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サヨナラだけが人生だ

1992年6月に尊敬していた叔父が亡くなった。20年も前のことになる。

叔父は、私の父の一番下の妹の夫、つまり私には義理の叔父である。当時、彼は58歳、現在健在ならば78歳となる。優秀なエンジニアで一流会社に勤め退職まであと2年というところだった。叔父は、退職したら日本中を旅し、山に登り、仕事で疲れた心と体を癒したいと言っていた。叔父の仕事は、自然環境を破壊する方に手を貸す分野の仕事であり、それに少なからず心を痛めていたようだった。

会うと文学の話もしたが、最近聞いた音楽の話が多かった。それは時には喜多郎だったり、バッハだったり、モーツアルトだった。


病に倒れた叔父に、亡くなる一月程前に私はお見舞いの手紙を出した。すると、こんな手紙が来た。

「文学系の君とは違う分野で生きてきたが、山とモーツアルトを愛し、詩を愛する点では響きあうものがあるように思っている。私の命はもう長くはないらしい。今、中国の詩人のこの言葉が繰り返し心を巡っている。
 
    サヨナラだけが人生だ

詩人の名は干武陵(うぶりょう)、日本語訳は井伏鱒二です」

死を目の前にした詩の言葉は、悲しい言葉だった。死と詩は近いものかもしれないと思った。しかし、そうは思っても60にも満たない叔父の人生を少しでも長引かせる術を私は持たなかった。まだ、6月初旬だというのに、東京郊外の叔父の住む町で行われた葬儀の日は随分と暑かった。

叔父の死から20年が経過した今年の夏、旭川の友人で古本屋をやっているOさんから井伏鱒二の
「厄除け詩集」
という函入りの和綴じの本を手に入れた。井伏自身の詩作品と、中国の詩人たちの詩を井伏が自由な感性で訳したものが集められた詩集である。なんと冒頭には井伏鱒二自身の署名が入っている稀覯本である。
 この中に干武陵(うぶりょう)の

「勧酒」

という詩があった。友情と波乱万丈の人生を短い詩で表現した短いものである。井伏はこう訳した。

  どうぞこの盃を受けてくれ
  どうぞなみなみ注がしてくれ
  花に嵐の例えもあるぞ
  サヨナラだけが人生だ

最後の部分は原文では

「人生足別離」

である。叔父が最後に手紙に書いてくれた言葉は、この詩の最後の一文だった。私は叔父の死後20年を経てやっとこのことが解明できた。

その後、この詩について私なりに執拗に調査し、この詩に関して次のことがわかった。

1.代表作「幕末太陽伝」を撮った映画監督川島雄三は45歳で亡くなったが、彼の出身地青森 県むつ市の徳玄寺にある彼の墓碑に

 「サヨナラだけが人生だ」

 と彫られている。字は、川島の作品で使われた森繁久彌である。

2. 青森出身の詩人寺山修司の詩

  「幸福が通りすぎたら」
  「さすらいの途上だったら」
 
 に、この言葉が使われている。寺山は川島と同郷の青森出身であり、同世代である。ひょ っとしたら交友があったかもしれない。

3. 昭和初期に井伏鱒二は、昭和初期に林芙美子と尾道で講演会を行ったことがある。この  時に因島への船中で林芙美子が

 「人生はサヨナラだけね」

  と井伏に言ったことがあり、これが井伏の「勧酒」の訳に影響があった。

北海道ではお盆を迎え、暑い夏が日毎に秋へと向かっている。今年も既に、私は数人の高齢の人々を見送った。9月には、青森へ行き先日亡くなった母方の叔父の納骨式に出る。こちらの叔父は大正11年青森生まれで90歳だった。

私は、青森へは1990年3月に訪れたきりである。
今年6月に亡くなった叔父の納骨の前後に、私は幾つかの予定を果たす。その1つが、下北半島のむつ市へ出かけて映画監督川島雄三の墓碑を見てくることである。この詩の

「サヨナラだけが人生だ」

という言葉を胸に秘めて亡くなった人々への弔いの意味もある。

なお、川島雄三は井伏鱒二原作の「貸間あり」を映画化、劇中で桂小金治のせりふに「花に嵐の例えもあるそ。サヨナラだけが人生だ」を言わせている。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第12回 藤牧義夫 −旅の終わり−

2012年3月12日、快晴である。版画家藤牧義夫(1911-1935)の隅田川を長大な絵巻で描いた作品が気になっていて、せめて白髯橋だけでも見ておこうと思い浅草方面へ出かけた。

浅草から東武線に乗り換えて曳舟で降りた。古い街並みの残る京島から永井荷風の「濹東奇譚」の舞台となった向島を通り抜けて明治通りを北上、白髯橋へ向かった。

藤牧義夫という昭和10年に24歳で浅草周辺で失踪、以後自殺か単なる行方不明かもわからずにこの世から姿を消した版画家のことを知ったのは、洲之内徹の

「さらば気まぐれ美術館」

という本の「夏も逝く」「一の江・申考園」という最終章二つを読んだことによる。藤牧は群馬県伊勢崎出身、上京して以来、版画で「赤陽」「給油所」、それに加えて隅田川を墨で描いた「隅田川絵巻」4巻を残した。


私は、洲之内ファンである。この本の最終章は昭和62年に芸術新潮に書かれ、その年に彼は74歳で亡くなった。連載の最後が藤牧義夫だったことは、いかに洲之内が藤牧の作品と人生を愛していたかを表している。私が、この本を読んで以来20年余りにもなるが一度はその舞台となった白髯橋と隅田川沿岸を散歩しようと思い続けてきた。しかし、思いはともかく、東京周辺に住んでいた時には腰が上がらず、北海道へ移り住んでからは費用と時間が問題となった。

アーチ式の大きな白髯橋の姿は、藤牧義夫が昭和9年に描いた「隅田川絵巻」と基本的には変わっていない。彼はここから、佃島と日本橋を結ぶ相生橋までを精密に描き、それを絵巻物4巻にまとめた。その緻密さは尋常ではない。

私は、白髭橋から下流へと下り桜橋を渡った。今では埋め立てられてしまった今戸橋を渡り、浅草へ戻る。雷門周辺は観光地らしく人であふれ始めていた。「時の鐘」の前に建てられた句碑で

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲」 

を確かめ、伝法院通りの古書店

「地球堂書店」

へ入る。この書店は、坂崎重盛の「TOKYO・老舗・古町・お忍び散歩」という非常に面白い本で紹介されている。しばらく、本棚を見ていると


「編笠」(ぬやま ひろし)

