか洋風な趣があり、実際に本堂は真っ白に塗られ、正面から見るとキリスト教会のように感じる。正面のガラス窓がステンドグラスのようだ。屋根に瓦が置かれていなければ仏教寺院とは思えない。

光源寺の門の横の旧町名案内を見ると、この辺りは元は

「駒込蓬莱町」

という名だったそうだ。現在の向丘二丁目に比べればぐんとイメージが良い。東京は地名はもちろん、区の名も変わり、もちろん建築物は大きな様変わりをしている。大きく変わらないのは地形だけだろうか。

さらに進み左手に駒込学園を見て、そこを右へ曲がる。朝日が東から昇り、強烈な日差しがまぶしい。なだらかな坂を下りると、

「夏目漱石旧居跡」

というプレートがある。説明によると、夏目漱石は明治36年(1903)1月に英国留学から帰国、すぐにここ千駄木1丁目に貸家を借り、第一高等学校及び東京帝大講師となる。当時漱石は37歳、以後3年間ここに住み「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊ちゃん」などを書く。つまり、小説家デビューを果たした重要地点である。

帰国した明治36年3月に、漱石は前年9月に亡くなった旧友正岡子規の墓を田端大龍寺にお参りする。この時は、引越ししたばかりのこの家から田端の太龍寺まで約2キロの道を歩いたのは間違いない。

漱石の英国留学は楽しいものではなかった。官費留学だが、十分なお金が支給されたとはいえず、何よりも漱石が英国の生活を好まなかったのが大きな原因だろう。英国留学中、病床にいた子規と漱石は幾度も書簡を交わしお互いの友情を確認している。

親友という定義に最もふさわしいのが、この二人の関係だろう。だから、子規の死を知った時の漱石の衝撃は大きく、この事実を知ったことが英国からの帰国を決意させた。


私は一昨年10月に早稲田南町の漱石が後半の人生の約10年を過ごした場所を訪ねたので、これで漱石の東京に於ける重要な地点を二か所確認したことになる。

漱石旧居からまっすぐに南へと下る。左には苔むした塀が長く続く。東大地震研究所である。そろそろ6時、近くに学校が幾つもあるので、野球のユニフォーム姿の中学生が自転車で行き交うようになった。

東大地震研究所の門の前にお寺がある。願行寺である。ここは森鴎外の史伝の一つで

「細木香以」(ほそきかい)

という作品の主人公,俳人細木香以の墓がある。この作品は「伊澤蘭軒」「澁江抽齋」につづく史伝で、「雁」「青年」などくらべると難解な感じは否めないが、文学者には旧来より評価の高い作品群である。

墓を見つけるにはやや手間取ったが、たしかに彼の墓がこの寺にあることを確認した。森鴎外の旧居は、団子坂の上にあり、ここから1キロ余りである。この作品が書かれたのは大正6年だから、関東大震災前のいまだ古き江戸の名残りを残した駒込、千駄木、根津、上野、本郷辺りを漱石と鴎外は散歩しながら小説の構想を練ったに違いない。
0
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第2回「古書往来座」

「すすきのみみづく」を手に入れた私は、明治通りに出た。右に曲がり池袋駅方面へ行くとすぐに「古書往来座」がある。

映画館のような名を持つ「古書往来座」は、昭和初期に池袋西口周辺に住んでいた詩人・小熊秀雄や彼の周辺人々を顕彰するために作られている池袋モンパルナスの会の会報に広告が掲載されていて知った。

会報掲載の「古書往来座」の広告には、次のような小熊秀雄の詩の一節が紹介されている。

「・・・学生の頭を論ずる者があっても学生の靴下の穴を論ずる者はいない・・・」

いかにも小熊秀雄らしいとしか思えないこの一節を広告に使うという事は、店主は少なくとも小熊秀雄を読んでいるに違いないと思った。

初めて「古書往来座」を訪ねたのは昨年3月のことだった。残念ながらこの時に店主はいなかったが、昭和初期に池袋モンパルナスといわれる地域に住み、小熊と関連の深かった芸術家たちの本が集められたコーナーがあった。また、日本文学はもちろん、外国文学も実に質の高い本が集められていた。目利きの店主に違いない。

今回、「すすみのみみづく」を手に入れるために雑司ケ谷鬼子母神を訪れるなら「古書往来座」をもう一度訪れようと私は心に決めていたのだ。

趣のある店の前を写真に撮る。足を踏み入れるとレジの横の

「池袋モンパルナス・コーナー」

は健在である。このコーナーに、2月に出たばかりの池袋モンパルナスの会の会報が平積みになっている。

正面に、池袋に関連深い小説家、詩人のコーナーがある。その中に漱石の「行人」の復刻版がある。漱石は雑司ケ谷墓地に墓があるから、その関連でこの本が置かれているらしい。

奥へ足を踏み入れると、昨年春には会えなかった店主が本棚に本を入れている。40代後半だろうか、精悍な雰囲気で熱心に仕事をしている。

彼の横に外国文学のコーナーがある。ここで私はメイ・サートンの

「回復まで」
「82歳の日記」

を手に入れることにした。昨年の春も、わたしはここでメイ・サートンの日記を数冊てにいれている。

彼女はベルギー人だが4歳の時両親と共にアメリカへ移住、詩人であり作家でもある。彼女は1995年に83歳で亡くなるが後半の人生で残した日記が数多く残されている。その、最後の作品が「82歳の日記」である。

