日弁連が政府に対して、死刑執行の停止を訴える要望を出した。
前々から、弁護士の多くは死刑制度について、反対の意志を持っている。
基本的に、犯罪者も人間であり、それを制度として国が死刑に処することを問題視しているからだ。
欧米の殆どの国でも、死刑は廃止されている。
それに見習うべきだとも弁護士や死刑廃止論者は主張している。
ただ、
欧米の市民が、死刑は非文化的、非文明的と思っているかというと、必ずしもそうではない。
犯罪被害者など、犯人の死刑を望む人は意外に多いという。
昨今、冤罪が多いため、間違って、無実の人間を死刑にしてしまう事例や、今後もそうなる可能性が高いのは事実で、これはぜひ、捜査機関にはきちんと捜査を行なってもらいたいところだが、それと死刑の是非は別問題。
また、死刑を望んで通り魔殺人などを行う人間もいるが、それを理由に死刑の廃止を訴えるのも、お門違いだ。
死刑の問題は、そもそも、死刑に相当する犯罪を行ったことの問題をまず論じるべきだし、被害者や遺族のことも考えなければならない。そうでなければ、何のための法治主義か、犯罪者の人権だけを考えた、偏った思想になる。人を殺して罰せられないのなら、無辜の市民を守るべき法は意味が無していないことになり、殺人犯に対して報復を認めた「敵討ち」を容認しても良いことになる(ただ江戸時代の敵討ちにも、制度的なルールがあり、自由に報復できたわけではない)。
人権は、被害者や、遺族などの関係者をまず優先し、次いで罪人の人権を論じるべき。もちろん、冤罪はなくすことが前提の上で。
国が罪人の命を奪うのはけしからんが、人が人を殺す点についての論が欠けているようではだめだ。
ちなみに、死刑の是非は古代中国の漢王朝や魏王朝でも論じられた。当時は、死刑を適用するか、死刑よりも肉刑を適用すべきか、で論争があった。肉刑とは、体の一部を切り取る刑で、儒教では親がくれた体は、髪の毛ですら、切り取るのは大きな問題だった。手足を切ったり、性器を腐敗させて機能をなくしたり、といった刑罰は、相応に残酷であり、まだ死刑のほうが良い、という意見もあったとか。
日本でも、平安時代、死刑は薬子の変の時だけで(それも事実上自殺に追い込むという形になるが)、以後はずっと行われず、保元の乱で、崇徳上皇方に味方した武士に死刑が適用された時、物議をかもしたという。
近現代になって、法思想が進歩したから、死刑が問題視されるようになったわけではない、ということだ。
もっとも、制度としての死刑はなくても、捕縛時に殺されたり、獄中の劣悪な環境で死亡したり、拷問で殺されたり、といったことはあったかもしれない。これは現代の死刑のない国でも同じだ。死刑がないから、人を殺していないかというと、必ずしもそうではない。

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