という詩集が見つかった。ぬやま ひろしは本名西沢隆二である。中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄等の作っていた雑誌「驢馬」の同人である。この人は司馬遼太郎の著書「ひとびとの跫音」にも登場する。この本は、子規の死後に子規の母と妹律が正岡家の養子とした正岡忠三郎の人生を描いたものだが、西沢隆二は正岡忠三郎の友人だった。

詩集のタイトルとなっている「網笠」とは、西沢が左翼運動中に検挙され、獄中にいたときに被せられたものである。当時、獄中にいた人々はしばしば「網笠」を強制的に被せられた。これは、獄にあるものが風呂に行く時、運動に出る時などにお互いの顔を網笠で隠し、認識させないためであった。

「網笠」は、このところ調べていた「驢馬」という雑誌に深く関係しており、中身も非常に興味深い。迷うことなく手に入れた。

昼ごはんの時間が迫っていた。オレンジ通りから仲見世を横切って、

「アリゾナ・キッチン」

へ入った。ここは永井荷風が昭和初期から晩年までしばしば通った店である。思ったよりは狭いが、山小屋風の質素な作りでる。荷風が好きだったというチキン・ステーキは避けて、もっと安いランチを食べた。給仕するのは60代くらいの凛とした態度の女性である。食事をしながら、地球堂書店で手に入れたばかりの「網笠」を読んでいると、獄中で彼は

「正岡子規全集」

を読み、以後歌や俳句を作り始めたという。

その後、オレンジ通りの喫茶店「アンジェラス」へ行きコーヒーを飲んだ。ここも、浅草ではよく知られた老舗らしいが、私は初めてである。ここも、洲之内徹の

「絵を洗う」

というエッセイを読んでその存在を知った。ここで森芳雄の「テラスの女」を見る。洲之内は、この喫茶店に通い、この森芳雄の絵が煙草と塵で汚れていることが気になり、作者森芳雄の口利きで「アンジェラス」店主の了承を得て、この絵を洗ったのだ。それが、洲之内のこのエッセイの内容である。

私は、この翌日、鎌倉で学生時代からの友人と神奈川近代美術館で行われていた「藤牧義夫展」を見た。その日は、松田の友人宅へ泊り、3月10日に北海道へ戻った。

こうして、2012年3月の東京探索行が終わった。私にとっては贅沢な、しかし、実り大きな東京の旅だった。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第10回 サンチョ・クラブ

船山馨終焉地から五ノ坂を下りると、西武新宿線中井駅近くの踏切を渡った。そのすぐ先の、両脇がコンクリートで塗り固められている妙正寺川を渡る。桜並木が上流から下流へと続いている。3月末に桜が咲くと川に沿って続く散歩道は見事な景色になるだろう。

橋の名は「美仲橋」(みなかばし)である。この橋を渡った右手には、昭和初期に「第七官界彷徨」などで異彩を放った作家尾崎翠が住み、そして昭和5年から林芙美子が洋風の貸家に住んでいた。林芙美子はその後、線路を隔てた五ノ坂へ移り、さらに現在林芙美子記念館となっている四ノ坂入口の新居が昭和16年に完成するまでこの辺りに住んでいる。つまり、林芙美子は東京での後半の人生の大半を落合で暮らした。

彼女の随筆「落合町山川記」(1933年 昭和8年)によると、

「落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞはきな臭い人を焼くにおいが流れてきた」

とある。この表現は妙に生々しく、私に次のことを想起させた。

落合火葬場は、昭和15年11月20日に亡くなった小熊秀雄が焼かれた場所である。林芙美子が小熊秀雄と顔見知りだったという確証はないが、松本竣介やこの辺りに住む作家、詩人と付き合いのあった二人は、意外なところで接点はあったかもしれない。

実際、小熊には「文壇風刺詩」という連作17編のなかに

「林芙美子へ」

と題した詩を書き、最後は次のように終えている。

「感傷性の売文家よ
 だが、再び貴方に九尺二問の長屋に住めとは言わない
 人生への追従をうち切ってください
 面白がっている読者に面白がらしてはいけない
 世界の中にただ一人
 私だけが面白くない貴女を期待している
 不機嫌な反逆的な貴女を待っている」

 (山雅房刊 『現代詩人集』第5巻 昭和15年9月20日刊に収録)

なお、この詩の中で出版記念会での林芙美子の様子を皮肉った部分では、その現場にいなければ書けない臨場感に満ちたものである。

昭和10年11月、林芙美子の小説「牡蠣」の出版記念会が催された。場所は丸の内の明治生命地階マーブル・レインボー・グリルである。多くの文学者たちに交じって、小熊は少なくとも一度は、この席上で林芙美子と会っている。

林芙美子は、昭和26年に名作「浮雲」を出版した直後の6月にこの世を去った。戦後の虚無的な男女の道行きを描いたものだ。この作品を原作として水木洋子脚本、成瀬巳喜男監督、高峰秀子、森雅之主演で映画化された屋久島のラストシーンが、今も目に焼き付いている。降りしきる雨、そして男に執着し続けた女の死・・・。

小熊はこの作品を読むことなく、10年ほど前にすでに亡くなっていたが、もし、この作品を読んでいたならば、詩の中で「感傷性の売文家」あるいは「人生への追従」という表現で彼女を批判することはなかっただろう。林芙美子が最後に残した作品「浮雲」は、小熊の強烈な風刺精神を沈黙させるほどに程に苦悩に満ちた最終作である。

ついでながら、落合火葬場について分かったことがある。
昭和11年7月12日、東京代々木の陸軍衛戍刑務所で2.26事件で決起し反乱罪を問われて処刑された青年将校の一人栗原安秀少尉は、この落合火葬場で荼毘に付され、遺族に骨が渡された。栗原安秀は昭和初期に第七師団軍人の子息として小学校時代を北海道旭川で過ごし、旭川時代には父の友人である軍人斉藤瀏を「おじさん」と呼び、斉藤瀏の娘で後に歌人となった斉藤史とは同級生である。

つまり、林芙美子の随筆に書かれた落合火葬場は、大正から昭和期に旭川と大きく縁のある詩人と軍人が同時期に荼毘に付された場所である。

私は、美仲橋から東へと向かい寺斉橋(じっさいばし)とぶつかった地点で南へ向かう山手通りを歩き始めた。右手に落合第五小学校がある。この近辺には昭和9年11月20日から宮本百合子が住み、獄中の夫宮本顕治へここから手紙を繰り返し書き送った。

