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無限寛容

5月も末になろうとしている。本州はもう夏日があるというのに、北海道は桜の開花が遅れて寒い日が続いた。それでも、雪の間からアイヌの好んだ行者にんにくが顔をだし、カタクリもエゾエンゴサクも咲き、今週はやっと桜が咲いた。

先週土曜日、真宗大谷派旭川別院で、藤原新也 講演会 

「人が死ぬという事」

という講演会があった。インドから東日本大震災へ至る死と向き合ってきた藤原の話は、彼の著書「メメント・モリ」以来、写真集、エッセイ、小説を読み続け、影響を受けて1991年にインドまで旅した私には大きく響くものがあった。

午後6時、講演会場には約300人を超える人々が集まっていた。聴衆の年齢は高い。最初は藤原新也の人気が高いのかと思ったが、実は檀家が講演に召集をかけられたにすぎないということが分かった。

おそらく、私はこの人々の中でも、もっとも彼の話を心から聴きたいと思って参加した人間だろう。

彼自身の撮影したインドから東北の映像を駆使した話は、約二時間ほど続いた。特に、文章化していない撮影に関する裏話は興味深かった。

講演最後の結論の言葉は、

「無限寛容」

だった。一般に流布している言葉ではない。この言葉は、2011年冬に藤原の文芸春秋に寄稿した藤原自身の文章によると次のようなものである。

「―無限寛容―すべてを許すという意味である。
すべての人の死や弔いの風景には人それぞれ国それぞれ、そして時代それぞれの異相があり、そこに優劣をつけてはならず、すべてを受け入れたい。今はそういう心境がある。
理想の死や理想の弔いの風景を持つことは息苦しく、またそれから外れた人の死を不幸とすること になる。だが死というものはそれを無限に寛容するからこそ死であり、それが死の懐の深さである ように感じるのである」

1991年3月、インドの西海岸の大都市ボンベイ空港に着いた私は、その場で地べたに横たわる死体を見た。町にも病の人が路上で横たわり苦しんでいた。一体自分は何のためにここまで旅したのか・・・。騒音と汚さと匂いの充満するインドで、藤原新也の本を読みながら歩いていた日のことがまざまざと甦る。

「無限寛容」・・・。「死の懐の深さ」・・・。インドへの旅から20年以上が経過し、今再び死を巡るこの言葉を、私は心の中で繰り返し呟いている。

なお、講演が終わった時、廊下で藤原新也にひとこと声をかけた。小柄で白髪の人だった。

「―ディングルの入江―というあなたの小説を繰りかえし読んでいます」
そういうと、ややはにかんで
「ありがとう」
と、彼は答えた。

「ディングルの入江」は1998年に出たアイルランドを舞台とした小説である。以来15年、私はこの小説を読んだという人に出会ったことがない。



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投稿者:玄柊

寺山修司と「サヨナラ」

「さよなら」は別れの言葉である。日常のあいさつでしばしば使われる。しかし、これが死を目前にした場合は永遠の別れを意味し、より深刻で悲しい言葉となる。

しかし、「さよなら」はこうした日常的な挨拶レベルと、永遠の別れという否定的な意味合いだけで使われるのではない。「さよなら」には過去との決別、古い因習との決別、捨て去るべき人間関係との決別、男女の別れにも使われ、残された人生をより積極的に希望に向かって突き進む場合の言葉としても使われているのではないか・・・。

そう思っていたら、寺山修司の文章と出会った。

寺山修司に、角川文庫の「ポケットに名言を」という本がある。「名言」という言葉は教訓めいた含みがあり、寺山には似つかわしくないタイトルだが、この本のトップに次のような文章がある。

「時には言葉は思い出に過ぎない。だが時には全世界全部の重さと釣り合うこともあるだろう。そんな言葉こそ名言という事になるのである。
学生だった私にとっての、最初の名言は、井伏鱒二の

花に嵐の例えもあるさ
さよならだけが人生だ

という詩であった、
私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度乗り越えたか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」は、言わば私の処世訓である。私の思想はいまやさよなら主義とでも言ったもので、それはざまざまの因襲との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかの理念に(習慣とその信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているようなところさえ、ある」

寺山修司にとっての名言とは、世界全部と釣り合うだけの重さを持ったものだった。井伏鱒二の訳した中国詩のこの訳に、寺山はこれだけのこだわりを見せた。

寺山はその後、二編の詩にこのフレーズを入れ、浅川マキとカルメン・マキへ提供した歌にもこのフレーズを取り入れた。

彼は48歳で早々と亡くなったその人生の通り、さよならを挨拶としての、あるいは悲しい「永遠の別れの言葉」だけとして受け止めてはいなかった。因襲、画一化への抵抗精神みなぎる言葉として「さよなら」を受け止めていた。

「さよなら」という言葉に関して、寺山修司とも井伏鱒二とも全く関係がないが、薬師丸ひろこのヒット曲「セーラー服と機関銃」(歌詞 来生えつ子)が印象的である。

「さよならは 別れのことばじゃなくて
 再び逢うための遠い約束

 夢のいた場所に
 未練残しても
 心寒いだけさ」

1990年暮れ、雪の深々と積もる旭川の深夜の街で、私は仕事からの帰りに、ひとり車でこの曲を繰り返し聞いていた。私にとって、「さよなら」と雪の降るシーンはこうして深く結びついている。やはり「さよなら」は、悲しくもさびしくもない、私は今そんなふうに考えている。

それにしても、人は一生で一体何度「さよなら」を言わねばならないのだろうか。
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投稿者:玄柊

澹然として累無し

個人的な話だが、父のような存在だった東京秋葉原に住む叔父が90歳で亡くなった。私は叔父の資金援助を得て東京へ行き、大学へ進学することができた。遥か昔のことだが、叔父の存在は、いつも私を支えてきた。

叔父は大正11年生まれ、税法の専門家で、最初は大蔵省に入ったのだが、若くして公認会計士となり、次に大学教授となった。

私にとって、叔父は社会的にも学問的にも名誉ある立場にいる人であり、私は自分が社会的地位も名誉とも無縁の人間なので長い間、正直に言えばやや煙たい存在でもあった。

しかし、いつのまにか自分も結構な年となり、叔父とやや対等にものを話せるようになり、このところ、上京するたびに叔父を訪問し、税法以外の文学関係の話しをするようになった。

約束の時間に着くと

「待っておった」

と言う。そして、最近読んだ本の話をして、食事に出かける。まさに、父と子の充実した時間だった。

叔父の好きな文学者は、永井荷風、夏目漱石、森鴎外・・・。学者や思想家では河上肇、加藤周一、長谷川如是閑等である。

中でも、荷風と河上肇はよほど好きらしく、訪れるたびに本をくれたり、興味深い話をしてくれる。

今年3月に訪れた時に、別れ間際にしばらく入院するという話を聞いた。心配だったが、きっと乗り越えるだろうと願った。

しばらくすると、叔父の好きな作家、学者、思想家の全集が何種類も送られてきた。合計で200冊以上になる。鴎外全集38巻は、もう数十年も欲しいと思いながら、手にいれることのできないものだった。

叔父は自分の命がまもなく閉じられるだろうという予感の中で、文学好きな息子のような存在である私に、蔵書を送ろうと決意した。私にできることは手紙を出すことくらいだった。

蔵書と共に送られてきたモンブランの万年筆で何度も手紙を書いた。以前は、返事が来たがなかなか手紙を書けなくなっている様子だった。

5月下旬、叔父の命がそう長くないと分かっていた私は、決意して上京した。

5月26日午後5時、叔父宅へ到着した。3月よりも、かなり痩せて、食欲も衰えていたが、頭脳は明晰でまず頂いたのは

「河上肇研究」

という本だった。結局のところ、叔父は河上肇を一番好きだったのだ。

叔父は墓を故郷の青森に作った。墓石に

「累無し(るいなし)」

という言葉を刻んだという。私は、子供のいない叔父が「系累なし」という意味でそれを選んだのだろうと思った。しかし、よく叔父の話を聴くと、江戸時代の学者佐藤一斎の言葉で

「澹然として累無し」(しずかに憂いもなく)