メイ・サートンの「海辺の家」にこのような文章がある。

「年をとるとは、退歩も受け入れて、老年に向かって成長することだ」

確実に忍び寄る老いとの彼女の向き合い方が、わたしを魅了する。彼女が亡くなった年齢に達するまでに、私の場合はまだかなりの年数が残されているとしても、確実に老いと向き合わなければならない時が必ず来る。

映画コーナーへ行った。最近、何冊かの本を手に入れた岩崎昶の

「映画が若かったとき」

と、千葉伸夫の

「小津安二郎と20世紀」

という本も手に入れることにした。

レジへ行き、漱石の「行人」も含めて自宅へ送ってもらう手続きをした。店主が

「北海道ですか。遠いですね」

と声をかけてくれたので

「ここへは二度目です。いい本が集まっていますね」

などと答えた。2月に出た会報に書いた私の文章の話、池袋モンパルナスの会の代表K女史のこと、小熊秀雄協会のT氏のことなどを話す。お互いにK女史とT氏という二人の共通の友人がいたことにも驚く。こうして、どうやら東京に古本屋店主の方に一人、知り合いが増えた。

東京では,ここ数年、神田神保町で古本屋めぐりをするのが大きな楽しみだった。このために、定宿を神田神保町の小さなホテルにしている。しかし、古書往来座をはじめとして、可能な限り今後は、少しづつ神保町以外の地域の古本屋へも足を運ぼうと思った。
1
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第1回 「すすきのみみづく」

2012年5月26日。旭川から飛行機で、珍しく成田に降り立ち午後一時過ぎに日暮里へ着いた。1991年にインドへ行って以来、21年ぶりの成田空港だった。

日暮里で山手線に乗りかえて大塚下車。都電荒川線に乗った。土曜日の午後である。少し汗ばむ程度の初夏、雨の心配のない曇った天気だった。半袖の人、長袖の人が入り混じっている。

向原で席が空いたので座り、上を見上げると吊革の上部に後部から前部にむかって薔薇が這わせてある。きれいだが、これらの薔薇が本物かどうかは区別がつかない。それにしても薔薇を吊革の上部に這わせるなどという発想を持つなんて、都電荒川線の路面電車の担当者はなんと粋な感性の持ち主なのだろう。

東京は大きな荒野・・・・というイメージしか持てなかった私だが、車内の薔薇を見て心が和むのを感じる。

向原、雑司ケ谷を経て鬼子母神で下車した。学生時代に友人が住んでいて、しばしば訪れた場所である。

もう二か月ほど前に、旭川でお付き合いのある先輩Fさんが

「雑司ケ谷の鬼子母神で売っている−すすきのみみずく−を買ってきてくれませんか」

と言った。彼は、郷土玩具を収集するのが趣味である。Fさんは、最近まで外国はもちろん国内も数多く旅してきた人である。しかし、このところ彼は、国内の旅をするのも自重しているようだ。

今回の上京は叔父のお見舞いで、明日には帰ることになっている。時間がたっぷりあるわけではない。しかし、どうにかしてFさんに頼まれた

「すすきのみみづく」

だけは手に入れようと思った。

両側に背の高い欅並木のある鬼子母神の参道に入った。古めいた喫茶店、観光案内所、その他の興味深い店が軒を連ねている。

参道から鬼子母神の境内へ入った。背の高い銀杏の木が左手に聳えている。なにやらいわれがあるらしく、立て看板が立っている。鬼子母神は、子授かり、子育ての神様として江戸時代から信仰をあつめたところで、この銀杏は「子授け銀杏」というのだそうだ。樹齢六百年だから相当なものである。

前方の鬼子母神堂の横に「上川口屋」という土産物屋がある。看板には創業1781年と書いてある。たくさんの人が集まり、写真を撮ったり、土産物を買っている。私は「すすきのみみづく」はこれほど人気のあるものかと勘違いした。

人をかき分けて、店の中を覗いた。しかし、駄菓子はたくさんの種類があるのだが、肝心の「すすきのみみずく」は何処にもない。仕方がないので、店の中でお客に応対してるおばあさんに

「すすきのみみづくが欲しいのですが」

と言った。すると急に機嫌が悪い顔になり

「戻って右側」

と、答える。どうやら、先ほど私が歩いてきた欅の並木道の参道の観光案内所あたりに「すすきのみみづく」が置いてあるらしい。何か事情があって、かつてはここで扱っていたらしい「すすきのみみずく」を置かなくなったのだろう。

今来たばかりの道を戻った。観光案内所へ入ると、そこには幾つものお土産物が置いてある。鬼子母神堂の前のお土産物屋のおばあさんと違って、ここにいいる二人の女性は愛想が良く、大、中、小、それに「みみづく親子」の四種類の-すすきのみみずく−を見せてくれた。

このみみづくは、貧しい孝行娘が母親の病気快癒の願掛けに毎夜お参りしたところ、鬼子母神があらわれ、そのお告げによって売り出したのが評判になり、その後幸せになったとの逸話があるという。