この年の12月7日の百合子から顕治宛ての手紙には

「この家へ越したのが11月20日です。引っ越し通知のハガキはもうご覧になっているでしょう?あれも壺井さん夫婦が世話をやいてくれたのです」

と書き、壺井繁治・栄夫妻が登場し、このすぐ後には中野重治、原泉夫妻のことが出てくる。


二人の往復書簡は後年「十二年の手紙」としてまとめられ、多くの人に読まれたが、私は初めてこの地点を認識した。

宮本顕治が市ヶ谷の獄中にある時、百合子自身もこの上落合で検挙され、結局、彼女は翌年暮れにはこの貸家を出ざるを得なくなる。つまり、この上落合に宮本百合子が住んだのは昭和9年から10年にかけての一年に満たない期間だった。

この道をしばらく行き、左手の住宅街へ入った。ごく普通の住宅が並んでいる。東京でも特別な場所ではない。しかし、この周辺には昭和10年前後に壺井繁治・栄夫妻、中野重治、村山知義、窪川鶴次郎、山田清三郎等プロレタリア陣営の作家たちが住んでいた。また彼らの仲間である詩人で画家の野川隆、漫画家の松山文雄、加藤悦郎らもこの辺りに住んでいる。

この辺りには全日本無産者芸術連盟の機関誌「戦旗」の発行所があり、この雑誌に関係した林房雄、鹿地旦、江口渙、貴司山治、武田麟太郎、蔵原惟人、藤森成吉、立野信之、神近市子、片岡鉄平、柳瀬正夢も住んでいた。

もちろん、その家々は既になく、その事実を知る手立てはまったくない。しかし、かつて、彼ら風刺詩人たちが集まって作った「サンチョ・クラブ」という風変わりな自治村はここにあり、たった二号で終刊したけれど彼らによって「太鼓」と言う雑誌さえ発行されていたのだ。

この仲間の一人に江森盛彌という詩人がいて、彼が後年出した「詩人の生と死について」というエッセイ集で、詩人小熊秀雄のことを次のように書いている。

「詩人・小熊秀雄は池袋の方から、一里以上の道を、そのほそながい顔を空のほうへななめに向けながら、ブラブラと歩いて−散歩のためと、また電車賃がないせいでもあった−ちょいちょいやってきた。
私は、自分だけで私たちの住んでいたあたりを『流刑地』とよんでいた。みんな、特高に、動きの取れないように、しつこく監視されながら、その狭い土地でウロウロとくらしていたからだ。
そのころみんなふだん和服を来ていたのも、そういう生活状態のあらわれだった。いつも洋服ばかりきていたのは、西洋の浮浪者みたいな、小熊秀雄だけだった」

西洋の浮浪者・・・。貧しくともそんな雰囲気を漂わせて、池袋から流刑地へ歩いてきて、サンチョクラブの面々と議論を戦わせる詩人。青春は終わりを告げ、まもなく中年の域へ入ろうとしている。昭和初期のファシズムの横行した時代に早すぎた晩年を迎えようとする小熊秀雄の出没地の一つが落合であった。


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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第8回 松本竣介

高田馬場から西武新宿線に乗り、二つ目の中井駅の北の丘には、「一の坂」から「八の坂」と名付けられた通りが縦に並んでいる。戦前にこの土地を所有した人が命名し、周囲には多くの芸術家が住んでいたという。

2012年3月6日午前11時、私は林芙美子記念館を出ると、北へと向かう「四の坂」の急な階段を登った。

この坂の上に、昭和初期に画家松本竣介(1912〜1948)が住んでいた事を知っていた。しかし、彼が林芙美子邸とこれほどに近い距離に住んでいたことを私は明確には知らずにいた。

階段を登りながら、昨年暮れの12月1日、朝日新聞に次のような小さな死亡記事があったのを思い出す。

【松本禎子さん】 洋画家・故松本竣介さんの妻、11月25日死去、99歳。葬儀は近親者のみで行った。喪主は次男莞さん。個人の遺志で供花・香典は辞退している。

松本竣介と妻禎子は同年の生まれである。松本竣介は昭和22年(1947)に36歳で亡くなった。すると99歳の妻禎子は、夫の死後、99歳に至るまで63年間を未亡人として生き抜いたことになる。

私は、新聞記事を見て松本竣介の妻がまだ生きていたことに驚いた。遠い遠い過去が、私とも無関係ではないことを感じる。

私は、松本竣介の絵を長い間愛していた。昭和初期に渡欧することなくこれほど知的で洗練された絵を描いた画家がいただろうか。ニコライ堂をはじめとする都会の風景、人物を幾重にも配したモンタージュ風な斬新な絵、都会の風景をバックに、広い空の中にすっくと立つ青年を描いた自画像・・・。

彼は、単なる画家ではなかった。優れた文章を書き、昭和11年から12年にかけては妻禎子の協力を得て

「雑記帳」

という雑誌を出している。この雑誌には彼自身の文章やデッサンはもちろん、近所に住んでいた林芙美子、既に亡くなっていた故郷岩手の先人宮沢賢治の遺稿、さらに萩原朔太郎、佐藤春夫、室生犀星、平林たい子、そして最終号となった昭和12年12月号には

「小熊秀雄 風刺文学のために」

が、掲載されている。

詩人の小熊秀雄と松本竣介の出会いは、友人であった画家寺田政明や彫刻家舟越保武が大きく絡んでいる。池袋モンパルナスと呼ばれた地域に住んだ経験のある松本竣介が彼らと交友が深かったのは当然の事だろう。

当時は、ファシズムの横行による戦時体制強化の風潮が強かった。その風潮に抗するかのような極めて上質な芸術雑誌が若き20代の青年だった画家松本竣介によって出されていたのだ。

しかし、雑誌刊行にはお金の面はもちろん、思想統制の意味でも権力の介入があり、初めての子供の死が重なり苦労は絶えなかった。この良質な雑誌は14号で終刊となる。

急な「四の坂を登りつめ、左手の道へ入り、さらに右へ曲がると正面に

「松本」

という表札の上がる広壮な家が見えた。家は建築家である次男によって建て替えられている。しかし、昭和初期に松本竣介のあの傑作群が生みだされ、雑誌「雑記帳」が発刊され、妻禎子が昨年暮れに亡くなった場所はここだったのだ。




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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第5回 神田神保町にて

3月5日月曜日、東京への旅は3日目となった。週の初めというのに、早朝から雨が激く降っている。北海道に比べれば暖かいのはもちろんだが、東京にはまだ春が完全には訪れていない。