という意味だそうだ。悟りの言葉だが、これを好むのは叔父らしいと思った。

別れる時、私は

「この次は秋に上京します」

と、伝えた。叔父は立ち上がることもなく、じっとわたしを見た。せめて車いすを使うことになろうとももう数年、せめて今年いっぱいくらいは生きてほしいと願った。

東京から戻って約1ヶ月が過ぎた。叔父の命はこの夏を超えて生き続けてくれるかもしれないと希望を持った。

しかし、6月24日午前4時に叔父が命を閉じたという連絡が入った。私のその日の早朝に目が覚めて、薄暗い外で陽が射し始めると同時に郭公の鳴く声を聴いた。

私は叔父を追悼する句として次のものを詠んだ。


   叔父逝ける 郭公の鳴く 薄明

人は必ずいつか命を閉じる日が来る。それは悲しいことだが、尊敬できる人格と業績を残した叔父を私は誇りに思い、特に本が好きな部分で濃い血のつながりを感じている。90年という長い航海を終えた叔父に与えられたものを思い、涙が流れた。

死者と生きているものに大きな隔たりがあるのかもしれない。しかし、叔父の表情や言葉は、私が生きている限り忘れることはない。心の虹は、生と死の隔たりを鮮やかに結んでいる。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第5回 立原道造墓参-最終回

谷中玉林寺から細い隠れ道を通り、岡本文弥宅を発見し、東京の奥深さをしみじみと感じた。左手の道を行くと三叉路になる。前には江戸の香りが漂う蓮華寺がある。

柔らかい5月の早朝の日差しが快い。私は巨木の立つ三叉路のみかどパン店から右の方向を取り、野澤石材店で左折する。この地点の墓地の前の屋根つきの看板に

「寅さんは−つらいよ−と愚痴をこぼしたことはありません 作家 中谷彰宏」

と黒地に白い文字で書かれているのを発見した。なるほど・・・寅さんは「つらいよ」と言ったことはなかったのかと私は苦笑いをした。この中谷彰宏という作家を私は知らなかった。

しばらく行くと自性院という小さな寺がある。横のプレートを見ると、ここは別名

「愛染堂」

という事がわかった。しかも、昭和初期の映画「愛染かつら」の原作者川口松太郎はこの寺の愛染明王と現在はないが本堂横の桂の木にヒントを得てこの作品を書いたという。私は、映画「愛染かつら」をつい一月程前にTVで見たばかりだった。プレートの文章を読みながら映画で流れた有名なあの歌と主演の田中絹代、上原謙の顔が思い浮かんだ。およそ映画芸術とは呼べない通俗的メロドラマだが、初めて見た私は悪くはない映画だなと思った。

谷中で予測もしなかった愛染堂と呼ばれるこの寺の発見は、思いがけない収穫だった。

すぐ横の

「感応寺」

という小さな寺の門前に立った。この寺の名も初めてだなと思い、台東区の建てたプレートを見ると、ここには森鴎外作の史伝「澁江抽齋」の墓がある。澁江抽齋は江戸末期の医師で儒学者でもある。鴎外は、難解ともいえる硬い文章でこの作品を書いたが、私はこの作品をつい最近、秋葉原に住む叔父から「鴎外全集」を譲り受け、分厚い全集本でつい最近読んだばかりだった。

感応寺の境内に入ると光背を背に左手に花冠を持ち静かな表情を持つ仏陀の石仏があった。朝の柔らかな光を受けた仏陀の優しい表情に心が穏やかになってゆく。

澁江抽齋の墓はすぐに見つかった。左に石碑、右に「澁江家之墓」がある。鴎外はこれを団子坂の観潮楼から散歩してお参りしたのは確実であり、史伝を書く契機はこの寺にあったのかもしれない。

私は、この感応寺に澁江抽齋の墓があることを、まったく認識していなかった。レベルは大きく違うが映画「愛染かつら」の原作を生んだ寺である愛染院も知らなかったという意味においては同じことだった。次つぎと、私の最近の行動を助けるような興味深い事柄が予期せぬままに目前に現れてくる。

左折して谷中霊園のある北へ向かう。今度はかなり広い三叉路があった。この三叉路の左に

「多宝院」

という寺がある。私は、ここに詩人

「立原道造の墓」

があることをずいぶん昔から知っていた。しかし、ここ数年継続している東京での旅でも、なかなか訪れる機会がなかった。今回の東京での旅は是非この墓参で終えようと心に決めていた。

多宝院の前に立った。しかし、門が閉じている。多くの谷中の寺は門が開き、僧たちの読経の声さえ聞こえていたというのに、今回の旅の最終目的としていた立原道造の掃苔(そうたい)、つまり墓参りはできないのかと思った。

しばらく、人通りのない三叉路に佇んでいると、多宝院の中から中年の女性が門へ向かって歩いてきた。そして、門を開いた。まるで奇跡のようだった。つまりは何という事はない、、午前7時ぴったりとなり、毎朝の作業を彼女は行ったのだ。

私が、

「立原道造の墓をお参りしてもよろしいでしょうか」

と、彼女に告げると

「もちろん、結構です」

と答えてくれた。

境内の左へ張ると、さして広くはない墓地があり、立原の墓はすぐに見つかった。日本橋橘町の発送用木箱製造業の家に生まれた彼は、建築家となったが、同時に詩歌に関心を深めて詩人となった。堀辰雄主催の「四季」に参加したが24歳で中野区江古田の東京市立療養所で亡くなる。荼毘に付されて葬られた場所が、ここ谷中多宝院だった。

立原の最後の恋人水戸部アサイの墓を、神奈川県藤沢大庭墓地に探り当てお参りしたのは20年近く前のことである。水戸部アサイは立原の死後、他者に嫁いでいたので、大庭墓地の彼女の墓に行きつくのはなかなか困難だった。しかし、肝心の立原道造の墓に行きつくのにその後20年を要したのである。

これで、70年近く前の若き恋人同士の墓を両方ともお参りしたことになる。

多宝院を出て私が歩く日曜日午前7時台の谷中三崎坂は、人通りも車も少ない。立原の詩に

「爽やかな5月に」

という詩があったことを思い出しながら緩やかな坂を下った。一泊だけの短い東京への旅が終わろうとしている。




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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第4回 森鴎外旧居

弥生坂から迂回して、早朝の団子坂を登り、森鴎外旧居へ向かった。鴎外は、観潮楼と名付けられたこの家に明治25年(1892年)30歳の頃から大正11年(1922年)60歳で亡くなるまで30年間住んだ。鴎外文学ファンにとっては重要な地点である。

鴎外は東大医学部を19歳で卒業後に軍医となり、22歳の時にドイツへ留学、ベルリン、ライプチッヒ、ドレスデン、ミュンヘンなどの地で4年を過ごす。この間、「舞姫」で描かれたドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトと恋に落ちるが、彼女との縁を切り単身で帰国する。

明治21年(1888年)9月8日、鴎外は横浜に帰着した。9月12日、つまり鴎外の帰着の4日後にエリーゼは鴎外を追って来日、一か月ほど滞在する。つまり、ドイツで鴎外と別れた直後に、エリーゼは日本へ行くことを決意、すぐに船に乗ったことになる。
エリーゼはこうして恋人鴎外への想いを強く持って来日したが、鴎外自身の逡巡、森家の人々の反対があり、エリーゼは結局帰国する。

このエリーゼの帰国後、同じ津和野藩出身の親類西周(にしあまね)の紹介で鴎外は海軍中将赤松則良の長女・登志子と結婚、翌年長男於菟(おと)が生まれる。平凡な人生を選び取ろうとした。しかし、この結婚は鴎外にとっては意に染まぬ結婚であり、その後二年を経過しないうちに彼女と離婚し、以後40歳まで独身を貫く。

つまり、団子坂の観潮楼に住んだ当時、鴎外は父母、祖母と同居していたが独身であった。独身を10年余り続けた経緯は、さまざまに取沙汰されているが、エリーゼとの恋が成就できなかった心の傷がなかったと言えない。

