金正日の国葬が平壌の中心で行われた。
葬送のパレードが市内の主な場所、およそ40kmの道のりを、3時間かけてめぐった。
雪のふる中、金正恩が車のミラーを素手で掴み、一緒に歩く姿も見られた。周りは、チャン・ソンテクら正恩を支える党や軍の幹部が並んで、権力体制を示す場ともなっている。
その沿道には、平壌市民が並び、車列が通ると、みな「あああ〜」と泣き叫んで飛び出そうとする姿が紹介されていた。
これは死去を報道した特別放送を見た市民が突然叫びだす場面や、安置されていた遺体へ向けて泣き叫ぶ場面などでも登場している。
今回の沿道のシーンでは、後ろの方では黙ってみているだけの人も結構写っており、死去の報道番組を見る市民の場面でも、まるで監督から「スタート!」と声がかかったかのように突然泣き叫ぶなど、いかにもわざとらしい場面ばかりなので、あれは演技では、という疑問を呈する日本の番組も多かったわけだけども、
あらためて疑問を呈するまでもなく、基本、これは演技だ。
ひとつには、儒教の国の習慣として、哭礼というのがあるため。
哭礼とは葬儀の時に大げさに泣き叫ぶ儀礼のこと。古書にも出てくるからかなり古い時代からあるらしい。
中国や台湾でももちろんあり、泣き屋とか泣きおばさんなる専門家が呼ばれていくこともある。韓国でも、最近あった海上警察の警察官殉職のニュースとかで、大声で泣き叫ぶ遺族が出てきた。
もちろん、悲しくてそうしているところもあるだろうが、大げさに泣き叫ぶことをアピールする意味合いもある。
そうすることで、亡くなった人の権威を高めるわけだから。
泣く人の数や態度がそのままバロメーターになるわけでもないけど、死んでも誰も泣かないんじゃ、別の意味で哀しすぎる。おそらくそういうところから儀式化、習慣化していったのだろう。
北朝鮮の場合は、市民にこれだけ慕われていた、という宣伝も兼ねているから、泣き叫ばない人が、職場を追われたり、といったこともあるらしい。
一方で、権力者はそういうことはしないようだ。
古代中国でも、三国時代の曹操の息子の曹丕が父の死で哭礼をしたところ、司馬孚(司馬懿の弟)から帝王に小人の礼儀は必要ないと戒められたとか(もっとも曹操・曹丕の時代は儒教的な観念が薄かったのもある)。今回も金正恩は涙を拭ってはいたが、泣き叫んではいない。
ようするに、金王朝の権力の立場としても、中国以上に儒教の概念が強い朝鮮の習慣としても、わざとしているだけで、これで市民が金王朝を支持しているかどうかは別の話なのは言うまでもない。
庶民でも、キリスト教国や日本なんかは、遺族は耐え忍ぶ姿のほうが美徳のように捉えられているが、イスラム教のように派手に叫ぶところもある。
権力側がやらせるのは違和感ありまくりだけど、文化の違いという点は面白い。

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