神保町のスターバックスでサンドイッチとコーヒーで朝食を摂る。窓越しに傘をさして歩くサラリーマンたちが交差点を急いで歩いてゆくのが見える。かつて、1970年代中頃には、私もこの神保町で働いていたことがある。

私は、雨の降りしきる今日は、こうしてのんびりと古本屋を巡りながら神保町で過ごす事に決めた。東京を目的をもって歩き回るだけが旅ではないだろう。

久しぶりの長い休日・・・、東京での贅沢な時間がこうしてまた始まった。

一昨日の夜に秋葉原の叔父宅で貰った河上肇の

「自叙伝」

を読み始める。「自叙伝」は岩波文庫版で5冊、その(1)「自画像」という章の扉に西行の次の歌が掲げられている。

  あはれわが多くの春の花を見てそめおくこころたれに伝へむ

西行といえば、なんといっても「桜」である。吉野の桜はいつ咲くのだろうか。

次のページには河上肇自身の歌が6首ほど並べてある。その初めの歌は次のものだった。

 書き了えて思ひ出の跡かへりみばいとしかりけるわがいのちかな


素人っぽい歌ではあるが、マルクス経済学者として生涯を生き抜き、大学を追われ、1933年(昭和8年)から37年(昭和12年)まで入獄した彼の個性がにじみ出ている。いい歌である。

秋葉原の叔父は税法の専門家であり、長い間、大学で教えてきた人である。いくつもの専門に関する著書があり、90歳を迎えた今も自宅のある秋葉原に自らの研究室を持ち現役で働いている。私は、幼いころから今日に至るまで、様々な面でお世話になり続けている。

叔父が尊敬する人物として、いつも筆頭に挙げているのが河上肇である。そして、永井荷風の話しは繰り返し聞かされている。私は、東京に住んでいた頃も、北海道に住む今も、会うたびに日本の知識人として生き抜いた叔父の興味深いお話を聞くのがとても好きである。
もちろん、私には叔父の専門とする税法などの知識は皆無であるから、二人で話題となるのは専ら、文学方面の話に限られる。

今回、河上肇の「自叙伝」以外に叔父から渡された本は次のようなものがある。

片山潜「自伝」
斉藤瀏歌集「四天雲晴」

片山潜は、いまだにロシア・モスクワのクレムリンにあるレーニン廟に葬られている社会主義者である。一方、斉藤瀏は、大正から昭和初期に旭川第七師団にいた軍人であるが、歌人でもある。彼は、歌人斉藤史の父でもある。
二冊とも非常に興味深い内容であり、多くのものが私に与えられるだろう。

また今回は、叔父の蔵書である多くの全集を北海道の私の自宅へ送ってもらう事になった。全集の内容は、主なものでは「ギリシャ悲劇全集」「岸田國士全集」「夏目漱石全集」「津田左右吉全集」「鴎外全集」「服部之総全集」「長谷川如是閑著作集」「岡義武全集」などである。すべてを合計すると全部で200冊以上になる。

私は、かなりの文学好きで蔵書も多い方だが、全集は金額はもちろん、収める空間が必要であり、簡単に手に入れられるものではない。中でも38巻もある「鴎外全集」は、もう何十年も前から手に入れたいと念願していたものだった。それが叔父の好意により手に入ることになった。

専門分野だけではなく、知的生活を若き頃から90歳の現在まで長期に渉り継続している叔父の好意に深く感謝しなければならない。電子書籍が世に出始めた現在、全集は世の風潮に逆行するものともいえる。しかし、あの重みをもった全集の感触こそ、著者の書いた原稿の筆跡に最も似たものを感じ取ることができると信じている。


神保町の雨は降り続いている。午前10時、多くの古本屋が開き始めた。さっそく私は、河上肇の自叙伝でとりあげられた歌人・窪田空穂の

「西行法師」

という本を探し始めた。河上肇は、この窪田空穂の「西行法師」を紹介し、西行の「山家集」は出来不出来にむらが多く、不出来なものを読み続けて嫌気がさしてくると飛び離れて光ったいい歌が表れてくるという。また窪田は、西行は性格的にも純情で神経質の気難しい性質を持つ人間の型に属するとしている。河上肇は、このような窪田の分析を読み

「こうしたむらの多い点では、私は西行型に属する」

と書いている。河上肇は、どうやら飾らない性格で、「自叙伝」では自分の良いところも悪いところも率直に述べる人間である。この率直な記述こそ「自叙伝」の魅力である。

「西行法師」を探して幾つかの古本屋を歩いていると、友人のAから電話が来た。彼が住むのは郊外の多摩市であるが、午後に仕事で銀座へ出てくるので、神保町へ来てくれるというのである。

午後1時半、神保町の中央地点に位置する書泉グランデ1階でAと会う。彼とは学生時代からの付き合いで、初めて会ってからもう40年以上の月日が経過している。昼ご飯を食べて、伯剌西爾という名の喫茶店へ入った。彼とは、神保町の喫茶店はいくつも入っているが、ここは初めてである。昼飯時がとうに過ぎている為か、店内は空いていてのんびりと話をする。仕事の話、文学の話・・・。お互いに年は重ねているが、心の中は学生の頃とさして変わってはいない。

午後4時頃、Aは仕事があるので、神保町から銀座へ向かった。雨はやや、小ぶりとなっている。今度は神保町から専修大学方面へ向かった靖国通り沿いにある古本屋街を歩く。見つけた本は次のようなものである。

佐多稲子「年譜の行間」
チエーホフ「サガレン紀行」
「千家元麿全集」上下
「菅原克己詩集」

それぞれに、私なりの思い入れのある本ばかりであり、中にはもう何年も探していたものがある。

そして、少し暗くなってきた頃、朝から気になっていた

窪田空穂「西行法師」

を、国文学専門の大きな古本屋で見つけた。昭和13年厚生閣発行、麹町下六番町にあった出版社である。河上肇が「自叙伝」で取り上げた本が、その日のうちに見つかるのは、神田神保町以外では考えられないことである。

まだ、夜が来てはいないが、こうして東京探索行の3日目が過ぎた。今夜は、神保町で詩人の佐相憲一さんとアメリカ人のマイケルさんと会う予定だ。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第4回 デイヴイッド・グッドマン

2011年7月25日、日本の演劇や文学の研究者のディヴィッド・グッドマンが亡くなった。65歳である。私は、彼を詩人小熊秀雄の詩を英語へ翻訳した人として認識していた。あまりにも早すぎる死だった。