私は、1997年、つまり15年ほど前に鴎外旧居であるこの地へ来たことがある。本郷から北へと遡る長距離の散歩だった。
当時、観潮楼跡は鴎外記念本郷図書館となり、鴎外の遺品が集められた記念室のある素敵な図書館だった。現在は本郷図書館は2006年に近くへ移設、鴎外記念館は、今年2012年11月1日にオープン予定で観潮楼跡に建設中である。おそらく、この記念館は以前よりかなり広く、鴎外を知るためには非常に良い指針となる。

この記念館に昭和29年(1954)年、鴎外の33回忌を記念して長男於菟の努力で鴎外の詩「沙羅の木」の詩碑ができた。揮毫は於菟自身が当時千葉県市川に住んでいた晩年の永井荷風に頼んだものだった。永井荷風は若き頃から鴎外を尊敬していたので、鴎外の長男の申し出を快く引き受けたのである。


       沙羅の木

     褐色の根府川石に
     白い花はたと落ちたり
     ありしとも青葉がくれに
     見えざりしさらの木の花

沙羅の木とは、夏椿のことで、平家物語冒頭の「沙羅双樹」とは別のものである。私はこの詩碑を見たことがあるが、新しい鴎外記念館でも以前と同じようにこの詩碑が見られるようにと願っている。

こうして鴎外とエリーゼとの恋は実らなかった。鴎外が帰国した4日後に彼女が日本へ訪れたことは、エリーゼの鴎外に対する想いがどれだけ切実なものであったかを証明する。
この件については、様々な憶測があり、多くの本がある。この謎を解く鍵が新しい記念館にあるかどうか・・・・、次回の東京探索行では可能ならば是非ここを訪れたいと思っている。

鴎外はその後40歳で荒木志げと再婚、長女茉莉(まり)、次男不律(ふりつ)、次女杏奴(あんぬ)、三男類(るい)を得る。また多くの歌人や作家と交流、作品を次々と生み出す。鴎外の20代から30代の人生は平坦ではないが、後半の家庭生活は安定し幸福だったのではないかと思っている。

生涯を通した軍医と作家の二足のわらじは鴎外にとっては大変なことだったろう。また漱石に比べるとやや硬いイメージが強く一般受けするストーリー性のある作品は少ない。しかし、私はつい最近全38巻の岩波版鴎外全集が手に入ったこともあり、鴎外と向き合う日々が続きそうだ。


私は、建設中の鴎外記念館を横目で見て根津神社へと下る

「藪下の道」

を通った。藪下の道は緩やかに南へと下る。鴎外は繰り返しこの道を下り、根津神社を通り抜け、谷中、上野、本郷へ、そして時には神田、銀座まで行った。こうした散歩を幾度も重ねながら「青年」「雁」「澁江抽齋」などの多くの作品を書いた。

私は、不忍通りを南下し、弥生坂とぶつかった地点で言問通りを西へと入る。すると、急に谷中の下町めいた雰囲気の街並みとなる。早朝5時半から歩いた散歩はそろそろ7時になろうとしている。

うなぎ屋丸井のある地点で左折して玉林寺へ入る。この寺に来た目的であった小説家・正岡容(いるる 1904-1958)の碑を見る。正岡容の碑には

−思ひ皆 叶う春の灯 ともりけり−

とある。正岡容については、坂崎重盛の「神保町二階世界巡り」という本で知ったのだが、なかなかいい句だなと思った。正岡は荷風の研究でも知られるが、鴎外も好きらしく次ような歌を詠んでいる。

−団子坂に 観潮楼のありし頃 いまも恋うなり この書を読み−

「東京恋慕帖」という著書がある正岡容という人について私はもう少し深入りしそうな予感がする。なお、坂崎重盛にも

−鴎外の 坂を登れば 梅の花−

という正岡容の向こうを張った秀句がある。 

さらに、私は玉林寺の入り口の横の、よほど気を付けないと入り込めないほど狭く、迷宮のような細道へ入った。東京でも、これほどわくわくする道はないだろうと思うくらい不思議な雰囲気の道だった。圧巻は個人使用しか許可されていないと但し書きのある古風なポンプのある地点だった。

抜けると、知る人ぞ知る岡本文弥という浄瑠璃太夫で俳句を詠んだ人の小さくて黒塗りの家があった。この人についても、ここ数年愛読している坂崎重盛の書から学んだ。私は岡本文弥について多くを知らないが、この迷宮の細道からに毛出る地点に彼の家が存在したというだけで大きな縁を感じる。今後彼の句集やエッセイなどを読んでみようかと思っている。まだまだ、東京を巡る街や人物の未知の事柄は多い。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第3回 漱石旧居

午前5時半、ホテルを出て神保町駅から都営三田線に乗る。日曜日である。それでもさすがに人口の多い東京はこのような早朝でも地下鉄に乗っている人がそれなりにいる。

白山駅で下車する。晴天である。車も人もほとんど見かけない。向丘二丁目の交差点を過ぎると左に浄土宗瑞泰寺がある。門柱の両脇にどっしりとした象が二体乗っかっている。なかなか面白い。閉ざされた扉には、菱形のしゃれたデザインが組み込まれている。

されに進むと光源寺がある。ここは門が閉じられていないので中へ入る。どこか洋風な趣があり、実際に本堂は真っ白に塗られ、正面から見るとキリスト教会のように感じる。正面のガラス窓がステンドグラスのようだ。屋根に瓦が置かれていなければ仏教寺院とは思えない。

光源寺の門の横の旧町名案内を見ると、この辺りは元は

「駒込蓬莱町」

という名だったそうだ。現在の向丘二丁目に比べればぐんとイメージが良い。東京は地名はもちろん、区の名も変わり、もちろん建築物は大きな様変わりをしている。大きく変わらないのは地形だけだろうか。

さらに進み左手に駒込学園を見て、そこを右へ曲がる。朝日が東から昇り、強烈な日差しがまぶしい。なだらかな坂を下りると、

「夏目漱石旧居跡」

というプレートがある。説明によると、夏目漱石は明治36年(1903)1月に英国留学から帰国、すぐにここ千駄木1丁目に貸家を借り、第一高等学校及び東京帝大講師となる。当時漱石は37歳、以後3年間ここに住み「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊ちゃん」などを書く。つまり、小説家デビューを果たした重要地点である。

帰国した明治36年3月に、漱石は前年9月に亡くなった旧友正岡子規の墓を田端大龍寺にお参りする。この時は、引越ししたばかりのこの家から田端の太龍寺まで約2キロの道を歩いたのは間違いない。

漱石の英国留学は楽しいものではなかった。官費留学だが、十分なお金が支給されたとはいえず、何よりも漱石が英国の生活を好まなかったのが大きな原因だろう。英国留学中、病床にいた子規と漱石は幾度も書簡を交わしお互いの友情を確認している。

親友という定義に最もふさわしいのが、この二人の関係だろう。だから、子規の死を知った時の漱石の衝撃は大きく、この事実を知ったことが英国からの帰国を決意させた。


私は一昨年10月に早稲田南町の漱石が後半の人生の約10年を過ごした場所を訪ねたので、これで漱石の東京に於ける重要な地点を二か所確認したことになる。

漱石旧居からまっすぐに南へと下る。左には苔むした塀が長く続く。東大地震研究所である。そろそろ6時、近くに学校が幾つもあるので、野球のユニフォーム姿の中学生が自転車で行き交うようになった。

東大地震研究所の門の前にお寺がある。願行寺である。ここは森鴎外の史伝の一つで

「細木香以」(ほそきかい)

という作品の主人公,俳人細木香以の墓がある。この作品は「伊澤蘭軒」「澁江抽齋」につづく史伝で、「雁」「青年」などくらべると難解な感じは否めないが、文学者には旧来より評価の高い作品群である。

墓を見つけるにはやや手間取ったが、たしかに彼の墓がこの寺にあることを確認した。森鴎外の旧居は、団子坂の上にあり、ここから1キロ余りである。この作品が書かれたのは大正6年だから、関東大震災前のいまだ古き江戸の名残りを残した駒込、千駄木、根津、上野、本郷辺りを漱石と鴎外は散歩しながら小説の構想を練ったに違いない。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第2回「古書往来座」

