八王子の書店で起こった無差別殺人。
アルバイト店員の大学生一人が死亡し、客の女性一人が負傷した。人数は少ないが、容疑者の動機や、相手を選ばない無差別さに、秋葉原事件と類似したものがある。
ここ数年、こういう事件は頻発している。
容疑者の動機がまだはっきり断定は出来ていないが、仕事上のトラブルを親に相談したが乗ってくれず、むしゃくしゃして、犯行に及んだ、と言っている。容疑者の父親は、家を出たあとはほとんど顔を合わせたこともなく、相談も受けていない、と言う。子供の方は相談したつもりだったが、親はそうは取らなかったのか、それとも容疑者が作った話なのか。
ただ、職場で手を怪我して入院していたことなどが、心理的に影響を与えた可能性はあるだろう。なぜ、何もかもうまく行かないのだろう、と言う不満が、社会に対する不満へと転嫁していったのかもしれない。
といって、多くの人も、同様の不満を抱えている。今の社会で、それなりに楽しくおかしく不満もほとんどなくやっているのはほんの一握りだろう。
自身に不満があるとき、学校や、職場や、街中で、楽しそうにしている人を見たら、不愉快になるのは誰でもあり得ることだ。
それを、人々は抑えて、自分にも努力が足りないのでは、と考えるからこそ、暴走しないわけで、それが出来ないのは、本人の問題だ。
しかし、最近の通り魔の頻発は、人間のそういう部分の抑えが効かなくなっていると言うことだろうか。それはどういう理由からであろうか。社会的要素なのか、医学的要素なのか、生物的要素なのか、その辺りの原因も知る必要がある。
何にせよ、それで犠牲になるのは、真面目に生きていた人であるのが悲惨であり気の毒だ。
こういった事件を受けて、知識人や、評論家気取りの芸能人や、ニュースのアナウンサーが、さも偉そうな顔で、身勝手だとか、社会が真剣に取り組むべきだ、とか言っているセリフが、空々しく聞こえるのはなぜだろう。
彼らに責任ある大人としてのリアリティがないからではないか。
彼らは「正しいこと」を言って自己満足に浸っているように感じるわけだが、そういう大人こそ、事件を起こした若者らと共通する部分があるように思える。
また、その共通するメンタリティの低さから、知識人らは、犯人の地位、出自、趣味などを批判の対象とする。父親を殺して逮捕された女子高生が猟奇殺人のマンガを持っていた、と言って騒ぎ、秋葉原事件の犯人が派遣社員だった、と言って騒ぎ、そう言うレッテルを貼って、自分はまともだと信じたいわけである。
彼らの発言を聞くと、学術的でもないし、なにか響くような言葉があるわけでもない。正直、バカにしか言えないような程度の発言を、メディアとかで偉そうに言っている。
それらの発言を見ると、さして才能に差があるわけでもないのに、運良く家に金があり、高校・大学を出られて、正社員だのアナウンサーだのジャーナリストだの芸能界で活躍するだの「まともな道」を進むことが出来たものと、経済的不遇や、失業や、失敗続きの人生で内向していくものの格差が存在していることが実感出来る。
前向きになるのも後ろ向きになるのも、本人次第とは言っても、すべてを自己責任の一言で済ますことはできないだろう。
こういう部分にも、事件の遠因があるのではないか。
通り魔は無差別だが、最近激増している親や子供を殺す事件だって、親や子供だから殺したとは限らず、ほとんど衝動的である。心理面では、通り魔と同様の部分が大きいはず。
秋葉原事件の時にも書いたが、こういう事件を、単に犯人にキチガイのレッテルを貼って済ますのではなく、周辺との関係、家族関係、経済状況、これまでの人生などの影響から来る、心理的な要素を、多面的に調べる必要があると思う。
でなければ、また同様の事件が起こり、無惨に人生を失う人がでてしまう。
こういう事件は、誰でも起こす可能性があるものだから。

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