朝日新聞で、グッドマンの死を知った私は、すぐに1989年に出た小熊秀雄の英訳本「Long Long Autumn Nights」を自分の本棚から取り出した。私はこの本を、発売になったと同時に手に入れて、度重なる引っ越しにもめげず、23年間も持ち続けていた。ただし、英語で書かれたグッドマン自身の小熊対する思いの詳細な部分を、私が十分に検証していたとは言えない。

英語のタイトルの「Long Long Autumon Nights」は、小熊秀雄の長編詩「長長秋夜」(ジャンジャンチュウヤ)から選ばれている。小熊は、太平洋戦争直前の日本が支配していた朝鮮への支配に目を向けて深い洞察力に満ちた表現で描いた作品である。小熊秀雄は、朝鮮だけではなく、昭和初期に日本が行った中国、そしてアイヌ民族への支配に関しても、彼の詩「プラムパゴ中隊」や「飛ぶ橇」において鋭い批判を行っている。

これらの詩を書くことは、当時の日本の政治状況に置いては困難を極め、事実、「飛ぶ橇」には検閲により多くの伏字が行われ、現在もその部分は想像力で何が書かれていたかを補うしかない。

この翻訳詩集の初めで、グッドマンはこの本を韓国人詩人Kang Sunに捧げている。私は、このkang Sunという詩人の作品を読んだことはないが、訳詩集の表題に「長長秋夜」を選んだのはグッドマンがこの韓国詩人Kang Sunとの交友関係があったからだろう。

さらに1912年ロシア革命直前にロシアの詩人マヤコフスキーによって書かれた
「ぼく」
という詩の一部がエピグラフとして掲げられている。

  車にのりあらされたぼくの心の
  舗石道をつたって
  狂人たちの足音が 
  かたいことばのかかとを あんでゆく。
        (「マヤコフスキー詩集 草鹿外吉訳)

小熊は、昭和8年に「マヤコフスキーの舌にかわって」という優れた詩を書いている。グッドマンは、当然この詩が小熊によって書かれたことを理解した上で、マヤコフスキーの詩の一部を掲げた。グッドマンの死を契機として、この英訳詩集に込めた彼の詩人・小熊秀雄への思いが、重みをもって私に伝わってきた。

この英訳詩集でグッドマンによって訳された小熊秀雄の詩は全部で23である。生涯で300を超える詩を書いた小熊秀雄のすべてをこの詩集でとらえる事は難しい。

しかし、さらに大きな発見があった。小熊秀雄という日本の詩人を初めて読む読者のために書かれた
「Introducion」
のタイトルはこうなっている。

Oguma Hideo : A man in Dark times(小熊秀雄:暗い時代を生きた男)

小熊の紹介の前に、次にユダヤ系政治哲学者の女性ハンナ・アーレントの

Men in Dark TImes (「暗い時代を生きた人々)

からその一部をエピグラフを掲げている。

私はまず、このIntroductionのタイトルに注目した。グッドマンが尊敬するハンナ・アーレントの著作のタイトルの

{Men}

{A man}

と変えていることに気が付く。グッドマンは意識的に小熊秀雄を自分の尊敬する政治哲学者と結びつけて読者へ提示しようとする意志がここに明確になる。

さらに、20ページにわたって続くグッドマン自身のIntroductionを読み進めると、これはありふれた詩人を紹介する短い評伝ではないことがよくわかる。次の文章は、Introductionの最後に置かれたグッドマンの評伝の結論である。

「39歳という短い生涯を終えた後、小熊秀雄の放つ光は彼の時代の暗さを照らした。私は、その光は、我々の生きる時代さえも照らすことができると信じている」

グッドマンは、過去から現在へ至る多くの日本の読者より遥かに深く小熊秀雄という詩人を理解した人だった。

私はIntroductionを日本語へ翻訳しようと決意した。日本人はもっとグッドマンという人を知らなければならない。グッドマンの小熊秀雄の詩への思いをもっと深く知るべきだ。

しかし、翻訳には著作権などいろいろの問題があるのだろう。
聞くところによると、グッドマンの妻は日本人で藤本和子さんといいアメリカ・イリノイ州に住む翻訳家である。

その後、私はその後手に入れられる限りのグッドマンの著作を読んだ。彼はもともと祖先はユダヤ人だった。ユダヤ系のハンナ・アーレントに共鳴し、小熊秀雄が日本人が支配した韓国、中国、そしてアイヌ民族への特別な視線を持っていたことを深く理解するのは、グッドマン自身のユダヤという血がそうさせるのだ。

秋になった。私は、10月に東京で小熊秀雄の命日を記念して毎年行われている長長忌に参加した。この時、長長忌を主催してきた小熊秀雄協会の会長のGさん、詩人の佐相さん、アメリカ人の詩人Mさんとも会った。

第一部の講演は、編集者、評論家で知られるTさんの「池袋モンパルナス」というお話だった。興味深くこのお話を聞いた1か月後の11月、このTさんが岩波書店発行の「図書」でグッドマンの追悼文を書いているのを読んだ。なんと、Tさんはグッドマンの友人であった。Tさんは、この文章の最後にグッドマンと小熊秀雄の関係についても書いている。

さらには、グッドマンの妻である藤本和子さんはTさんの古い友人であることが分かった。

私は、この文章を読んで、Tさんに東京で会おうと思った。グッドマンさんとの友情についてお聞きし、彼の小熊秀雄の詩の英訳本の冒頭のIntroduction翻訳の許可を得るために奥さんの藤本和子さんの連絡先を聞こう、先へ進むためには行動しかない。

2012年3月4日、上京した2日目のことである。Tさんの友人であるGさんと赤羽駅へ向かった。12時ちょうど、赤羽駅へ着くとTさんは既に我々を待っていた。

それから、約2時間余り、赤羽近くのホテル内の中華料理店でTさんにじっくりとグッドマンさんのお話を聞きした。彼とグッドマンは20代のころから知り合い、共に世界中を旅し、「黒テント」などの日本演劇に関わってきた。

昨年5月にも日本へ来たグッドマンとTさんは会っている。Tさんはグッドマンが体調を崩しているとは思っていなかったらしく、その2か月後の彼の死には驚いたらしい。

ともあれ、私はグッドマンの小熊翻訳詩集のIntroduction翻訳に関する意向をお伝えし、藤本さんの連絡先を教えて頂くことになった。

今回の上京の最大の目的と言ってもいいTさんとの会見はこうして実現した。

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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第2回 驢馬

大正15年から昭和2年まで「驢馬」という詩雑誌が発行されていた。印象的な空谷山人による題字と、当時田端に住んでいた芥川龍之介と室生犀星のバックアップのもとに、若き日の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎、西沢隆二、宮木喜久雄らで出した同人雑誌である。

