名古屋で女性が殺害される事件があった。
犯人は、朝日新聞の販促員だった男など3人。
3人は、犯罪に関する携帯サイトの常連で知り合い、女性を狙った犯罪をしようと計画。
たまたま通りがかった人材派遣会社の女性を拉致。車に押し込め、現金を強奪。顔を見られたという理由で、ハンマーなどで頭部を何度も殴打し殺害。岐阜県の山中に放置した。
まもなく、犯人の一人が、このままでは死刑になると恐くなり、警察に電話し、犯行を表明。警察が捜査したところ、遺体が発見されたため、男を逮捕。つづけて、他の二人も逮捕した。二人も犯行を認めているという。
女性はたまたまターゲットにされただけで、男達に捕まって、たった2時間後に撲殺されたわけである。恐怖と理不尽さの中であっけなく命を失ったわけだ。いろいろ人生の計画もあっただろうし、夢もあっただろうが、無惨なものである。
犯人は、死刑になりたくないから、と言う理由で自首したわけだが、おそらくは、死刑にはならないだろう。残酷な事件なのだが、これまでの判例などを考えると、主導的な役割を取ったものが無期懲役、後は懲役10年とか程度になるのではないか。
また弁護士が、判断力の欠如などを盾に無罪を主張したり、自首による減刑を求めるだろう。それがそのまま通るとも思えないが、日本の司法状況では極刑も考えにくい。
さっそく、死刑反対の弁護士連中が、ネタが出来たとばかりに動き始めているところだろう。犯人達の「反省の弁」などもすでに考えているのではないか。
死刑制度には、文化人だの、弁護士だの、政治家だのが反対し、その潮流は世界的なものになっている。
国家が人を制度的に殺すのは間違いだ、と言うわけである。
非常に不思議なのは、人が人を殺すことは問題にされず、死刑制度が問題になるところだ。なにもないところから、いきなり死刑があるわけではなく、相応の罪を犯したから死刑になるのに、その罪の重さについては論議されずに、死刑制度だけが論議されている。
もし、凶悪な犯罪者を「人権」を盾にかばうのならば、そもそも刑法は必要ない。犯罪はほったらかしにして、人を殺し、犯し、盗み、傷つけるのが当然の世の中にすればよい。犯罪者の人権だけを守るなら、そう言うものだろう。
だが、古代より人間は、無辜の市民を守るために法律を作ってきたのだ。
確かに刑の重さについては昔から論議がある。中国の正史と呼ばれる公認歴史書にも、その論議のことが記されているものがある。死刑はやめて、相応の肉刑(手足の切断や入れ墨、去勢など)や奴隷にすればいい、と言う意見に対し、肉刑こそ残酷だ、死刑が相当である、と言う反論が出たりしている。
しかし、最近の死刑論議には、ただ死刑という制度と、犯罪者の人権保護だけが問題になっていて、被害者のことはほとんど念頭にない。
これは、死刑廃止論者の心理的なところに原因がある。
死刑廃止論者にとって、死刑囚というのは、弱者なのである。国家によって殺されかかっている。また、たとえ犯罪者であっても、それを許してやるという「心の広さ」の自己満足があるに違いない。犯罪者の人権を守る正義感、と言うのも、自己満足の要素の一つだ。
つまり弱者を守り、人権を守る人間であり、人を許すだけの器の持ち主である、と言う付加価値を自分に与えて、自分こそ、そこら辺の人間よりも優れた人間である、と感じていたいわけである。そう言った理屈付けは自分ではしないだろう。しかし、この点を指摘したら、烈火のごとく怒るかも知れない。死刑論議は、難しい論議のように思えるが、人権弁護士らの心理的な問題を検討してみれば、そう言うところに答えがあるだろう。推進論者の感情論は問題にされるが、廃止論者の心理的問題が論じられない今は、公平とは言えない。法理論としても、今の論議は、古代中国の刑罰論議に劣るものとしか思えない。
人間も所詮は動物。社会的生態系であるが故に、個体は社会に依存する。そのためには、社会に対する存在価値が高いほどよいわけで、その要素は「正義」だの「地位」だの「金銭」だのいろいろあるが、いちばんやっかいなのは、「正義」だ。
人権を主張するのも、戦争に反対するのも、環境保護を主張するのも、そう言う正義だが、その主張の背景動機には、単に動物的本能として、自分が自分の属する社会に対して価値があると言うことを示しているだけである。そうすることで、餌を確保出来、メス(あるいはオス)を確保出来、生存出来るようになる。
チンパンジーが木の枝を引きずって力を誇示したり、熱帯の鳥が変な踊りをしたり、犬が見知らぬ人に吠えるのと同じである。知的に見えて、本来人間もそんなものだ。それを忘れているだけである。
問題は、その正義が万人の納得するものではなく、しかも、無辜の市民を犠牲にするようなたぐいであること。
死刑制度の論議や、裁判における凶悪犯への弁護などは、法律や制度や社会における、ひどく末端の、一部分だけを見て論じるような狭いもので、本来なぜ法律が必要なのか、人間とはなんなのか、社会とはなんなのか、そう言うものを理解していない。
人権弁護士や、死刑廃止論者が、そういう程度のものであるのは、彼らが犯罪の犠牲者になればわかるだろう。自論は一転してひっくり返り、取り締まりの強化や、死刑制度を唱えるのは明らかだからだ。実際そう言う例もある。表面的な正義の主張による自己満足より、家族を殺されたり自身が被害に遭う痛みや苦しみや怒りの方がずっと上だからである。
人間は未熟だ。
システムが先行しても、それに追いついていない。
凶悪な犯罪が起こる理由もそう言うところにあるだろうが、凶悪な犯罪者を守ろうとするのも、同じである。
人間が、人間を超えるなにかしらの変化を起こして別の生き物にでもならない限りは、本当に悪いことをしたものには、相応の刑罰は必要である。

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