「すすきのみみづく」を手に入れた私は、明治通りに出た。右に曲がり池袋駅方面へ行くとすぐに「古書往来座」がある。

映画館のような名を持つ「古書往来座」は、昭和初期に池袋西口周辺に住んでいた詩人・小熊秀雄や彼の周辺人々を顕彰するために作られている池袋モンパルナスの会の会報に広告が掲載されていて知った。

会報掲載の「古書往来座」の広告には、次のような小熊秀雄の詩の一節が紹介されている。

「・・・学生の頭を論ずる者があっても学生の靴下の穴を論ずる者はいない・・・」

いかにも小熊秀雄らしいとしか思えないこの一節を広告に使うという事は、店主は少なくとも小熊秀雄を読んでいるに違いないと思った。

初めて「古書往来座」を訪ねたのは昨年3月のことだった。残念ながらこの時に店主はいなかったが、昭和初期に池袋モンパルナスといわれる地域に住み、小熊と関連の深かった芸術家たちの本が集められたコーナーがあった。また、日本文学はもちろん、外国文学も実に質の高い本が集められていた。目利きの店主に違いない。

今回、「すすみのみみづく」を手に入れるために雑司ケ谷鬼子母神を訪れるなら「古書往来座」をもう一度訪れようと私は心に決めていたのだ。

趣のある店の前を写真に撮る。足を踏み入れるとレジの横の

「池袋モンパルナス・コーナー」

は健在である。このコーナーに、2月に出たばかりの池袋モンパルナスの会の会報が平積みになっている。

正面に、池袋に関連深い小説家、詩人のコーナーがある。その中に漱石の「行人」の復刻版がある。漱石は雑司ケ谷墓地に墓があるから、その関連でこの本が置かれているらしい。

奥へ足を踏み入れると、昨年春には会えなかった店主が本棚に本を入れている。40代後半だろうか、精悍な雰囲気で熱心に仕事をしている。

彼の横に外国文学のコーナーがある。ここで私はメイ・サートンの

「回復まで」
「82歳の日記」

を手に入れることにした。昨年の春も、わたしはここでメイ・サートンの日記を数冊てにいれている。

彼女はベルギー人だが4歳の時両親と共にアメリカへ移住、詩人であり作家でもある。彼女は1995年に83歳で亡くなるが後半の人生で残した日記が数多く残されている。その、最後の作品が「82歳の日記」である。

メイ・サートンの「海辺の家」にこのような文章がある。

「年をとるとは、退歩も受け入れて、老年に向かって成長することだ」

確実に忍び寄る老いとの彼女の向き合い方が、わたしを魅了する。彼女が亡くなった年齢に達するまでに、私の場合はまだかなりの年数が残されているとしても、確実に老いと向き合わなければならない時が必ず来る。

映画コーナーへ行った。最近、何冊かの本を手に入れた岩崎昶の

「映画が若かったとき」

と、千葉伸夫の

「小津安二郎と20世紀」

という本も手に入れることにした。

レジへ行き、漱石の「行人」も含めて自宅へ送ってもらう手続きをした。店主が

「北海道ですか。遠いですね」

と声をかけてくれたので

「ここへは二度目です。いい本が集まっていますね」

などと答えた。2月に出た会報に書いた私の文章の話、池袋モンパルナスの会の代表K女史のこと、小熊秀雄協会のT氏のことなどを話す。お互いにK女史とT氏という二人の共通の友人がいたことにも驚く。こうして、どうやら東京に古本屋店主の方に一人、知り合いが増えた。

東京では,ここ数年、神田神保町で古本屋めぐりをするのが大きな楽しみだった。このために、定宿を神田神保町の小さなホテルにしている。しかし、古書往来座をはじめとして、可能な限り今後は、少しづつ神保町以外の地域の古本屋へも足を運ぼうと思った。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 初夏 第1回 「すすきのみみづく」

2012年5月26日。旭川から飛行機で、珍しく成田に降り立ち午後一時過ぎに日暮里へ着いた。1991年にインドへ行って以来、21年ぶりの成田空港だった。

日暮里で山手線に乗りかえて大塚下車。都電荒川線に乗った。土曜日の午後である。少し汗ばむ程度の初夏、雨の心配のない曇った天気だった。半袖の人、長袖の人が入り混じっている。

向原で席が空いたので座り、上を見上げると吊革の上部に後部から前部にむかって薔薇が這わせてある。きれいだが、これらの薔薇が本物かどうかは区別がつかない。それにしても薔薇を吊革の上部に這わせるなどという発想を持つなんて、都電荒川線の路面電車の担当者はなんと粋な感性の持ち主なのだろう。

東京は大きな荒野・・・・というイメージしか持てなかった私だが、車内の薔薇を見て心が和むのを感じる。

向原、雑司ケ谷を経て鬼子母神で下車した。学生時代に友人が住んでいて、しばしば訪れた場所である。

もう二か月ほど前に、旭川でお付き合いのある先輩Fさんが

「雑司ケ谷の鬼子母神で売っている−すすきのみみずく−を買ってきてくれませんか」

と言った。彼は、郷土玩具を収集するのが趣味である。Fさんは、最近まで外国はもちろん国内も数多く旅してきた人である。しかし、このところ彼は、国内の旅をするのも自重しているようだ。

今回の上京は叔父のお見舞いで、明日には帰ることになっている。時間がたっぷりあるわけではない。しかし、どうにかしてFさんに頼まれた

「すすきのみみづく」

だけは手に入れようと思った。

両側に背の高い欅並木のある鬼子母神の参道に入った。古めいた喫茶店、観光案内所、その他の興味深い店が軒を連ねている。

参道から鬼子母神の境内へ入った。背の高い銀杏の木が左手に聳えている。なにやらいわれがあるらしく、立て看板が立っている。鬼子母神は、子授かり、子育ての神様として江戸時代から信仰をあつめたところで、この銀杏は「子授け銀杏」というのだそうだ。樹齢六百年だから相当なものである。

前方の鬼子母神堂の横に「上川口屋」という土産物屋がある。看板には創業1781年と書いてある。たくさんの人が集まり、写真を撮ったり、土産物を買っている。私は「すすきのみみづく」はこれほど人気のあるものかと勘違いした。

人をかき分けて、店の中を覗いた。しかし、駄菓子はたくさんの種類があるのだが、肝心の「すすきのみみずく」は何処にもない。仕方がないので、店の中でお客に応対してるおばあさんに

「すすきのみみづくが欲しいのですが」

と言った。すると急に機嫌が悪い顔になり

「戻って右側」

と、答える。どうやら、先ほど私が歩いてきた欅の並木道の参道の観光案内所あたりに「すすきのみみづく」が置いてあるらしい。何か事情があって、かつてはここで扱っていたらしい「すすきのみみずく」を置かなくなったのだろう。

今来たばかりの道を戻った。観光案内所へ入ると、そこには幾つものお土産物が置いてある。鬼子母神堂の前のお土産物屋のおばあさんと違って、ここにいいる二人の女性は愛想が良く、大、中、小、それに「みみづく親子」の四種類の-すすきのみみずく−を見せてくれた。

このみみづくは、貧しい孝行娘が母親の病気快癒の願掛けに毎夜お参りしたところ、鬼子母神があらわれ、そのお告げによって売り出したのが評判になり、その後幸せになったとの逸話があるという。

なかなか、かわいい感じのみみずくだが、なにしろすすきで出来ている。北海道へ持ち帰るときに壊れないことが大事だ。結局、中型でプラスチックの透明な箱に入っているものにした。

お土産には、ほとんど関心のない私だが、鬼子母神という懐かしい場所で、はじめて「すすきのみみずく」というものを手に入れた。さて、鬼子母神を出て「古書往来座」へと向かおう。




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投稿者:玄柊

追悼 吉田秀和

新聞で高名な方の訃報を読んでも、声を上げるほどの驚きを感じることはそう多くはない。しかし、昨日の朝刊で報じられていた音楽評論家吉田秀和死去の記事を読んで、私は声をあげそうになった。

それは、吉田秀和の著書の多くを読んでいたり、彼の担当するFM放送を聞いていたことだけからくるものではない。1991年、つまり今から21年ほど前に私は鎌倉に住んでいた。その時、吉田秀和が奥さんと共に小町通りを歩いていたのに出会ったことがあったからだ。

