文部科学相の諮問機関、中央教育審議会の教育課程部会は、主要教科で、小学校で301時間、中学校で360時間増やすことを決定した。
ゆとり教育と、総合学習時間をやめて、授業数を増やすことにしたのだ。
なぜか、というと、ずばり、学力が低下したから。
先日行われた全国共通テストの結果で、知識はあるのに、問題文を読解する能力がないために、知識を活かせず、問題を解くことが出来ない例が顕著だったためである。たとえば、三角形や四角形の面積を求める公式は知っているのに、地図上の道路に囲まれた複数の公園の大きさを比較する問題が出ると、道路の長さが記されているにもかかわらず、問題の意味がわからず、面積を出す計算が思いつかないといったことだ。
ゆとり教育がどういう意図で始まったのか、いろいろ説はあるが、詰め込み型教育、受験戦争に対して、日教組が主張したのが始まりだと言われている。
実際、今回の共通テストや、ゆとり教育の見直しには、日教組がもっとも反発している。
反対の理由には、総合学習という学問の枠を超えた経験を学べる機会をなくすのはよくない、と言うもっともらしいのもあるし、ゆとり教育が実際の結果をもたらすのはもっと先である、という理屈もある。
また現場の教師が、方針の転換に対応するのが大変、と言う現実的な理由もある。特に最近、ちょっとしたことで文句を言ってくる親が多いため、教師も並大抵のことではないのだ。
クレーマーな親の問題は重大なことだが、かといって、学力の低下に明確な対応策を示さないで反対するのも問題だ。
そもそも、大人の理屈で、子供に自由とか、ゆとり、と言ったことを提供するのはおかしい。大人が会社の残業から解放されるのとは、わけが違うし、子供に奴隷労働をさせているわけでもないのだ。自覚が乏しく、経験の少ない子供に、あまりに自由な状況を与えるのは、逆効果になる恐れもある。中には、得られた自由な時間に、興味を持った学問を自ら勉強して、将来その道の達人になる子供もいるだろう。だが、ほとんどの子供はそうはならない。だらけて遊ぶだけである。
それになにより、基礎学力は必要だ。大人になると誰しも、あの時もっと勉強してれば、と後悔するが、それでも、日本がこれだけ技術力や経済力を持っていられるのは、今の大人達がそれなりに基礎教育を受けてきたからである。
ゆとりとか、判断の自由などというのは、もっと自覚と自律と責任感が出来て、判断力と分析力が付いて、経験を得てから与えられるべきものだ。そうでないと、自分勝手な人間が出来るだけである。
まあ、そういったゆとりと自由に見合うだけの人間、今の世の中では、大人でも少ないかも知れないけど。
かくいう自分も、見合う人間とは思えない。

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