京都大学、早稲田大学、立教大学などの入試中に起こったネット投稿カンニング事件。
一体、どうやったのかが話題になっている。
投稿には同じハンドルネームが使われていることから、単に受験生が試験中に投稿したのではなく、何らかの中継的な存在があって、受験生からの情報を元に投稿していたのではないか、などと推測されている。
試験会場は講師や院生、学生などが監督を行う。
個人的にも試験監督の経験があるので思うが、試験中の不審な行動は非常に目立つことから、なかなかカンニングはしにくい。監督者はぐるぐる回っている。普通はカンニングをしよう、と言う気にはならない雰囲気だ。
一方で、カンニングをしたとして捕まえた事例も聞いたことがないので、案外ばれずに出来ているのかもしれない。
携帯電話で問題を打ち込み、投降するのは難しいが、テスト用紙を撮影して送信し、それを受け取ったものが、投稿する、という方法も考えられる。ただばれずに撮影出来るのだろうか。
謎めいている。
韓国や中国のように、カンニングが大規模に組織化され、そのための専用機器まで開発されるような場合なら、既存の機器を元にした推測はしにくくなる。
真面目に勉強して、受験に望んだ受験生にとっては、まことに腹の立つことだろうし、受験を一つの基準にしている以上、カンニングを見逃してしまったら、信用問題になる。
方法そのものにも興味あるが、それも含めて、実態を明らかにしてほしい。
ところで、カンニングとは別に、大学のあり方もどうなんだろう、と思う。
日本は大学進学率が、意外と低い。
大学、短大、高専の進学率は52%ほど。通信制大学、放送大学、専修学校は含まれてないので、これを含めると7割くらいになるそうだけど、欧米や韓国に比べるとかなり低い。
日本にはこの他に職業訓練校、省庁大学校、民族系学校など一般的な学校に含まれない教育機関もいろいろある。
思想的なものが優先される一部の民族系は別にするとしても、大学ではない教育機関と、大学とでは、一般社会における能力の差はほとんど無い。むしろ職業を目的とする専門学校に比べれば、大学生の方がいい加減な学生も多い。しかし、単純な学歴で就職への影響が左右される今の企業体制では、大して社会経験もなく、研究もしておらず、留学経験もない学生を青田刈りしており、大学の存在価値はあまりない。それで就職しても、企業が期待するほどの戦力にはならず、あっさりやめてしまうなどのトラブルも多い。
大学本来の研究機関という価値も、各大学にそれぞれの研究特色があるものの、それは大学内でのほんの一部であり、その研究を学んでいる学生も限られている。
日本では(韓国もそうだが)、入試にもっとも重点が置かれているため、入学したら、あとはレポートを書く時くらいしか、勉強しない学生が大半。それが就職後はいっぱしの顔をして社会に出ているのも変な感じがするものの、大学以外の出身者に比べて学歴が優遇されているのは、人材主義から言えば、明らかに間違っている。
企業に入ってから、社会的なことや常識を勉強しているところも大きい。新人研修では当然、という感覚もあるが、国際競争の激化で、人材を重視するのであれば、余計なコストがかかっていると言える。それで実務を学んだ専門学校生や、経験豊富だが失業してしまった者、国際常識のある留学生などの就職がうまく行かないようではバカな話である。
もっとも、大学卒業生が、ろくに漢字も読めない、なんて言うのは、マスコミの偏った報道だろうが。
欧米でも受験制度があったり、語学など一定の学問レベルを条件にしたり、高校までの社会奉仕などの経験を問うたり、方式は違うものの、入学に厳しい制限を課している大学は多い。
逆に入学に制限を加えてない大学もある。
入学に条件を付けているのは、大学での高度な学問、研究に耐えられる必要があるからで、逆に入学を自由にしている大学は、卒業が厳しいことが多い。
つまりどちらにしても、大学自体の研究・教育体制のハードルは高いわけで、それだからこそ、卒業生の就職や、社会での活動に一定の評価が得られる。
またそのため、大学に入る人の年齢はあまり関係なく、一旦社会に出てから入学する人や、軍人となったあと奨学金を得て大学に入る人なども一般的で、歴史学から数学へといった研究コースを途中で変えたり、複数の大学に通う人もいる。
あくまで高等研究機関なのだ。
日本でも、近代初頭の大学では、そう言う要素が強かった。
学部を卒業すると学士になるが、かつては学士と言えば大変価値が高かった。今の修士や博士並みである。学士会館など、その頃の価値を感じさせる施設もわずかに残っている。
しかし今の日本の大学にはその価値は限定的だ。ほんの一部の研究者だけが認められている。
すでに少子高齢化で入学者の数も減ってきている。
教育目的と言うより、儲け主義で設立された多くの私立大学や、我が町にも方式で作られた大学では、経営自体が困難になるだろう。
大学進学率がさほど上がらない一方で、専門学校は多く存在している。
ならば、そろそろいい機会なので、大学の体制を大幅に変えたらどうだろう。
大学を再編し、大学数を減らし、その代わりに、入学試験を無くし、入学後の大学の研究に耐えられる学生だけを進学・卒業させる。付いて来れない学生は退学させる。もちろん不祥事を起こすような学生は即刻追放だ。
入学費用はその分下げる。経済事情で左右されないよう、奨学金制度も充実させる。もちろん、あとで返済しろと借金取りのようなことをして卒業生の人生を狂わせる今の学生支援機構の奨学金制度ではない。返還無しの奨学金制度だ。
学生の個性的な能力を尊重し育てられる指導者も育成する。学生だけの問題ではなく、講師の側も相応のレベルにいる必要がある。個人的な欲望や嫉妬で学生の指導を阻害するようなレベルの低い講師陣は必要ない。
再編される大学には、単に目先の利益につながるような学問だけでなく、基礎研究や、文学・哲学・歴史学など文科系の研究も残す。単科大学か総合大学かはあまり関係ないだろう。
有名大学だけでなく、地方の大学でも独特の研究をしているところもあるので、再編には、幅広い分野から判断しなければならない。民主党の事業仕分けのような一部の分野しか知らない人々による一方的に断罪するような方式ではダメだ。
大学は研究機関、専門学校は職務教育機関として、企業も人材雇用にはそれぞれの能力を見た上で採用すべき。競争力を高めるには、単に人件費を減らすのではなく、優秀な人材を確保しなければならない。安い人件費だけを目当てに海外へ移転したり、移民を推奨するなどのような方法の前に、国内の人材を育成することを、国も企業ももっと考えるべきだ。国は教育体制を見直し、企業は国内の人材をもっと発掘するように努力する。
人間そのものに能力の違いはほとんど無いのだから、教育体制がきちんとして、企業に見る目があれば、十分国際競争に戦えるはず。
そうしなければ、日本は没落してしまうこと、必至だ。

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