当時でさえ、逆算すると彼は77歳。決して若くはないが颯爽とし、ドイツ人の妻バルバラさんとの様子が私には素晴らしい光景として目に焼き付いている。声をかけられるような存在ではなかったが、同じ鎌倉に彼らが住んでいることは、自分にとって大きな励ましであった。

当時の私は、鎌倉の大町の祇園山の麓の小さな一軒家で一人で暮らしていた。一人であることは自由であり、貧しくとも生きて行けるほどの収入があり、体が元気でありさえすれば大きな問題はなかった。文学ではなくひたすら音楽に心が傾き、モーツアルトとバッハを聞く毎日だった。そんな時、音楽を聞きながら吉田秀和の本をずいぶんと読んだ。

当時の私はインドへ旅したばかりで元気だった。しかし、日常的になにげないことを語る家族がなく、先の見えない未来を一人で生きる事への不安がないとは言えなかった。そのような鎌倉での日々のさなかに、知性豊かな吉田秀和夫妻を見かけたことを、羨ましくもあったが、励まされる出来事として今も忘れずにいる。

昨年春、小樽文学館で「吉田秀和展」があった。彼は父の仕事の関係で小樽に住み、中学時代を過ごしている。そのころ、小樽中学の英語の先生だったのが、のちの作家伊藤整である。展示の中で、吉田秀和が伊藤整のことを次のように語っている。

「先生は授業中は、生徒に自習させ、本を読んだり何かを書いていることが多かった」

当時の伊藤整は、すでに東京高商(現一橋大学)に合格していたが、学費を貯めるために小樽で先生を続けていた。野心に満ちた詩人を目指す伊藤整は、若き少年だった吉田秀和の目にこのように映っていたのだ。

今朝の朝日新聞朝刊「天声人語」によると、吉田秀和は妻のバルバラさんを9年前に失ったという。彼女は日本文学を研究し、永井荷風をドイツ語に訳していた。彼女は永井荷風を愛する女性だったのだ。調べたところによると、彼女は「日本文学の光と影−荷風・花袋・谷崎・川端」という本を出版している。

なお「天声人語」では、吉田秀和のエッセイに引かれていた次のドイツの詩句を掲げて終わりとしている。

「眼をとじてみたまえ、そのとき、きみに見えるもの、きみのものはそれだ」

また、吉田秀和はNHKの数年前の特集番組で次のようなことを語っていたことを思い出す。

「中原中也が子供を亡くしたとき、このような詩を作ったんです。

    愛するものを失った人は
    死ななければなりません

 僕は中原のこの詩を読んで
 『詩』と『死』は同じだと思ったのです。
 『音楽』『詩』『愛』『死』は同じ根から生えてきた。
 太平洋戦争の時、死はいつも隣にあったのですから」

吉田秀和にとって、いつも文学は音楽と同様の位置にあった。それは、『詩』と『死』は同じだという彼の根源的な思想から生まれている。

私は、吉田秀和は、不死の人かと思っていた。まもなく、百を超え永遠に生きる・・・。それを心から信じはじめていた。しかし、彼は百歳を前にして亡くなった。瞑目し手を合わせて彼のご冥福を祈りたい。

 ■中原中也の詩は、「在りし日の歌」の『春日狂想』冒頭より。なお、詩では正確には次  の通りとなっている。

 −愛するものが死んだ時には
  自殺しなけあなりません         
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第11回 本郷

2012年3月7日、東京への旅は5日目となった。

体調は良く、歩く距離も抑えているので足の調子も悪くはない。昨年の3月の旅は、一日に歩く距離が長過ぎた。多い日は10キロを超えた。さらに朝と夜の隅田川の撮影などを頑張りすぎてかなり疲れた。足の筋肉が痛んで、塗り薬を塗っても回復しなかった。

そして、3月11日に早朝6時に浅草で「時の鐘」を聞いた日、午後2時46分にホテルで本を読んでいる時、東日本大震災が起きたのだった。大きな揺れだったが、これほどの大きな被災に繋がるとは思ってもみなかった。

その後、東京への旅はそろそろ終わりにしようと思った。詩人・小熊秀雄の昭和初期の足跡は、ほぼ調べつくした。漱石、鴎外、荷風などの東京にかかわりの深い文学者たちの足跡も、調べるときりがない。

しかし、その後もさまざまな私用が重なったこともあり、性懲りもなく東京への旅を続けている。しかし、ペースを落とし気張る姿勢を少し緩めた。しかし、そうはいってももともとの自分の性格は大きくは変わらない。東京へ着いた初日から、かなり歩いている。

今日は、曇ってはいたが、神田神保町からは至近距離にある本郷へ出かけた。本郷三丁目から菊坂を登る。4年ほど前に、同じ菊坂で樋口一葉の旧居を見つけた。ここで詠んだ一葉の歌に次のようなものがある。

「寝覚めせし よはの枕に音たてて なみだもよほす 初時雨かな」

その近くに大正10年に宮沢賢治が上京した時に下宿した場所があった。彼はここで「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」など多くの童話を書いたという。


今回の目的は、前回の菊坂訪問時に見逃した

「本郷菊富士ホテル」

の位置を確かめるためだった。右に折れて本妙寺坂を登り切り、さらに左へ曲がり突き当たった地点に、「本郷菊富士ホテル」がかつて存在していたことを示す碑があった。背後には長楽寺の境内が見える。

本郷菊富士ホテルは大正3年に建てられ、昭和二十年三月十日に戦災で炎上するまで多くの文人が止宿した。碑の右にある御影石には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、小関史郎、坂口安吾、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、伊藤野枝等の名が刻まれている。

多くの文人たちが集まったホテルだが、私が最も興味深いのは昭和五年十月末に三年間のソビエト留学を終えて帰国した中條百合子と湯浅芳子がまっさきに宿として選び、約二か月をここで過ごしたことだった。

また、アナーキストである大杉栄と、夫辻潤のもとを去った伊藤野枝が大正5年(1916)10月からここに滞在していた。そして翌月に大杉は葉山日蔭の茶屋で、彼の周囲を取り巻く愛憎関係から神近市子に刺される。

そのようなこともあり、この本郷菊富士ホテルは、私にとっては長い間、気になっていた場所であり、いつかはその具体的な場所をこの目で確かめようと思っていた。

本郷通りへ戻り、東大を右手に見て、古本屋を巡りながら北へ向かって西片まで散歩する。西片二丁目で、小さなビルの前に

「新書館」

という出版社の名が書かれたプレートを見かけた。実は昨日、泊まっているホテルのある神田神保町の書泉グランデという本屋で

「白秋望景」(川本三郎著)

という本を手に入れたのだが、その本の出版元が新書館だった。川本三郎と白秋は意外だったが、白秋は大正14年8月、歌人の吉植庄亮と共に樺太へ旅しその記録を「フレップ・トリップ」としてまとめている。また、白秋はこの樺太への旅の帰途、旭川へ立ち寄り旭川の歌人、文学者たちと交流している。もちろん、当時旭川新聞記者だった後の詩人・小熊秀雄とも会っている。そんなこともあり、川本三郎ファンである私はこのぶ厚い本を手に入れたばかりだった。

東大赤門から構内へ入った。春休みに入ってるせいか、歩いている学生はさほど多くはない。安田講堂を正面に見て三四郎池まで歩いた。

作家・杉浦民平に

「小熊秀雄のこと−詩人を虐げたあの年月の暗さ」

という小熊秀雄を回想した文章がある。1934年(昭和9年)5月、東大の学生だった杉浦は帝国大学新聞の編集部にいた。そんな時、太いGペンでぎしぎしと書かれた詩を投稿してくる一人の詩人がいた。それが小熊秀雄だった。その詩人が杉浦のいる帝大新聞編集部を訪ねてきたのだ。この杉浦の文章をいくつか抜粋する。

「かれは荒髪をばさばさにして大柄な男で、その当時独文学の助手をしていた芳賀檀に似ていた」

「詩人は、原稿を早く掲載してくれることを頼んだあげく、稿料を前払いしてくれないかといった」

「わたしは小熊と一緒に編集室を出て地下食堂へ入った。小熊は『トーストをとっていただけませんか』と哀願するような声でカウンターのそばでわたしにささやいた」
そしてほとんど無言でわたしはコーヒーをすすり終わり、かれはパンを食べ終わると『電車賃を貸していただけませんか』とかすかな声でいった」

