南極観測50年式典が皇太子殿下も列席して行われた。
1956年11月、国際地球観測年にあわせて南極地域観測予備隊53人が南極観測船「宗谷」に乗って南極へ向かい、翌57年1月、南極プリンスハラルド海岸に到着。昭和基地を建設。帰途に就いた。これがいわゆる「第1次南極地域観測隊」と呼ばれるようになった戦後最初の探検隊である。
「宗谷」は旧海軍の特務艦で戦後は補給船だった船。北方海域でも使用できるよう設計され、耐氷能力があったため、改装して観測船としたのである。
が、それでも、第1次観測の帰途、氷に閉じこめられ、ソ連船「オビ」号に救出されている。まだまだ貧乏だった時代、最新の船というわけにはいかなかった。
その後も「宗谷」「ふじ」「しらせ」の観測船で南極地域観測隊の派遣は続けられた。1958年2月から59年1月まで南極を離れざるを得なくなり、そのとき取り残されて生き延びたのが「タロ」と「ジロ」の二頭の犬なのは有名な話。1962、63、64年は観測隊派遣がなかった。
以後は、止まることなく派遣が続けられ、オゾンホールの観測、隕石採集、氷床ボーリングによる過去の大気研究などでは世界各国研究隊の中で抜きんでている。
基地も、昭和基地、みずほ基地、あすか基地、内陸のドームふじ基地が作られた。
戦後の困難の中で南極観測を行った実績から、日本は南極条約最初の加盟国の一つとなった。まだまだ敗戦国として世界中から低く見られていた頃にである。
それが今の日本の科学研究の基礎の一つになっている。
そもそも、1912(明治45)年、まだまだ南極探検が始まったばかりの頃に、白瀬矗中尉が苦労して南極まで行ったほど、日本人は苦労の中で南極という最果ての地にこだわってきたのだ。白瀬はその後、探検費用の借金返済のために苦労の一生を送り、終戦直後にひっそりと亡くなったが、今はその功績によって、地名や南極観測船の名前にもなっている(一応南極観測船は海上自衛隊に所属する砕氷艦で、海自は旧海軍の伝統を受け継いでいるため、自衛艦に人名は付けないという方針なので、南極の白瀬氷河から採ったことになっている)。
新型南極観測船は財政難を理由に開発を取りやめていたが、やっと予算が付いて、今年から建造される。名称はまだ未定だ。
地球環境の異変が急速に進行する中、南極は地球上の様々な場所から空気が流れてくる場所でもあり、環境観測にとって重要な場所となっている。
科学によって国を作ってきた日本は、今後も南極観測を続け、世界に貢献していくべきだろう。それが最果ての氷の大陸にこだわってきた人々の意志を受け継ぐものである。

0