なかなか、かわいい感じのみみずくだが、なにしろすすきで出来ている。北海道へ持ち帰るときに壊れないことが大事だ。結局、中型でプラスチックの透明な箱に入っているものにした。

お土産には、ほとんど関心のない私だが、鬼子母神という懐かしい場所で、はじめて「すすきのみみずく」というものを手に入れた。さて、鬼子母神を出て「古書往来座」へと向かおう。




0
投稿者:玄柊

追悼 吉田秀和

新聞で高名な方の訃報を読んでも、声を上げるほどの驚きを感じることはそう多くはない。しかし、昨日の朝刊で報じられていた音楽評論家吉田秀和死去の記事を読んで、私は声をあげそうになった。

それは、吉田秀和の著書の多くを読んでいたり、彼の担当するFM放送を聞いていたことだけからくるものではない。1991年、つまり今から21年ほど前に私は鎌倉に住んでいた。その時、吉田秀和が奥さんと共に小町通りを歩いていたのに出会ったことがあったからだ。

当時でさえ、逆算すると彼は77歳。決して若くはないが颯爽とし、ドイツ人の妻バルバラさんとの様子が私には素晴らしい光景として目に焼き付いている。声をかけられるような存在ではなかったが、同じ鎌倉に彼らが住んでいることは、自分にとって大きな励ましであった。

当時の私は、鎌倉の大町の祇園山の麓の小さな一軒家で一人で暮らしていた。一人であることは自由であり、貧しくとも生きて行けるほどの収入があり、体が元気でありさえすれば大きな問題はなかった。文学ではなくひたすら音楽に心が傾き、モーツアルトとバッハを聞く毎日だった。そんな時、音楽を聞きながら吉田秀和の本をずいぶんと読んだ。

当時の私はインドへ旅したばかりで元気だった。しかし、日常的になにげないことを語る家族がなく、先の見えない未来を一人で生きる事への不安がないとは言えなかった。そのような鎌倉での日々のさなかに、知性豊かな吉田秀和夫妻を見かけたことを、羨ましくもあったが、励まされる出来事として今も忘れずにいる。

昨年春、小樽文学館で「吉田秀和展」があった。彼は父の仕事の関係で小樽に住み、中学時代を過ごしている。そのころ、小樽中学の英語の先生だったのが、のちの作家伊藤整である。展示の中で、吉田秀和が伊藤整のことを次のように語っている。

「先生は授業中は、生徒に自習させ、本を読んだり何かを書いていることが多かった」

当時の伊藤整は、すでに東京高商(現一橋大学)に合格していたが、学費を貯めるために小樽で先生を続けていた。野心に満ちた詩人を目指す伊藤整は、若き少年だった吉田秀和の目にこのように映っていたのだ。

今朝の朝日新聞朝刊「天声人語」によると、吉田秀和は妻のバルバラさんを9年前に失ったという。彼女は日本文学を研究し、永井荷風をドイツ語に訳していた。彼女は永井荷風を愛する女性だったのだ。調べたところによると、彼女は「日本文学の光と影−荷風・花袋・谷崎・川端」という本を出版している。

なお「天声人語」では、吉田秀和のエッセイに引かれていた次のドイツの詩句を掲げて終わりとしている。

「眼をとじてみたまえ、そのとき、きみに見えるもの、きみのものはそれだ」

また、吉田秀和はNHKの数年前の特集番組で次のようなことを語っていたことを思い出す。

「中原中也が子供を亡くしたとき、このような詩を作ったんです。

    愛するものを失った人は
    死ななければなりません

 僕は中原のこの詩を読んで
 『詩』と『死』は同じだと思ったのです。
 『音楽』『詩』『愛』『死』は同じ根から生えてきた。
 太平洋戦争の時、死はいつも隣にあったのですから」

吉田秀和にとって、いつも文学は音楽と同様の位置にあった。それは、『詩』と『死』は同じだという彼の根源的な思想から生まれている。

私は、吉田秀和は、不死の人かと思っていた。まもなく、百を超え永遠に生きる・・・。それを心から信じはじめていた。しかし、彼は百歳を前にして亡くなった。瞑目し手を合わせて彼のご冥福を祈りたい。

 ■中原中也の詩は、「在りし日の歌」の『春日狂想』冒頭より。なお、詩では正確には次  の通りとなっている。

 −愛するものが死んだ時には
  自殺しなけあなりません         
7
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第12回 藤牧義夫 −旅の終わり−

2012年3月12日、快晴である。版画家藤牧義夫(1911-1935)の隅田川を長大な絵巻で描いた作品が気になっていて、せめて白髯橋だけでも見ておこうと思い浅草方面へ出かけた。

浅草から東武線に乗り換えて曳舟で降りた。古い街並みの残る京島から永井荷風の「濹東奇譚」の舞台となった向島を通り抜けて明治通りを北上、白髯橋へ向かった。

藤牧義夫という昭和10年に24歳で浅草周辺で失踪、以後自殺か単なる行方不明かもわからずにこの世から姿を消した版画家のことを知ったのは、洲之内徹の

「さらば気まぐれ美術館」

という本の「夏も逝く」「一の江・申考園」という最終章二つを読んだことによる。藤牧は群馬県伊勢崎出身、上京して以来、版画で「赤陽」「給油所」、それに加えて隅田川を墨で描いた「隅田川絵巻」4巻を残した。