「小熊の原稿はそのまましばらく状差しの中にあったが、その後小熊から返送してくれというハガキが来たときには、もう行方が知れなかった。
わたしまで加わって、詩人を虐げたあの年月の暗さは限り知らぬものである。帝大新聞は自由を守ったように伝えられているかもしれぬが、どうもそうではなかった」

(『東京大学新聞』1951年 昭和26年11月15日)

学生だった杉浦と小熊が東大構内で会って以来、小熊の死と太平洋戦争を経た17年後の杉浦の文章である。杉浦が小熊との出会いをいかに印象的な出来事として記憶していたかがよくくみ取れる。小

熊の貧困は、詩人として生きる自らの選択であったが、時代と人々の無理解が詩人を如何に虐げたか・・・・、自らの罪を自覚しない罪は、裁判で裁かれた罪よりも重い。しかし、杉浦のこの文章によって、小熊秀雄の人生の一瞬の出来事を後世の我々は現実のものとして十分に感じ取ることができる。

三四郎池で、このようなことを思い出しながら長い時を過ごした。2012年春の私の東京探索行もいよいよ後半へ差し掛かっている。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第9回 船山馨

画家・松本竣介の住んでいた「四の坂」を登りきると、左手の坂道を下った。
「四の坂」と「五の坂」の間の道に、私の目指す家があった。穏やかな雰囲気の高級住宅地が一帯を占めている。丘の上のこの辺りから、前方に中野方面を見下ろすことができる。

すぐに、作家・船山馨の住んでいた家が見つかった。ここも建て直されてはいるのだが、門の横の塀に「船山」という名が記された表札が掛けられている。松本竣介同様、家を受け継いだ船山家の家族がまだ同じ場所に住んでいる。あらゆることに変化の激しい東京で、このようなことが二度続いたことに驚かされた。

船山馨は、1914年(大正3年)北海道札幌生まれの作家である。昭和初期に学問のために上京を繰り返した後、1937年(昭和13年)に札幌で北海タイムスに入社する。しかし、札幌に落ち着くことなく翌年に再び上京、舟橋聖一、寒川光太郎、椎名麟三等の文学者たちとの交友を深めて二度芥川賞の候補となり、船山は文壇で注目を浴びるようになる。

私が彼を知ったのは1960年代後半に「石狩平野」「お登勢」などがベストセラーとなりTVドラマ化されてからである。当時船山は50代中頃で、書きまくっていた。高校生だった私が、旭川の本屋へ行くと彼の作品が山積みになっていたことを覚えている。つまり、私の印象では正統的な文学者というよりは、同郷のベストセラー作家ということだった。

彼の本の挿絵、装丁は同郷の友人である彫刻家・佐藤忠良が担当し、彼らの友情はよく知られている。

以来私は、船山馨への関心はある程度あるにせよ、この落合に住んでいたことも知らず、1981年に彼が亡くなった時、通夜の日に船山の妻春子も絶命したという事実さえも知らなかった。

このように船山の良い読者とは言えなかった私だが、船山邸の近くに住んでいた林芙美子のことを調べていたら、戦後の短い期間ではあるが彼女とは親密な交友があったことを知った。とくに1948年(昭和23年)に船山が新聞連載の問題でヒロポン中毒になった時に、手を差し伸べてくれていたのが林芙美子であったことは印象深い。二人の交友については、船山の「夾竹桃」というエッセイに詳しい。

船山馨に「みみずく散歩」(1978年)というエッセイ集がある。この中に

「不識奇想-小熊秀雄」

という文章がある。この文章の出だしは次のようにして始まる。

「私は小熊秀雄氏とは面識がなかったし、その詩業についてもほとんど知らない。むかし、札幌の新聞社に勤めていた頃、同僚の詩人中家金太郎が、時折り畏敬の念を込めた調子で、その名を口にするのを聞いたことがある。
中家は自尊心が強く、またそれにふさわしい詩人であったから、他人を畏敬するようなことは、ことに『畏』のほうはまず絶対になかったから、私は彼がその名を口にするたびに、一種の奇異な感じを持った。」

詩人小熊秀雄は1938年(昭和13年)、ちょうど船山が北海タイムスに入社して、中家から小熊の名を聞いた頃、10年ぶりに北海道へ帰省した。この時、旭川から東京への帰りに札幌に寄り、中家と会っている。小熊は、中家の家に4日滞在し、その時中家の斡旋で北海タイムスに

「札幌詠草」

と題した短歌30首と絵を添えた4回の連載を行っている。小熊秀雄は、旭川から上京してい以来、短歌を詠むのをやめて10年余りになっていたが、久しぶりの旭川で短歌を詠んだのを契機に後輩で旧友である中家の励ましもあってこの連載に踏み切ったのである。

中家金太郎は旭川出身の詩人である。大正期旭川での学生時代から小熊を知っていたが、この時の札幌での小熊との出会いは、中家の小熊に対する「畏敬」の念を深めたに違いない。

この時、小熊の死は二年後に迫っており、意気軒昂とはいかなかったと思われるにもかかわらず、中家には詩人小熊秀雄の姿が好ましく映ったらしい。その「畏敬」の念が、北海タイムスの後輩船山に伝わり、後年に船山は会ったこともない小熊を、このエッセイに書いた。

なお、「不識奇想」(ふしききそう)というこの文章の初出は1967年5月に出た小冊子

「小熊秀雄詩碑建立パンフレット」

に書いたものである。これは、1967年に旭川の常磐公園に建立された小熊秀雄の詩碑の記念のために出されたもので、誰が船山馨に原稿を依頼したか今のところ明確ではない。
この「不識奇想」というタイトルは、

「相手をよくは知らないが不思議な印象を残す」

というような意味だろう。相手とは船山にとっての「小熊秀雄」である。

船山がこの下落合に住み始めたのは1948年(昭和23年)である。小熊秀雄が亡くなった1940年(昭和15年)には、船山は既に上京して東京の杉並や中野に住んでいたが、豊島区池袋にいた小熊と船山は、偶然にも文学的な場でも出会う機会はなかった。しかし、中家金太郎を通した間接的な縁とはいえ、船山によってこのような文章が遺された。

坂道を下ると西武新宿線の線路が見え、電車が目の前を横切って行った。まもなく、時計は正午を指そうとしている。私にとって今まで遠かった落合が今日の散歩で随分と近くなった気がする。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第7回 林芙美子記念館

1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された年、私は旭川郊外に住む13歳の中学生だった。北海道では一か月に満たない夏休みが終わってしまっていた8月下旬の母の誕生日に、本屋へ行き講談社の日本文学全集の中の一巻

「林芙美子集」

をプレゼントした。
この年は、NHKのテレビドラマで林芙美子原作の「うず潮」(林美智子主演)が連続ドラマとして放映され、同名の映画「うず潮」(斉藤武市監督、吉永小百合主演)が公開されていた。1951年(昭和26年)に林芙美子が亡くなって10年以上が経過していたが、いまだ彼女は注目される作家であり、成瀬巳喜男監督による林芙美子原作の映画化が次々と行われていた。

母にプレゼントしたこの本の表紙には映画で主演した吉永小百合の着物姿の写真が印刷されていたのを覚えている。この本には「うず潮」はもちろん、林芙美子の他の代表作とともに「風琴と魚の町」という作品が含まれていた。

文学に目覚め始めていた私は、尾道という未知の南の港町を舞台とする「風琴と魚の町」というロマンチックなタイトルが気に入って、母へのプレゼントとしてこの本を選んだのだ。その時の母は40歳、田舎に住む教師の妻だったがまだ若くて元気だった。

その後、東京で出会った文学の好きな友人に、林芙美子の晩年の傑作と言われ、虚無的な男と女を描いた「浮雲」を好んだ男がいた。舞台は仏印から東京へと移り、二人の男女の行き着くところは鹿児島から船で渡った屋久島である。女は、雨ばかり降るこの島で命を落とす。

