北海道洞爺湖サミットがいよいよ開催。
福田総理は現地へと向かい、アメリカのブッシュ大統領と会談するなど要人の来日も相次いでいる。
一方、欧米ほどではないが、反サミット、反グローバリズム運動家による集会とデモが行われ、警官と衝突して4人が逮捕された。
参加者の一部とは言え、ピースを叫んで暴力をふるうこういう運動をなぜわざわざするのか、正直首をひねらざるを得ないところだろうが、彼らの心理的な面で考えると、非常にわかりやすい。
要するに、彼ら自身の存在価値の問題なのだ。
人間も動物の一種であり、その生態は動物と共通している。
動物の基本的行動は、二種類しかない。
一つは、生きること。食糧や水を巡る争いはここから来る。これは基本である。
もう一つが、自分個体の子孫を残すこと。ここにも争いの元がある。出来る限り自分の子孫を残すため、雄は雌の気を引くための争いを起こす。雌雄逆の場合もあるが、大体に於いて、オス同士が争う。
この場合、人間以外の動物では、異性の個体を引きつけるため、体格や角などの身体的な方法で自分を強く見せたり、雄叫びを上げたり、派手な色を披露したり、踊りを踊ったり、立派な巣を作ったりする。
動物の多くはオスが派手でメスは地味だが、それもオスが争ってメスを誘うためである。メスにはその必要がないから地味なのは言うまでもない。
種によっては、直接ぶつかり合って勝敗を決めることもある。
人間の場合も同様で、見た目、センス、仕事ぶり、金や財産の有無、才能、趣味、おしゃべり、腕力もあれば、セックス時の行為の善し悪しに至るまで、様々な方法で、異性を惹きつけようとする。
人間の場合、必ずしもオスだけでなく、メス同士にも競争がある。ここがやや動物と異なっている。
ところで、人間は社会的動物なので、孤立して生きていけない。
社会性動物の場合、これは猿や犬、ライオンなどでもそうだが、社会の中で、どのような地位にあるかが重要になってくる。その地位によって、食糧と、異性を手に入れるチャンスも変わってくる。生存と子孫の二大要素が地位によって決まる。
人間も社会の中での地位が大きく影響する。
その地位、と言うのが、人間の場合、必ずしも、権力や階級や財産だけではなく、「社会的価値」であったりするところが、他の社会性動物と違う。
つまり実態のない力であっても、人間自身が、それは重要だと思う要素、すなわち、「倫理観」によって、地位が左右されてくるのだ。
倫理観にも色々あるが、おおむね、それは「正しいこと」だと一般的に思われるものだ。
平和だったり、愛情だったり、正義だったり、子供を守ることだったり、お年寄りを大事にすることだったり、困っている人を助けることだったりする。
それを為すことによって、人々はその「正しい行為」を認め、その人の「地位」は相対的に上昇し、その人の存在価値は「正しい人」と言う意味で重要さを増す。
人間は倫理的地位を理屈によって塗り固めて形として認識するわけだが、実は、その根底には、二つの本能的要素がある。
一つは、その倫理を守ることによって、個体の生存が保たれる、ひいては個体を守る社会を維持するために必要なことであるという認識だ。理屈でそう考えるのではなく、本能的にそう感じている。平和はそれがもっともあからさまに現れている理屈だろう。これは至極当然のことだ。もし、他の社会性動物が進化して知能を高めれば、全く同じ事をするに違いないし、宇宙のどこかにいる異星人だって同様だろう。
もう一つが、子孫を残すことだ。これは一つ目の生存の維持に関わる「倫理観」を実践することによって、その個体は生存しやすくなることから、当然、子孫を残しやすくなることで、異性を引きつける要素になってくる。
すなわち、倫理を守るという行為は、ひとつには生存本能に従っているわけだが、同時に異性を引きつけたい本能にも従っているのである。
もっともこんな事を言うと、「失礼な! 自分は自分の欲のためにやっているのではない。地球に住む全ての人のためにやっているのである」とか言うであろうが、そう言うこと自体が、基本的に、「自分を正しい人」と見せることで「社会的地位」を高めたい欲求の成せる技なのである。
そこで、平和主義者や、環境保護団体、グローバリズム反対派などの活動家が、しばしば暴力行為に走る理由も成立する。
すなわち、他者によって、その活動が阻害される、あるいは、否定されることは、「社会的地位を高めたい、それによって、自身の生存と、子孫を残す機会を高めたい」とする可能性を否定されることになるのである。
これは当然、理屈より先に本能に対して行われる強烈な危険信号だ。
人間はその危険に対し、怒りという形で抵抗を為す。
メスを巡って、オス鹿同士が激しく角をぶつけ合うように、人間もまた怒りを発して、叫び声を上げ、敵に攻撃を仕掛け、あるいは火を付けたりする。平和を叫んで暴力を為す矛盾した行為の理由である。
そうしているときは、おそらく冷静さは全て失われているだろう。あとになって、なんでそこまでしたのか訳がわからないものもいるに違いない。
中にはその行為を正当化するために、さらに理屈を上塗りして、ついには自分でも止めることが出来なくなり、むしろ暴力に逃げ道を作るようになるものも出てくる。本能と直結した回線を維持したまま、その回線を社会にあわせて是正するためのシステムを理屈で閉鎖してしまった人間である。これはもはや人間とは呼べない。多くの動物と同じレベルに退化したと言っていい。
その結果、彼らの運動は過激化し、社会的に反するようになり、そして大衆の支持を失っていく。支持を失うことで、さらに本能的危機が強まり、ますます過激化していく。悪循環である。
正しいと考えることと、正しいことと思って行動することが、すべて知能によって成り立っているとは限らない。
正しいと思った行動が、正しい結果を導くとも限らない。
まずは、一旦立ち止まってみて、感情を抑え、他に方法がないかを検討することだ。
感情のままに突っ走っても、その効果は予想より遙かに小さい範囲にとどまってしまう。
もし、人間が他の動物と違う部分があるとすれば、自らの行動を自ら考えて訂正出来ることではないか。
せっかくの大脳新皮質を無駄にするべきではない。

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