私は、洲之内ファンである。この本の最終章は昭和62年に芸術新潮に書かれ、その年に彼は74歳で亡くなった。連載の最後が藤牧義夫だったことは、いかに洲之内が藤牧の作品と人生を愛していたかを表している。私が、この本を読んで以来20年余りにもなるが一度はその舞台となった白髯橋と隅田川沿岸を散歩しようと思い続けてきた。しかし、思いはともかく、東京周辺に住んでいた時には腰が上がらず、北海道へ移り住んでからは費用と時間が問題となった。

アーチ式の大きな白髯橋の姿は、藤牧義夫が昭和9年に描いた「隅田川絵巻」と基本的には変わっていない。彼はここから、佃島と日本橋を結ぶ相生橋までを精密に描き、それを絵巻物4巻にまとめた。その緻密さは尋常ではない。

私は、白髭橋から下流へと下り桜橋を渡った。今では埋め立てられてしまった今戸橋を渡り、浅草へ戻る。雷門周辺は観光地らしく人であふれ始めていた。「時の鐘」の前に建てられた句碑で

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲」 

を確かめ、伝法院通りの古書店

「地球堂書店」

へ入る。この書店は、坂崎重盛の「TOKYO・老舗・古町・お忍び散歩」という非常に面白い本で紹介されている。しばらく、本棚を見ていると


「編笠」(ぬやま ひろし)

という詩集が見つかった。ぬやま ひろしは本名西沢隆二である。中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄等の作っていた雑誌「驢馬」の同人である。この人は司馬遼太郎の著書「ひとびとの跫音」にも登場する。この本は、子規の死後に子規の母と妹律が正岡家の養子とした正岡忠三郎の人生を描いたものだが、西沢隆二は正岡忠三郎の友人だった。

詩集のタイトルとなっている「網笠」とは、西沢が左翼運動中に検挙され、獄中にいたときに被せられたものである。当時、獄中にいた人々はしばしば「網笠」を強制的に被せられた。これは、獄にあるものが風呂に行く時、運動に出る時などにお互いの顔を網笠で隠し、認識させないためであった。

「網笠」は、このところ調べていた「驢馬」という雑誌に深く関係しており、中身も非常に興味深い。迷うことなく手に入れた。

昼ごはんの時間が迫っていた。オレンジ通りから仲見世を横切って、

「アリゾナ・キッチン」

へ入った。ここは永井荷風が昭和初期から晩年までしばしば通った店である。思ったよりは狭いが、山小屋風の質素な作りでる。荷風が好きだったというチキン・ステーキは避けて、もっと安いランチを食べた。給仕するのは60代くらいの凛とした態度の女性である。食事をしながら、地球堂書店で手に入れたばかりの「網笠」を読んでいると、獄中で彼は

「正岡子規全集」

を読み、以後歌や俳句を作り始めたという。

その後、オレンジ通りの喫茶店「アンジェラス」へ行きコーヒーを飲んだ。ここも、浅草ではよく知られた老舗らしいが、私は初めてである。ここも、洲之内徹の

「絵を洗う」

というエッセイを読んでその存在を知った。ここで森芳雄の「テラスの女」を見る。洲之内は、この喫茶店に通い、この森芳雄の絵が煙草と塵で汚れていることが気になり、作者森芳雄の口利きで「アンジェラス」店主の了承を得て、この絵を洗ったのだ。それが、洲之内のこのエッセイの内容である。

私は、この翌日、鎌倉で学生時代からの友人と神奈川近代美術館で行われていた「藤牧義夫展」を見た。その日は、松田の友人宅へ泊り、3月10日に北海道へ戻った。

こうして、2012年3月の東京探索行が終わった。私にとっては贅沢な、しかし、実り大きな東京の旅だった。
1
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第11回 本郷

2012年3月7日、東京への旅は5日目となった。

体調は良く、歩く距離も抑えているので足の調子も悪くはない。昨年の3月の旅は、一日に歩く距離が長過ぎた。多い日は10キロを超えた。さらに朝と夜の隅田川の撮影などを頑張りすぎてかなり疲れた。足の筋肉が痛んで、塗り薬を塗っても回復しなかった。

そして、3月11日に早朝6時に浅草で「時の鐘」を聞いた日、午後2時46分にホテルで本を読んでいる時、東日本大震災が起きたのだった。大きな揺れだったが、これほどの大きな被災に繋がるとは思ってもみなかった。

その後、東京への旅はそろそろ終わりにしようと思った。詩人・小熊秀雄の昭和初期の足跡は、ほぼ調べつくした。漱石、鴎外、荷風などの東京にかかわりの深い文学者たちの足跡も、調べるときりがない。

しかし、その後もさまざまな私用が重なったこともあり、性懲りもなく東京への旅を続けている。しかし、ペースを落とし気張る姿勢を少し緩めた。しかし、そうはいってももともとの自分の性格は大きくは変わらない。東京へ着いた初日から、かなり歩いている。