この雑誌に関する逸話は幾つもある。私の関心で言えば、当時、プロレタリア文学の台頭で自分の文学の方向に苦しんだ芥川龍之介、彼は中野重治の詩を「驢馬」で読んだ。その詩に新しい意味を感じた芥川は、昭和2年6月、自宅に中野重治を呼び話をする。詳細は、中野の小説「むらぎも」に出てくるが、芥川はこの翌月に自殺をする。

逸話の中でも、「驢馬」の同人たちの青春を象徴するのは一人の女性を巡る話が一番魅力的だ。

大正15年4月1日、当時田端の南を横切る不忍通り沿いにあった「カフェー紅緑」で女給として働いていた田島イネ(後の佐多稲子)に
「こんな僕たちの雑誌が出たんだ」
と、「驢馬」同人たちが創刊号を見せた。これは、日本文学史上でも特筆すべき出来事となる。何故なら、これが契機で、田島イネ子は後の作家佐多稲子となり、彼女は同人の一人である窪川鶴次郎と結婚する。さらに、佐多稲子の人生に大きな影響を与える中野重治との長い友情が生まれ、多くの作品が書かれた。

後年、佐多は窪川とは別れ、中野重治との友情は後年になって傑作「夏の栞」を生む。また、佐多の「私の東京地図」という作品は「驢馬」の同人たちとの出会いが大きな割合を占めている作品である。

また、佐多は中野同様、自殺直前の芥川に呼ばれて会っている。佐多は、「驢馬」同人と会う前に一度結婚し、その相手とともに死を選んだが生き残ったという経緯がある。死の直前の芥川は、「驢馬」という雑誌に寄稿もしているが、中野、佐多と会い文学と死について語る。大正と昭和初期の東京田端という土地は、単なる文士村ではなく、人々が出会い、死と政治と文学への思いが交錯してゆく。

私は、子規の墓のある大龍寺を出ると、ポプラ坂を過ぎて不忍通りへ出た。「驢馬」の若き日の同人たちの集まった「カフェー紅緑」のあった場所を確かめたかったのである。そのあたりは大きく姿を変えた街並みとなり、「カフエー紅緑」はこの辺りだったという事を確認したにすぎなかったが、彼らの青春を偲ぶことはできた。

この「驢馬」の同人たちのうち、芥川龍之介の継承者である堀辰雄を除くと、すべてのメンバーが左傾化し、困難な昭和初期の政治状況の中を生きて行く。罪を得て、投獄されたメンバーも数多く、佐多稲子は戦争中は、戦争協力をせざるを得ない状況となり、戦後にはこの事実が大きく波紋を呼ぶ。

私は次に不忍通りを動坂交差点へ向かった。ここは、私が数年、細かく調査している詩人・小熊秀雄が昭和10年に初めての「小熊秀雄詩集」を出した出版社である耕進社があった。当時の住所では、

東京市本郷区駒込動坂町264

となっている。交差点をやや北へ入るが、住宅街があるばかりで、耕進社の位置は明確にはならない。

「驢馬」の主要メンバーである中野重治と小熊秀雄はこの詩集を出した昭和10年頃には同じ左翼陣営にあり、小熊は窪川鶴次郎、佐多稲子とも知り合いである。

さらに田端駅方面へ北上し

「天然自笑軒」

という高級料亭跡を確認した。ここは、近くに住んでいた芥川龍之介が大正7年に塚本文と結婚披露宴をあげた場所である。自笑軒は芥川邸に近く、芥川の死後に毎年「河童忌」が行われたことでも知られている。

またこの自笑軒は、大正13年4月11日に、日暮里渡辺町の野上豊一郎、弥生子邸で出会った宮本(中條)百合子、湯浅芳子は、当日の野上夫妻とともに4人でこの「天然自笑軒」を訪れて夕食を共にしている。この料亭で語り合ったことが、中條、湯浅の二人を近づける大きな要因となった。

東京には、田端だけではなく芸術家が多く集まる街が幾つもあった。落合、馬込、早稲田、池袋・・・その代表的な場所の一つが田端だった。私は、東京にいる時にはこの街を歩いたことはなかった。

こうして、遠い北海道から出てきて田端を歩く・・・。何事にも時期があり、ある場所を訪れるにはそれにふさわしい時期がある。そんなことをふと思いながら、時計を見ると午後2時半になっている。散歩を初めて約3時間になる。私は、この日の最終目的地点である田端駅へ向かった。
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投稿者:玄柊

東京探索行 2012 第1回 雨の坂

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2012年3月3日午前9時初の飛行機で私は旭川空港から東京へ向かった。春弥生の東京では、文学関係の調査や人と会うという幾つもの目的があった。旭川のこの日は−16度、北海道の春はまだまだ遠い。

機内では、昨年末に出た詩人佐相憲一氏の詩論集「21世紀の詩想の港」を熟読した。彼にこの本の書評をお願いされていたのである。

午前11時に羽田へ着いた。いつも通り、モノレールで浜松町へ向かい、山手線上野方面行に乗り換える。旭川に比べると東京は格段に暖かい。しかし、人々はブーツを履き、厚手のコートを着ている。昨年秋には、まだ冬でもないのに厚着をしている人々の歩く東京を経験したので、きっと早々と春の装いだろうと思っていた。東京の人々は、春が来ることを、北海道の人間ほど心待ちにしてはいないのだろう。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の最終章は「雨の坂」というタイトルが付けられている。「雨の坂」は、日露戦争が終わり、日本海でのロシアのバルチック艦隊との戦いを日本の勝利へ導いた立役者秋山真之が、亡くなった友人子規宅を鶯谷へ訪ね、その後、日暮里を経て田端の子規の墓のある大龍寺まで歩くシーンを描いている。

私は、東京へ着いた午後を、秋山の歩いた「雨の坂」のコースを歩くことに費やそうと思った。3年を変えて制作し放映されたNHKドラマ「坂の上の雲」でも、激しい戦闘シーンを超える静かで情緒に溢れた映像であった。

今日は晴れ、雨ではないが、もともと大きく変わった東京を歩くのである。街並みを明治とイメージし、天候も雨を想定して歩けばいい。少なくとも地形や地点と地点を結ぶ距離だけは大きくは変わっていないだろう。

明治30年(1987年)、子規が骨髄炎で病に臥している時、秋山真之は米国留学を言い渡される。秋山はこの時子規を訪れて留学することを伝えた。この時、子規は次の句を詠んだ。

  秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル

  君を送りて思うふことあり蚊帳に泣く

子規の心情がにじみ出ている句である。

山手線の鶯谷で降りて、青空の中を子規庵へ向かう。私の子規庵訪問は3回目である。明治期に比べると、周囲のあまりにも変わり果てた街並みに私は悲しみさえ覚える。子規庵の前で目を閉じて手を合わせると日暮里方面へ北上する。

子規庵から約5分、司馬遼太郎原作で、秋山が朝飯代わりに立ち寄って食べた「羽二重団子」の店を発見する。印象的な件だ。あの頃から百年を経て、現在もなおこの店が営業を続けていることに感動する。

線路を渡り「芋坂」を下ると谷中霊園である。
子規はまだ元気な頃は、子規庵から散歩して芋坂を歩き、こんな句を残した。

「芋坂も団子も月のゆかりかな」

明治のころの東京の町・・・。現在では想像すらできない静かで落ち着いた街並みが広がり月の色も冴えわたっていたことだろう。

日暮里駅から御殿坂を下り、本行寺から右手の道へ入る。途中で富士見坂や、多くの芸術家たちが通った太平洋画会研究所を見つけた。太平洋画会は中村彜、中原悌二郎の出会ったところであり、その後も松本竣介、靉光、寺田政明、麻生三郎ら多くの芸術家を生んだ。

西日暮里駅前から開成高校脇の「ひぐらし坂」を登った。この辺りは昔、日暮里渡辺町と呼ばれていた。大正期に作家野上弥生子は日暮里渡辺町1040に住み、ここで大正13年4月11日に宮本(旧姓中條)百合子と湯浅芳子は運命的な出会いをする。

田端の旧芥川龍之介宅跡はすぐに見つかった。しかし、彼がここへ住まいを定めた大正4年(1915)から自殺に至る昭和2年(1927)のころの面影は全くない。野上弥生子の日記に、若き芥川が野上邸を訪ねてきたことがしばしば書かれているが、その理由は住まいがお互いに近かったということがよくわかった。

さらに北上する。子規の墓のある大龍寺を訪ねるためである。子規は死期を感じたころ、この寺に墓を定めることを自ら決めた。

門前に「子規居士墓所」書かれた石柱が立っている。大龍寺は今風に建て替えられ、風情などというものは全くない。本堂を右手に見ながら、墓地へと入る。

子規が亡くなったのは明治35年(1902)9月17日だった。中央に「日本」社主である陸羯南の筆になる「子規居士之墓」と刻まれた墓石があり、右横に母八重、左横に妹律の墓が並んでいる。

私は鶯谷の子規庵へは三度ほど行っているが、この墓には初めて来た。司馬遼太郎の「雨の坂」で描かれたようなしっとりとした情緒は全く失われている。

秋山真之が、子規の墓を訪ねたのは明治38年(1905)10月25日のことである。松山で過ごした少年時代からの親友、しかし二人は軍人と文学者という違った道を選んだ。そして今は生と死が二人を大きく隔てている。

この場所を、もう一人の友人が子規を偲んで訪ねている。時は秋山が訪ねた時から二年半ほども前の明治36年(1903)3月、その男とは夏目漱石である。漱石は2年間の英国留学を終えて帰国したばかりだった。漱石は、その前年の明治35年(1902)9月の子規の死を知り、英国ロンドンで次の句を詠んだ。

「手向くべき線香もなくて暮れの秋」

また、子規の墓を訪ねた時、漱石は日記にこう書いた。

「霜白し、空重き日なり。我西土より始めて汝が墓門に入る。爾(その)時、汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭周ること二度、花も捧げず、水も手向けず、只この棒杭周ること三度にして去れり。我は只、汝の土臭き影をかぎて汝が定かならぬ影と較べんと思ひしのみ」

秋山と漱石も、東大入学の前段階である大学予備門、第一高等中学校で子規ともに机を並べた。つまり、秋山と漱石も無縁ではなく、道は違ってはいてもそれぞれに友情を持っていた男たちだった。

子規の死から110年が経過している。2012年3月、こうして私は東京探索行の第一歩を子規の墓前へ行くことによって踏み出した。


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投稿者:玄柊

観海居訪問

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2010年9月4日、午前9時に高田氏と車で旭川を出て、岩見沢まで無料の高速道路を走る。国道12号線を江別王子交差点まで行き、右折、対雁(ついしかり)へ行く。この周辺は、明治初期に結ばれたロシアとの条約を契機に、樺太アイヌが強制的に移住させられた地域である。墓地と資料館を訪れ、対雁地域の歴史と地理について調査する。

その後、隣町の当別町太美で作家本庄睦男の「石狩川」文学碑を見る。背の高い塔と、高見順の筆による「石狩川文学碑」という文字が印象的である。この地点で東京の玉井五一さんから電話がある。10月末の小熊秀雄追悼の「長々忌」の打ち合わせだった。

南下し、銭函から小樽へ向かう。午後3時小樽着。国道から左折、坂道を登り、小樽へ来るたびに写真撮影を行っている「富岡カトリック教会」のすぐ上に当たる花崎皋平氏宅を訪れる。

花崎さんのことは

「静かな大地-松浦武四郎とアイヌ民族」(1988年)

という作品を読んで、その内容の深さから、その人柄をも密かに尊敬していた。この作品を契機に、花崎氏の著作をいくつか読んでいた。しかし、私に、実際に花崎氏にお会いする機会などが訪れるはずもない。

しかし、今春、旭川で行われてきた第43回の詩人小熊秀雄を顕彰する

「小熊秀雄賞」

に花崎さんが選ばれた。私は、それまで、花崎さんが詩を書いていることさえ知らなかった。なかなか手に入りにくい

「アイヌモシリの風に吹かれて」

という詩集を、旭川文学資料室で目にした。選び抜かれた、しかし、難解ではない言葉で書かれた詩に感動した。

そのことを、この賞の事務局長を務める高田氏に伝えると

「小樽まで会いに行きましょう」

と言う。彼には、昨年、東京の玉井五一氏との再会やサハリン行きなど、私一人では行えなかったことを次々と実行に移す契機を与えられてきた。

私は、高田氏へ、5日には札幌の小熊秀雄研究家の大堀富美子さんに会うことも提案した。大堀さんとは、1982年に、東京の小熊秀雄の「第1回長々忌」でお会いしたことがある。私は28年ぶりで大堀さんとお会いするのも、今回の旅の大きな楽しみだった。

