NATO軍の空爆で、カダフィ大佐の息子と孫が死亡したという件。
これによってリビアは言うまでもないが、ロシアなどの国々、メディア、市民団体など、あちこちで批判が上がっている。
カダフィ暗殺を狙ったのではないか、というのだ。
国家が批判するのは国際関係の建前だろうが、市民団体の批判は少し違う。
爆撃の真実はわからない。
ただ、それを言うなら、空爆を始めた時点で織り込み済みでもあったろう。
一応は軍事目標のみ、としているが、そもそもは市民への軍事攻撃を阻止するという建前があるのだから、当然軍隊、すなわち軍人は標的なわけだし、軍事指導者が狙われることだけを切り抜くことにどういう意味があるのやら。
またカダフィが軍事力で市民を虐殺することは問題ないのか、という話にもなる。
こういう批判はイラク戦争の時にもあった。
多国籍軍の攻撃を批判する運動はやたらとあったが、彼らが、フセインによるクルド人虐殺などを批判したとは聞いたことがない。
アフガニスタン攻撃でも、アメリカを批判する日本の某NGOとかあったが、では、女性を公開で斬首するようなタリバン政権のやり方を批判するかというと、そのNGOは「それが地元の習慣だから」と擁護していた(ちなみに地元の習慣ではない)。
死刑の是非論とも良く似ている。
国家が制度によって人を殺す死刑制度を、そこだけ切り抜いて批判する意見は多いが、凶悪犯罪行為や、その被害者の立場を考えるような意見をすることは殆ど無い。
戦争や死刑が当たり前だった時代から、文明は進歩して、むしろ戦争や死刑を批判することが文化的、と考えるようになった昨今。
だが、その文化で言う旧態依然とした独裁政権や凶悪犯罪は減るどころか、増える傾向にある。
また平和論者や死刑廃止論者は、一見、文化的なスタンスを見せているが、内実は一方的に感情的に騒いでいるだけで、理論的ではない。
環境保護運動にもみられる。
これらに共通することは「正義」だろう。
人類という社会性動物においては、食べ物や生殖相手をめぐる個体の生存競争は、社会構造と複雑な思考体系の中に組み込まれている。だから「正義」は同じ人類の競争相手へ主張できる要素だ。猛獣が牙や爪を誇るように、鳥が鮮やかな羽を見せびらかすように、正義は自己主張として、本能を刺激するのだろう。
だから視野が狭くなり、それだけになってしまう。
でも、そういう主張は大勢を支配しない。人類は基本的に本能以外の知恵や思考を持っているからだ。
例えば、反戦を主張するなら、いずれの立場の戦争行為、非人道行為も批判すべきだし、戦争を回避するための現実的な方法も模索すべきだ。
そういう活動をしている団体もあり、それなりに評価される。すぐには実現しないという欠点がある。しかし、感情的に批判しているだけでは、いつまでも実現しない。

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