今日は、曇ってはいたが、神田神保町からは至近距離にある本郷へ出かけた。本郷三丁目から菊坂を登る。4年ほど前に、同じ菊坂で樋口一葉の旧居を見つけた。ここで詠んだ一葉の歌に次のようなものがある。

「寝覚めせし よはの枕に音たてて なみだもよほす 初時雨かな」

その近くに大正10年に宮沢賢治が上京した時に下宿した場所があった。彼はここで「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」など多くの童話を書いたという。


今回の目的は、前回の菊坂訪問時に見逃した

「本郷菊富士ホテル」

の位置を確かめるためだった。右に折れて本妙寺坂を登り切り、さらに左へ曲がり突き当たった地点に、「本郷菊富士ホテル」がかつて存在していたことを示す碑があった。背後には長楽寺の境内が見える。

本郷菊富士ホテルは大正3年に建てられ、昭和二十年三月十日に戦災で炎上するまで多くの文人が止宿した。碑の右にある御影石には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、小関史郎、坂口安吾、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、伊藤野枝等の名が刻まれている。

多くの文人たちが集まったホテルだが、私が最も興味深いのは昭和五年十月末に三年間のソビエト留学を終えて帰国した中條百合子と湯浅芳子がまっさきに宿として選び、約二か月をここで過ごしたことだった。

また、アナーキストである大杉栄と、夫辻潤のもとを去った伊藤野枝が大正5年(1916)10月からここに滞在していた。そして翌月に大杉は葉山日蔭の茶屋で、彼の周囲を取り巻く愛憎関係から神近市子に刺される。

そのようなこともあり、この本郷菊富士ホテルは、私にとっては長い間、気になっていた場所であり、いつかはその具体的な場所をこの目で確かめようと思っていた。

本郷通りへ戻り、東大を右手に見て、古本屋を巡りながら北へ向かって西片まで散歩する。西片二丁目で、小さなビルの前に

「新書館」

という出版社の名が書かれたプレートを見かけた。実は昨日、泊まっているホテルのある神田神保町の書泉グランデという本屋で

「白秋望景」(川本三郎著)

という本を手に入れたのだが、その本の出版元が新書館だった。川本三郎と白秋は意外だったが、白秋は大正14年8月、歌人の吉植庄亮と共に樺太へ旅しその記録を「フレップ・トリップ」としてまとめている。また、白秋はこの樺太への旅の帰途、旭川へ立ち寄り旭川の歌人、文学者たちと交流している。もちろん、当時旭川新聞記者だった後の詩人・小熊秀雄とも会っている。そんなこともあり、川本三郎ファンである私はこのぶ厚い本を手に入れたばかりだった。

東大赤門から構内へ入った。春休みに入ってるせいか、歩いている学生はさほど多くはない。安田講堂を正面に見て三四郎池まで歩いた。

作家・杉浦民平に

「小熊秀雄のこと−詩人を虐げたあの年月の暗さ」

という小熊秀雄を回想した文章がある。1934年(昭和9年)5月、東大の学生だった杉浦は帝国大学新聞の編集部にいた。そんな時、太いGペンでぎしぎしと書かれた詩を投稿してくる一人の詩人がいた。それが小熊秀雄だった。その詩人が杉浦のいる帝大新聞編集部を訪ねてきたのだ。この杉浦の文章をいくつか抜粋する。

「かれは荒髪をばさばさにして大柄な男で、その当時独文学の助手をしていた芳賀檀に似ていた」

「詩人は、原稿を早く掲載してくれることを頼んだあげく、稿料を前払いしてくれないかといった」

「わたしは小熊と一緒に編集室を出て地下食堂へ入った。小熊は『トーストをとっていただけませんか』と哀願するような声でカウンターのそばでわたしにささやいた」
そしてほとんど無言でわたしはコーヒーをすすり終わり、かれはパンを食べ終わると『電車賃を貸していただけませんか』とかすかな声でいった」

「小熊の原稿はそのまましばらく状差しの中にあったが、その後小熊から返送してくれというハガキが来たときには、もう行方が知れなかった。
わたしまで加わって、詩人を虐げたあの年月の暗さは限り知らぬものである。帝大新聞は自由を守ったように伝えられているかもしれぬが、どうもそうではなかった」

(『東京大学新聞』1951年 昭和26年11月15日)

学生だった杉浦と小熊が東大構内で会って以来、小熊の死と太平洋戦争を経た17年後の杉浦の文章である。杉浦が小熊との出会いをいかに印象的な出来事として記憶していたかがよくくみ取れる。小

熊の貧困は、詩人として生きる自らの選択であったが、時代と人々の無理解が詩人を如何に虐げたか・・・・、自らの罪を自覚しない罪は、裁判で裁かれた罪よりも重い。しかし、杉浦のこの文章によって、小熊秀雄の人生の一瞬の出来事を後世の我々は現実のものとして十分に感じ取ることができる。

三四郎池で、このようなことを思い出しながら長い時を過ごした。2012年春の私の東京探索行もいよいよ後半へ差し掛かっている。

0
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第10回 サンチョ・クラブ

船山馨終焉地から五ノ坂を下りると、西武新宿線中井駅近くの踏切を渡った。そのすぐ先の、両脇がコンクリートで塗り固められている妙正寺川を渡る。桜並木が上流から下流へと続いている。3月末に桜が咲くと川に沿って続く散歩道は見事な景色になるだろう。

