山本太郎の問題。
園遊会で福島原発のことを書いた手紙を天皇陛下に渡したことが、大きく問題視されている。支持する評論家などもいるが、多くは批判的だ。
行為として、天皇陛下や、他の参列者に対して、失礼に当たる、というのはもちろんの話だが(そういう感覚の裏返しで、天皇制批判も絡めて、支持する評論家もいるわけだけど)、ことは国会議員の制度的価値の問題になる。
天皇の政治利用について、山本太郎は、「知らなかった」等と言っているが、そもそも知らないはずはない。
なにより、教科書に出てくる文言的な感覚での「政治的利用」というだけでなく、実際問題として、天皇が政治に口をだすことを戒めている代わりに、国会議員が、立法し、多数党が内閣を組織して政治を動かす制度になっている。天皇に訴えたところで、天皇陛下が何かをすることはできない。
つまり、個人的な動機で天皇を利用しようとする山本太郎の行為は、議会制民主主義そのものを否定しているのと同じ。国会議員がもっともやってはいけないことだ。被災地で避難している住民が、陛下のお見舞い訪問の時に、「どうかお助けください」と訴えるのとはわけが異なる(実際にはそれもほぼないだろうけど)。
これをやった時点で、山本太郎は、自身の身分を否定したことになり、当然、国会議員としての資格はないと言ってよい。
そもそも彼が、こういう行為に走ったのは、指摘している人もいるが、足尾銅山鉱毒事件の田中正造の直訴の話を真似したのではないか。
しかし、政治体制が異なる上に、現地を回って救済に奔走した田中正造と違い、山本太郎の一連の行動を見ると、真摯さよりも、自分の感情を発露してそれを良く見せようとするパフォーマンスの方を強く感じる。竹島問題、原発問題、土砂災害の伊豆大島での話も、どこか他人ごとのようなものを感じる。現地へ行って何かをするということよりも、言いたいことを言う感じのほうが強い。それをマスコミがネタに取り上げるため、余計に話題になって、支持する人もいるし、その行動に批判的なのをおかしい、という意見もあるが、もっとためになることをしている人や組織はたくさんあるのに、なぜ、という感じが強い。
天皇陛下へ手紙を渡す行為も、「よくやった山本」という賞賛を浴びたいがための、ひどく個人的な動機からくるパフォーマンスではないか。そして、批判が出ることもわかった上で、その批判者には、「原発廃止に反対するろくでもない連中」というレッテルを貼って対抗できると踏んでいたからだろう。
おそらく多くの人が、彼の行為に苦々しさを感じるのは、「自分をアピールするのに天皇まで利用する」そういうところが見え透いているからだと思う。彼に異様な自我の肥大を感じさせるのだ。国会議員という権力者としても危険な方向にある。
個人的には何を主張しても良い国だが、国会議員としては、もっと自分を律し、同時に結果の出せる行動をすべきであって、それが出来るかどうかが資質である。彼以外にもろくでもない議員が多いが、今の山本太郎「議員」は、国民のためにはならず、問題の解決にもつながらないどころか、悪化させるという意味で、もっともたちが悪い。
原発を廃止するなら、エネルギー問題の解決を促す具体的なビジョン(発電の技術的方法、電力供給の整備、予算、節電など)を考え、その内容を国会議員なら議会の場で訴え法律整備を目指し、それが難しいなら民間人として活動するといった方法がある。そうしている人は大勢いる。
マスコミ等は原子力利権に絡む人々を「原子力ムラ」のようないやらしい表現を使いたがるが、国も、電力会社も、それがもっともエネルギーの安定確保と、利益につながると思ったから、リスクを度外視して原子力政策を進めたのであって、逆に言えば、今度の事故(事件)のようにリスクの高さを実感として知り、他のエネルギー源が確保できる技術的進歩や、輸入体制が整えられるのであれば、それこそ国や電力会社のほうが、何もあえて原子力などしなくなる。利益追求の「汚さ」が批判の要因の一つにもなっているが、それゆえに、政策を変えることだってできる。今までやってきたことが無駄になる、という心理的縛りはあるものの、そもそも思想信条宗教的に原子力を推進しているわけじゃないのだから。
国家規模の政策を具体的に考えられるような人を、国会議員に選ぶべきで、民主主義は、有権者にも考えるべき選択の責任を課している。自分たちにもその結果が及ぶ。山本太郎はもちろん、その他の議員についても言えるが、派手なパフォーマンスだけをする人よりも、地味でもきちんと物事を進められる人を選ぶべきだ。

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