この友人に教えられたこの林芙美子の作品に、20代中頃だった私は大きな影響を受けた。しかし、その後私は、林芙美子を継続して愛読したわけでもない。他に尊敬する作家が大勢いて、林芙美子の位置は私にとっては過去の作家でしかなかった。

長い時が経過した。今年2012年3月6日、早朝3時頃に神保町のホテルで目覚めてしまった私は、締め切りの迫っていた書評に取り組んだ。本の著者を知っている書評は、非常に愛着がある意識を持つ反面、書き進めるのは難しい。書評は四苦八苦ではあったが、夜が明ける頃に大枠は書けた。

昨日からの雨が夜中も続いていたが、カーテンを開けると路面は渇き、降りやんでいる。少しだけ横になって休んで、朝食を摂ると、午前9時になっている。神保町から地下鉄で新宿へ向かった。通勤通学の朝のラッシュは一段落していて、車内はさほど混んではいない。

新宿で山手線に乗り換え、高田馬場で下車し、西武新宿線に乗り換える。ここから二つ目が中井駅である。ここには

「林芙美子記念館」

がある。私は高校三年卒業とともに上京して以来、東京周辺に40年ほど住んでいた。母に林芙美子の本をプレゼントした中学生の頃から、彼女は私の中での位置は下がったにしても気になる存在であり続けた。彼女の原作を映画化した成瀬巳喜男監督作品、高峰秀子、森雅之主演の

「浮雲」

を一体何度見たことだろう。しかし、その存在を知っていた「林芙美子記念館」を訪れることは一度もなかった。今日は、それがやっと実現するのだ。

小さな私鉄の駅である中井を出ると北へ向かい、すぐに左折し高速道路が上を走る山手通りを渡った。東から一の坂、二の坂、三の坂を過ぎて四の坂のある左手の小高い丘の上に林芙美子記念館がある。

昭和16年の太平洋戦争直前に新築されて、その後の戦災を免れて今に残った林芙美子邸は純和風であった。

受付を経て、玄関から両脇に二棟に分かれる家の真ん中にある孟宗竹に囲まれた玄関を通り抜けた。個人の家としては敷地が広く、南に向いた庭の正面に幹をくねくねとさせて空へと延びるザクロの木があった。

厨房、風呂、客間、茶の間、そして夫であり画家だった緑敏の洋風なアトリエを見る。林芙美子自身が描いた自画像も飾ってある。

簡素だが実に見事な美意識に彩られた家だなと思った。「放浪記」がベストセラーとなり、次々と名作を生み出していた林芙美子にとって、この程度の家を自分のものとするのはたやすいことだっただろう。

戦争協力、他者に対する暴言を吐くなど、林芙美子の48歳の生涯は毀誉褒貶に満ちたものであった。しかし、この家を見た限りではお金の力に任せた華美な趣味に走ってはいない。貧しい人間が急速にお金を得た時に陥りがちな過ちを犯していないことにほっとする思いだった。

何年も前に手に入れた「林芙美子」文学アルバムで、この家で撮影された幾枚もの韻書的な写真がある。養子とした迎えた幼い男の子泰との食事風景、夫や母との団欒風景、そして何よりも書斎で小説を書いている彼女の着物姿が印象的である。

多くの写真を見ても、林芙美子は、同時代を生き、親しい友人でもあった作家宇野千代や佐多稲子のような容姿端麗な女性ではない。しかし、私は彼女と同じ大正や昭和の東京に生き、もしも出会うことがあったら思わず手を差し伸べてしまうのではないか、そんな気にさせられながら林芙美子記念館を出た。四の坂のきつい坂を登ると春らしい青空が見えてきた。





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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第6回 東京での鼎談

夕方6時半、神保町のタンゴを聞かせる喫茶店「ミロンガ」でアメリカ人の詩人マイケルさんと会う。彼とは、2009年3月にこの「ミロンガ」で初めて会った。
彼が私のブログ
「焔の詩人-小熊秀雄」
にコメントを入れてくれたのが我々の出会いだった。詩人・小熊秀雄の詩を日本語で読み、小熊の詩をたくさん英語へ翻訳したいというのが彼の希望だった。

彼は、身長190センチ、大柄な人だが優しい雰囲気の持ち主で、外国人にしては珍しく自分を主張し過ぎない。一緒に食事をするときも、自分が何を食べたいかではなく、私の意向を優先する。

彼は、翻訳専門の会社で日本語の文章を英語へ翻訳する仕事をし、現在は西東京市に住んでいる。奥さんは宮崎出身の方で娘さんが二人いる。先日、NHKで「幸徳秋水と堺利彦」のドキュメンタリーを見ていたら、彼がインタビュされるシーンがあった。彼は、アメリカの古くからの労働組合の研究家でもあったのだ。

彼は古ぼけた英語の本を取り出すと
「今これを読んでいます」
と言った。ブレヒトの詩集だった。私はなぜかブレヒトの詩を読む機会がなかった。戯曲も書くブレヒトは難解というイメージがあったのだ。
「難しくない。ユーモアがあるしとても面白いですよ」
と、マイケルさんは絶賛する。

こう言われると、私はブレフトの詩を読んでみようかという気持ちになる。

会うたびに、彼の日本語のうまさに私は舌を巻く。電話で顔が分からなければ、彼の言葉は日本人が話す日本語だと思うだろう。彼の日本滞在は10年を超え、いつも電子辞書を携帯し、日本語を学び続けている。この姿勢を褒めると、彼は非常に照れていたがうれしそうだった。

彼と私のメールのやり取りは、私が日本語で書き、彼は英語で書いて行っている。お互いが自分の母国語であり自分に書きやすい言葉で相手へメールを送り、それをお互いが読んでコミュニケーションする方法、これはインターネットの時代の最適な方法で無理がない。

7時30分、場所を変えて靖国通りを北へ渡ったところにあるレストラン「ランチョン」へ行く。私は旅の間は、一人ではほとんどお酒を飲まない。しかし、詩雑誌「コールサック」の編集を行っている詩人の佐相憲一さんがやってきたので、ビールのうまい店で定評のある「ランチョン」で一杯だけビールを注文する。

昨年秋も同じ神保町で三人で会っているが、この時は昼だったのでこのメンバーでの「乾杯」は久しぶりのことである。

佐相さんとは2010年5月に旭川で初めて出会った。以来、彼の講演を聞いたり、幾度か東京で会って親交を深めている。彼の詩は他者への共感を前面に押し出し、しかもユーモアがあり、のんびりとした雰囲気を感じるが、実際にお会いすると詩から受ける印象と同じく中国風に言うと大人(たいじん)という雰囲気がある。

マイケルさんと佐相さんは、私が2年前の秋に東京の小熊追悼の会「長長忌」で紹介して以来、2人でフランス詩同好会のようなものを作り、時々会っているとのことである。二人の間でランボー、ボードレール、アポリネールの詩について次々と議論が行われる。二人は時にはフランス語で会話を行ったりもする。

この夜は、「ランチョン」を出ると3人で次に同じ神保町の安い居酒屋へ行く。
次号「コールサック」には、マイケルさんと佐相さんの二人の詩がそれぞれにお互いが英訳、日本語訳を行って掲載となるという。「コールサック」が出る5月が非常に楽しみだ。

私は同じ次号「コールサック」に詩論

「韃靼の海-小熊秀雄の樺太」

を掲載する。既に佐相さんへは2月末に送付済みである。3人が同じ雑誌で共演するのは、これで昨年夏に続き2度目のことになる。

佐相さんは昨年末に「21世紀の詩想の港」という詩論集を出した。すでに私は、この本を送っていただき、その興味深い内容を読んでいる。今回は詩人論はもちろん、佐相さんの詩からは窺えない、詩人としての歩みを始めた原点となる彼自身の人生の謎が語られている。

ところで、つい2週間ほど前にメールで佐相さんからこの「21世紀の詩想の港」の書評を「コールサック」に書いてほしいという依頼が私に来た。私は無類の本好きであるが、こうして書評の依頼を受けるのは初めてである。しかも、その本の著者をとは直接の知りあいである。正直に言って、どう返事をすべきか迷った。