橋の名は「美仲橋」(みなかばし)である。この橋を渡った右手には、昭和初期に「第七官界彷徨」などで異彩を放った作家尾崎翠が住み、そして昭和5年から林芙美子が洋風の貸家に住んでいた。林芙美子はその後、線路を隔てた五ノ坂へ移り、さらに現在林芙美子記念館となっている四ノ坂入口の新居が昭和16年に完成するまでこの辺りに住んでいる。つまり、林芙美子は東京での後半の人生の大半を落合で暮らした。

彼女の随筆「落合町山川記」(1933年 昭和8年)によると、

「落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞはきな臭い人を焼くにおいが流れてきた」

とある。この表現は妙に生々しく、私に次のことを想起させた。

落合火葬場は、昭和15年11月20日に亡くなった小熊秀雄が焼かれた場所である。林芙美子が小熊秀雄と顔見知りだったという確証はないが、松本竣介やこの辺りに住む作家、詩人と付き合いのあった二人は、意外なところで接点はあったかもしれない。

実際、小熊には「文壇風刺詩」という連作17編のなかに

「林芙美子へ」

と題した詩を書き、最後は次のように終えている。

「感傷性の売文家よ
 だが、再び貴方に九尺二問の長屋に住めとは言わない
 人生への追従をうち切ってください
 面白がっている読者に面白がらしてはいけない
 世界の中にただ一人
 私だけが面白くない貴女を期待している
 不機嫌な反逆的な貴女を待っている」

 (山雅房刊 『現代詩人集』第5巻 昭和15年9月20日刊に収録)

なお、この詩の中で出版記念会での林芙美子の様子を皮肉った部分では、その現場にいなければ書けない臨場感に満ちたものである。

昭和10年11月、林芙美子の小説「牡蠣」の出版記念会が催された。場所は丸の内の明治生命地階マーブル・レインボー・グリルである。多くの文学者たちに交じって、小熊は少なくとも一度は、この席上で林芙美子と会っている。

林芙美子は、昭和26年に名作「浮雲」を出版した直後の6月にこの世を去った。戦後の虚無的な男女の道行きを描いたものだ。この作品を原作として水木洋子脚本、成瀬巳喜男監督、高峰秀子、森雅之主演で映画化された屋久島のラストシーンが、今も目に焼き付いている。降りしきる雨、そして男に執着し続けた女の死・・・。

小熊はこの作品を読むことなく、10年ほど前にすでに亡くなっていたが、もし、この作品を読んでいたならば、詩の中で「感傷性の売文家」あるいは「人生への追従」という表現で彼女を批判することはなかっただろう。林芙美子が最後に残した作品「浮雲」は、小熊の強烈な風刺精神を沈黙させるほどに程に苦悩に満ちた最終作である。

ついでながら、落合火葬場について分かったことがある。
昭和11年7月12日、東京代々木の陸軍衛戍刑務所で2.26事件で決起し反乱罪を問われて処刑された青年将校の一人栗原安秀少尉は、この落合火葬場で荼毘に付され、遺族に骨が渡された。栗原安秀は昭和初期に第七師団軍人の子息として小学校時代を北海道旭川で過ごし、旭川時代には父の友人である軍人斉藤瀏を「おじさん」と呼び、斉藤瀏の娘で後に歌人となった斉藤史とは同級生である。

つまり、林芙美子の随筆に書かれた落合火葬場は、大正から昭和期に旭川と大きく縁のある詩人と軍人が同時期に荼毘に付された場所である。

私は、美仲橋から東へと向かい寺斉橋(じっさいばし)とぶつかった地点で南へ向かう山手通りを歩き始めた。右手に落合第五小学校がある。この近辺には昭和9年11月20日から宮本百合子が住み、獄中の夫宮本顕治へここから手紙を繰り返し書き送った。

この年の12月7日の百合子から顕治宛ての手紙には

「この家へ越したのが11月20日です。引っ越し通知のハガキはもうご覧になっているでしょう?あれも壺井さん夫婦が世話をやいてくれたのです」

と書き、壺井繁治・栄夫妻が登場し、このすぐ後には中野重治、原泉夫妻のことが出てくる。


二人の往復書簡は後年「十二年の手紙」としてまとめられ、多くの人に読まれたが、私は初めてこの地点を認識した。

宮本顕治が市ヶ谷の獄中にある時、百合子自身もこの上落合で検挙され、結局、彼女は翌年暮れにはこの貸家を出ざるを得なくなる。つまり、この上落合に宮本百合子が住んだのは昭和9年から10年にかけての一年に満たない期間だった。

この道をしばらく行き、左手の住宅街へ入った。ごく普通の住宅が並んでいる。東京でも特別な場所ではない。しかし、この周辺には昭和10年前後に壺井繁治・栄夫妻、中野重治、村山知義、窪川鶴次郎、山田清三郎等プロレタリア陣営の作家たちが住んでいた。また彼らの仲間である詩人で画家の野川隆、漫画家の松山文雄、加藤悦郎らもこの辺りに住んでいる。