花崎さんは1931年生まれ、79歳である。坂の上のお宅に一人でお住まいである。海の見える、大きなガラス窓のある家へ通される。玄関口には

「観海居-花崎」

と書いた表札がかかっている。「かんかいきょ」と読むらしい。文人らしい名の付けられた素晴らしい家である。

居間の丸いテーブルには、今まで読んでいたと思われる岩波版「漱石全集」の中の一冊が開かれている。花崎さんは、日常的に漱石などに目を通す方なのだということがわかった。

5月に既に花崎さんと面識のある高田氏が、初対面の私を紹介してくださる。高田氏は、小熊秀雄について、私がエッセイなどを書き、最近は講演を行っていることなどをお伝えした。すると、花崎さんは

「小熊秀雄は、-飛ぶ橇-でアイヌを親しく描いていますが、彼は樺太ではアイヌと付き合いがあったのでしょうか?」

という質問を私にする。この件は、詳しく調べても、小熊がアイヌと樺太で出会っていたという事実はどこにも記されていない。さらには、日露戦争後、南樺太に残って住んでいたとされるロシア人との付き合いもあったかどうかが明確ではない。

アイヌと小熊の接触については残念ながらこの程度のことしかわからないが「飛ぶ橇」に込められたアイヌへの小熊の共鳴は、樺太の少年時代にアイヌとの交友なしには書かれるはずがないという討論となった。

その後、花崎さん自身の詩との出会い、小熊との出会いなどを中心に5時ころまで、2時間ほど海を眺めながらお話をさせて頂いた。

お別れする前に、近作「おたるとみおか滴滴詩録」という詩集を頂いた。また、旧作で私が持参した「静かな大地」に署名をして頂いた。私はこの著作の著者の自宅をお訪ねし、この本に署名を書いて頂くことを想像したことは一度もない。

思えば松浦武四郎を、アイヌという民族の存在を、北海道という私の故郷を認識させていただいたのはこの本による。私にとっては大切な本だった。

最後に、小熊賞の正賞である

「詩人の椅子」

に、花崎さんご自身に座って頂き写真を撮らせていただいた。

翌日の午後、旭川へ帰宅して「おたるとみおか滴滴詩録」を繰り返し読んだ。詩とは、難解な言葉で抽象的な言葉を操るものではなく、肩ひじを張らず、しかし、歳月を経た人生感と教養に裏打ちされながらこのように書いていくのがいいのだと思い知らされた。

哲学者で住民運動の行動家としてのイメージの強かった花崎さんは、私の中で、小樽富岡で会いした時から

「詩人」

のイメージが強くなった。

9月とはいえ、いまだ気温の高い小樽だったが、「観海居」で花崎さんにお会いできたことは神の恩寵であった。また、小樽へ行くことがあったら、旭川の地酒でも持参しようかと思っている。





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投稿者:玄柊

遠い谺

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        瞬間を捉える

        言葉を紡ぐ

        宇宙を仰ぐ

        森を歩く

        静けさの中で瞑想する

        小さな花に喜びを見る

        そして、遠い谺に耳を澄ます
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投稿者:玄柊

焔に立つ青馬



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少年の私は
あなたの詩に出会い
反逆と自由と諧謔と
激しい愛を知った

詩とは世界の中心にあり
詩の周りをすべてが回転し
心ある人々への愛を貫く
武器となる

焔に立つ青馬は
樺太と北海道の荒野を駆け抜け
青馬の瞳は
遥かなる宇宙の永遠を見つめる

私にとって詩人とは
ただ一人
すっくと立つ青馬に象徴される
あなたのことである


   詩人小熊秀雄に捧ぐ


   2008.6.14.旧作<詩人>改作
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投稿者:玄柊

百年

年齢を重ねるにつれ

百年という時が

さほど昔ではないことを感じる

久しぶりの函館への旅の通過地点で

百年を深く想った

1901年(明治34年) 小樽 詩人小熊秀雄出生

1906年(明治39年)有島武郎29歳、スイスでティルダ・ヘックと出会う

1907年(明治40年)函館 亀井勝一郎、出生
         同年、22歳の石川啄木は故郷を去り函館に着く

1909年(明治42年)東京 歌人斎藤史出生

私の心に響く文学者たちの青春は

まさに私の祖父の年代と重なり

彼等が死を迎えた年齢は痛ましいほどに早い

百年が遠い過去ではないとすれば

千年の昔さえも遠い過去ではない

過ぎ去り、そして巡りくる時の不思議

過去も未来も

広大な宇宙へ

己を解き放つ勇気と魂の自由を持てば

急速に身近に迫ってくる

旅は、魂の自由への入口・・・



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投稿者:玄柊

一つの真実

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明治を生き

大正に亡くなった一人の作家が生きた農場を訪ねた

北海道の大地に

ニセコ・アンヌプリと羊蹄山が対峙し

彼が解放した土地が今に残る


完全な愛や人生はないのだと

あなたの残した真摯な書簡を読み

あなたの苦悩を感じながら

私は一人で呟いている


旅の途上のスイスで出会い

たった一週間を共に過ごした一人の女性に

純粋な愛を感じ

その後の死までの16年間にわたり

会うこともなく

手紙を出し続けた作家


その手紙を大切に保存し

一人で一生を過ごし

老年を迎えようとするとき

男の祖国を訪ねた女



静かに秘められた

一つの想い

一つの真実

一つの愛の姿がここにある







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投稿者:玄柊

遥かなる沼

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雪の降り積もった高原沼

熊が闊歩する遥かなる原始の森

長靴を履いた息子と私は

足早に秋が通り過ぎた

雪の森を歩く

いくつもの池沼が

次々と凍りついた姿を現す

かすかに残る秋の色彩に

秋と冬の狭間に込める

大いなる自然の

森厳な祈りを感じる

まだ、少年に

酷なほどには

寒くない高山の九月

この地は

まもなく大雪に閉ざされ

人の立ち入りを拒否し

長い冬ごもりに入る

氷と雪と風に包まれ

白く長き沈黙に入る森と

遥かなる沼を

思い描きながら

私は

やがて訪れる

長い冬を乗り越えてゆく












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投稿者:玄柊

秋の詩

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秋の彩が

高山の池沼から

滑り落ちるように

低地へと駆け抜けていく


心染める鮮やかな山々

秋と冬の混在

冠雪の山は人を拒絶するかのように

白き世界へ変貌する


秋の輝きの中を歩きながら

瞬間の存在をかなしむことなく

己の四季を静かに見つめて

生きたいと感じる


秋は美しい

しかし

山がもっとも輝きを見せるのは

冬の白き雪に覆われた

峻烈な

最後の時である










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投稿者:玄柊
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