しかし、これを断ればもう二度と書評をする機会は失うかもしれない。既に1週間前には北海道から佐相さんには承諾のメールを送った。そして私は、書評を行う対象の本だけではなく、佐相さんが20代から現在に至る迄に出した6冊の詩集を読み、彼の詩人としての全体像を捉えなおしてから上京した。もちろん、書評も少しづつ書き始めている。この事を佐相さんへ伝えた。

最近になって、旭川では、文学談義をする親しく若き仲間が二人できた。旭川では、自分より年上の方との付き合いは多くなっていたが、自分より年下の人と話す会が少なかったが、この二人との鼎談は、いつも大きな刺激を受けている。

東京でも、自分より年下のアメリカ人の詩人マイケルさんと佐相さんとお話しするのは刺激的だ。旭川での鼎談だけではなく、久しぶりに東京でも鼎談が実現できた夜だった。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第3回 漱石を巡る話

東京初日の散歩の最終地点である田端から、ここ数年間、東京での常宿にしている神田神保町の小さなホテルへ向かった。鶯谷から田端では幾つか見落としたこともあったが、またいつか機会が訪れることもあるだろう。

神田神保町は東京の中心地点であり、世界有数の古本屋屋街がある。私の通った大学は、神保町ではなく三田にあったが卒業後に初めて勤めた小さな会社が神保町にあり古本屋街に近接していた。

私は仕事の合間に一体どれくらいの時間を古本屋で過ごしたことだろう。出来たばかりの岩波ホールで見た映画は数えきれない。このために、神田神保町は私が東京で最も落ち着ける場所なのである。

ホテルにチェックインして少しだけ休んだ。昨年3月11日午後2時46分、私はこのホテルの一室で本を読んでいて東日本大震災に出会った。東北の被害の大きさや被災者の方に比べれば、私自身は多少の恐怖を感じはしたが、具体的には何事もなかったと言っていい。夕方に闇が濃くなっていくに従い、東京でまた大きく揺れがあれば大変なことになるだろうと思った。
しかし、混乱はあったものの、翌日羽田から飛行機が飛び北海道へ戻ることができたのだ。

ただし、あの際の恐怖心は心の奥深く植え付けられて1年後の今も残っている。本当の意味では、東日本大震災は何も解決できていない現状を一体どうすればいいのだろうか。

夕方、秋葉原に住む90歳の叔父宅へ行く約束があるが、まだ時間がある。さっそく外へ出て神保町の古本屋巡りをすることにした。

まずは、靖国通りの神保町交差点から専修大学前へ向かった中間地点にある長嶋書店へ行く。なかなかの品ぞろえであるが、値段が高くはない。長嶋書店は、私の古い友人が最近ある事情で本を売ったという情報を得てやってきた。目についたのは

吉野俊彦「永井荷風と河上肇」
小海永二「原民喜」

だった。「永井荷風と河上肇」は、これから訪れる叔父が荷風と河上肇の大ファンであり、この二人の話題が間もなく二人の間で行われることがはっきりとしていたので手に入れた。「原民喜」を手に入れたのは、原民喜の作品を愛読していたのは勿論だが、明日お会いする予定の87歳の玉井五一さんが現在編集中の「佐々木基一全集」に関連した内容だったからである。

長嶋書店から、神保町交差点を東へ渡り、次いですずらん通りへ入り美術関連の本が揃えてある「ボヘミアンズ・ギルド」に入る。美術評論家洲之内徹のある本を探していたのだ。目指していた洲之内徹のその本はなかった。
私は、昨年3月11日の午後1時半頃、この「ボヘミアンズ・ギルド」で

久保貞一郎「北川民次」

という本を手に入れた。そして常宿のホテルへ戻り、ベッドで横になってp.49からの詩人・小熊秀雄と画家北川民次の逸話を読んでいて地震に出会った。この古本屋にいると、一年前のことが生々しく思い出される。

「ボヘミアンンズ・ギルド」を出ると、三省堂の裏手のビルの5階にまで登って神保町古書モールというところへ入った。ビルの中で、やや狭苦しい感じはしたが数年前にここで私は「志賀直哉全集」を格安で手に入れたことがある。

ここは明治以降の近代文学の専門書が多い。何気なく本棚を見ていると

「夏目漱石の恋」

と題された本が目に入った。宮沢賢治同様、夏目漱石の評論や研究書はあまりにも多い。私はこの二人の全集を持ち、かなり深読みをしているとはいえ二人の関連の評論や研究書を買ったことは殆どない。

作者の名を見ると

「宮井一郎」

となっている。どこかで見た名だなと思った。

今から15年ほど前のことになる。当時、神奈川県藤沢市に住んでいた私は海岸近くに住む先輩夫妻のことろへしばしば出入りしていた。その先輩が

「この本は、インドで知り合った私の友人のお父さんの持っていた本だけど、私はいらないから漱石の好きなあなたにあげる」

と言って、厚い一冊の本をくれた。その本のタイトルは

「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」(昭和49年10月20日 集英社刊)

だった。扉には筆で献辞としてこう書かれている。

「宮井一郎様  荒正人」

かなり手垢にまみれ、ページをめくると全ページに青ペンで線が引かれ、宮井さん自身のメモが青いペンで書かれている。要するに漱石の生まれた時から亡くなるまでを荒正人という研究者は執拗に追いかけて、何年何月何日に漱石が何をしたかが克明に描かれ、詳細な注もついている本なのだ。

「宮井一郎さんは漱石研究者で知られているらしいよ」

と、友人はこの本の所有者について教えてくれた。

荒正人の書いた中身もマニアックなら、荒正人にこの本を送られた宮井一郎氏も全ページに線を引き、書き込みまでを行う事から見て漱石へ只事ではないこだわりを持っている人らしい。

この時私は、自分がこの本を持つ意味は何かあるだろうかと思った。私は漱石の読者ではあっても研究者になる可能性はない。しかも、所有者だけが持つこだわりの痕跡が強く、きれいな状態の本でもない。まして、この本を手放すときには絶対に値はつかない。

しかし、どういう理由か私はこの本を友人から受け取って保存し、その後北海道へ移り住み、この本を持ち続けていた。しかも、漱石のことを調べる時、この詳細な年表を時々参考にさえしていたのである。

もちろん、この本を開くたびに、荒正人の献辞が目に入り宮井一郎という名を思い出してさえいた。しかし、宮井一郎の本を読んでみようとか、本を探そうという気持ちになった事は一度もなかった。

そのような理由で、神保町の古本屋で、宮井一郎の「夏目漱石の恋」というタイトルを目にしなければ、あの全集別巻の元所有者の本を手に取ることはなかっただろう。

私は、「夏目漱石の恋」という本を棚から引き出し後付けを見た。

「昭和51年10月20日 筑摩書房刊」

となっている。あの手垢にまみれた「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」から二年が経過して出た本である。あとがきを読むと「荒正人」への感謝が書かれ、宮井一郎自身がこの時点で81歳であると書かれている。

私は漱石の作品では「それから」「門」「行人」を特に好み、この3作品を繰り返し読んでいる。漱石が恋愛をテーマとした代表作と言ってもいいだろう。宮井一郎の「夏目漱石の恋」では当然のように、この3作品に詳しく触れている。

しかも、なぜか私の手に渡っている「漱石文学全集 別巻 漱石文学年表」がこの本を書くにあたっての重要な参考文献であり、宮井一郎の蔵書では高い位置を占めていたは間違いない。

この本を手に入れた私は、小川町から地下鉄に乗り、岩本町で降り、その足で叔父宅へ向かった。秋葉原の喧騒の町を歩きながら、手垢にまみれ全ページに線が引かれた「漱石文学全集 別巻 漱石文学年表」のことが頭を離れない。
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投稿者:玄柊

夕陽

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夏の夕陽が

利尻島へ落ちる時

海を往く

鳥たちのシルエットが

次々と浮かび上がる

南北へ長く伸びた砂浜の海岸に

私はひとり

海の彼方から吹いてくる

風の音を聞きながら

夕陽を見つめている

夕陽は

広大な宇宙の中で

心開き

自然と対峙し

自然と一つになることだけが

静かな祈りの道であることを告げている

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投稿者:玄柊
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