この辺りには全日本無産者芸術連盟の機関誌「戦旗」の発行所があり、この雑誌に関係した林房雄、鹿地旦、江口渙、貴司山治、武田麟太郎、蔵原惟人、藤森成吉、立野信之、神近市子、片岡鉄平、柳瀬正夢も住んでいた。

もちろん、その家々は既になく、その事実を知る手立てはまったくない。しかし、かつて、彼ら風刺詩人たちが集まって作った「サンチョ・クラブ」という風変わりな自治村はここにあり、たった二号で終刊したけれど彼らによって「太鼓」と言う雑誌さえ発行されていたのだ。

この仲間の一人に江森盛彌という詩人がいて、彼が後年出した「詩人の生と死について」というエッセイ集で、詩人小熊秀雄のことを次のように書いている。

「詩人・小熊秀雄は池袋の方から、一里以上の道を、そのほそながい顔を空のほうへななめに向けながら、ブラブラと歩いて−散歩のためと、また電車賃がないせいでもあった−ちょいちょいやってきた。
私は、自分だけで私たちの住んでいたあたりを『流刑地』とよんでいた。みんな、特高に、動きの取れないように、しつこく監視されながら、その狭い土地でウロウロとくらしていたからだ。
そのころみんなふだん和服を来ていたのも、そういう生活状態のあらわれだった。いつも洋服ばかりきていたのは、西洋の浮浪者みたいな、小熊秀雄だけだった」

西洋の浮浪者・・・。貧しくともそんな雰囲気を漂わせて、池袋から流刑地へ歩いてきて、サンチョクラブの面々と議論を戦わせる詩人。青春は終わりを告げ、まもなく中年の域へ入ろうとしている。昭和初期のファシズムの横行した時代に早すぎた晩年を迎えようとする小熊秀雄の出没地の一つが落合であった。


0
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第9回 船山馨

画家・松本竣介の住んでいた「四の坂」を登りきると、左手の坂道を下った。
「四の坂」と「五の坂」の間の道に、私の目指す家があった。穏やかな雰囲気の高級住宅地が一帯を占めている。丘の上のこの辺りから、前方に中野方面を見下ろすことができる。

すぐに、作家・船山馨の住んでいた家が見つかった。ここも建て直されてはいるのだが、門の横の塀に「船山」という名が記された表札が掛けられている。松本竣介同様、家を受け継いだ船山家の家族がまだ同じ場所に住んでいる。あらゆることに変化の激しい東京で、このようなことが二度続いたことに驚かされた。

船山馨は、1914年(大正3年)北海道札幌生まれの作家である。昭和初期に学問のために上京を繰り返した後、1937年(昭和13年)に札幌で北海タイムスに入社する。しかし、札幌に落ち着くことなく翌年に再び上京、舟橋聖一、寒川光太郎、椎名麟三等の文学者たちとの交友を深めて二度芥川賞の候補となり、船山は文壇で注目を浴びるようになる。

私が彼を知ったのは1960年代後半に「石狩平野」「お登勢」などがベストセラーとなりTVドラマ化されてからである。当時船山は50代中頃で、書きまくっていた。高校生だった私が、旭川の本屋へ行くと彼の作品が山積みになっていたことを覚えている。つまり、私の印象では正統的な文学者というよりは、同郷のベストセラー作家ということだった。

彼の本の挿絵、装丁は同郷の友人である彫刻家・佐藤忠良が担当し、彼らの友情はよく知られている。

以来私は、船山馨への関心はある程度あるにせよ、この落合に住んでいたことも知らず、1981年に彼が亡くなった時、通夜の日に船山の妻春子も絶命したという事実さえも知らなかった。

このように船山の良い読者とは言えなかった私だが、船山邸の近くに住んでいた林芙美子のことを調べていたら、戦後の短い期間ではあるが彼女とは親密な交友があったことを知った。とくに1948年(昭和23年)に船山が新聞連載の問題でヒロポン中毒になった時に、手を差し伸べてくれていたのが林芙美子であったことは印象深い。二人の交友については、船山の「夾竹桃」というエッセイに詳しい。

船山馨に「みみずく散歩」(1978年)というエッセイ集がある。この中に

「不識奇想-小熊秀雄」

という文章がある。この文章の出だしは次のようにして始まる。

「私は小熊秀雄氏とは面識がなかったし、その詩業についてもほとんど知らない。むかし、札幌の新聞社に勤めていた頃、同僚の詩人中家金太郎が、時折り畏敬の念を込めた調子で、その名を口にするのを聞いたことがある。
中家は自尊心が強く、またそれにふさわしい詩人であったから、他人を畏敬するようなことは、ことに『畏』のほうはまず絶対になかったから、私は彼がその名を口にするたびに、一種の奇異な感じを持った。」

詩人小熊秀雄は1938年(昭和13年)、ちょうど船山が北海タイムスに入社して、中家から小熊の名を聞いた頃、10年ぶりに北海道へ帰省した。この時、旭川から東京への帰りに札幌に寄り、中家と会っている。小熊は、中家の家に4日滞在し、その時中家の斡旋で北海タイムスに

「札幌詠草」

と題した短歌30首と絵を添えた4回の連載を行っている。小熊秀雄は、旭川から上京してい以来、短歌を詠むのをやめて10年余りになっていたが、久しぶりの旭川で短歌を詠んだのを契機に後輩で旧友である中家の励ましもあってこの連載に踏み切ったのである。

中家金太郎は旭川出身の詩人である。大正期旭川での学生時代から小熊を知っていたが、この時の札幌での小熊との出会いは、中家の小熊に対する「畏敬」の念を深めたに違いない。

この時、小熊の死は二年後に迫っており、意気軒昂とはいかなかったと思われるにもかかわらず、中家には詩人小熊秀雄の姿が好ましく映ったらしい。その「畏敬」の念が、北海タイムスの後輩船山に伝わり、後年に船山は会ったこともない小熊を、このエッセイに書いた。

なお、「不識奇想」(ふしききそう)というこの文章の初出は1967年5月に出た小冊子

「小熊秀雄詩碑建立パンフレット」

に書いたものである。これは、1967年に旭川の常磐公園に建立された小熊秀雄の詩碑の記念のために出されたもので、誰が船山馨に原稿を依頼したか今のところ明確ではない。
この「不識奇想」というタイトルは、

「相手をよくは知らないが不思議な印象を残す」

というような意味だろう。相手とは船山にとっての「小熊秀雄」である。

船山がこの下落合に住み始めたのは1948年(昭和23年)である。小熊秀雄が亡くなった1940年(昭和15年)には、船山は既に上京して東京の杉並や中野に住んでいたが、豊島区池袋にいた小熊と船山は、偶然にも文学的な場でも出会う機会はなかった。しかし、中家金太郎を通した間接的な縁とはいえ、船山によってこのような文章が遺された。

坂道を下ると西武新宿線の線路が見え、電車が目の前を横切って行った。まもなく、時計は正午を指そうとしている。私にとって今まで遠かった落合が今日の散歩で随分と近くなった気がする。

1
投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第8回 松本竣介

高田馬場から西武新宿線に乗り、二つ目の中井駅の北の丘には、「一の坂」から「八の坂」と名付けられた通りが縦に並んでいる。戦前にこの土地を所有した人が命名し、周囲には多くの芸術家が住んでいたという。

2012年3月6日午前11時、私は林芙美子記念館を出ると、北へと向かう「四の坂」の急な階段を登った。

この坂の上に、昭和初期に画家松本竣介(1912〜1948)が住んでいた事を知っていた。しかし、彼が林芙美子邸とこれほどに近い距離に住んでいたことを私は明確には知らずにいた。

階段を登りながら、昨年暮れの12月1日、朝日新聞に次のような小さな死亡記事があったのを思い出す。

【松本禎子さん】 洋画家・故松本竣介さんの妻、11月25日死去、99歳。葬儀は近親者のみで行った。喪主は次男莞さん。個人の遺志で供花・香典は辞退している。

松本竣介と妻禎子は同年の生まれである。松本竣介は昭和22年(1947)に36歳で亡くなった。すると99歳の妻禎子は、夫の死後、99歳に至るまで63年間を未亡人として生き抜いたことになる。

私は、新聞記事を見て松本竣介の妻がまだ生きていたことに驚いた。遠い遠い過去が、私とも無関係ではないことを感じる。

私は、松本竣介の絵を長い間愛していた。昭和初期に渡欧することなくこれほど知的で洗練された絵を描いた画家がいただろうか。ニコライ堂をはじめとする都会の風景、人物を幾重にも配したモンタージュ風な斬新な絵、都会の風景をバックに、広い空の中にすっくと立つ青年を描いた自画像・・・。

彼は、単なる画家ではなかった。優れた文章を書き、昭和11年から12年にかけては妻禎子の協力を得て

「雑記帳」

という雑誌を出している。この雑誌には彼自身の文章やデッサンはもちろん、近所に住んでいた林芙美子、既に亡くなっていた故郷岩手の先人宮沢賢治の遺稿、さらに萩原朔太郎、佐藤春夫、室生犀星、平林たい子、そして最終号となった昭和12年12月号には

「小熊秀雄 風刺文学のために」

が、掲載されている。

詩人の小熊秀雄と松本竣介の出会いは、友人であった画家寺田政明や彫刻家舟越保武が大きく絡んでいる。池袋モンパルナスと呼ばれた地域に住んだ経験のある松本竣介が彼らと交友が深かったのは当然の事だろう。

当時は、ファシズムの横行による戦時体制強化の風潮が強かった。その風潮に抗するかのような極めて上質な芸術雑誌が若き20代の青年だった画家松本竣介によって出されていたのだ。

しかし、雑誌刊行にはお金の面はもちろん、思想統制の意味でも権力の介入があり、初めての子供の死が重なり苦労は絶えなかった。この良質な雑誌は14号で終刊となる。

急な「四の坂を登りつめ、左手の道へ入り、さらに右へ曲がると正面に

「松本」

という表札の上がる広壮な家が見えた。家は建築家である次男によって建て替えられている。しかし、昭和初期に松本竣介のあの傑作群が生みだされ、雑誌「雑記帳」が発刊され、妻禎子が昨年暮れに亡くなった場所はここだったのだ。




クリックすると元のサイズで表示します



クリックすると元のサイズで表示します
0
投稿者:玄柊
1 2 3 4 5 | 《前のページ | 次のページ》
/5 
 
AutoPage最新お知らせ