関東大震災のあと、東京はそれまでとは大きく異なる風景が生まれた。
後藤新平による復興計画は予算がかかりすぎるとして反発を買い、大幅に削られたが、今もある昭和通り、靖国通り、内堀通りなどの幾つかの幹線道路はこの時出来た。幅広の道路を作ることで火災の延焼を防ぐ効果を狙ったものだ。当初の計画より狭くなったものの、車社会になったずっと後にも対応出来るだけの広さを持っている。
隅田川に架かっている清洲橋、永代橋、両国橋などのほか、墨田区内の運河にかかる幾つかの橋、亀島川の南高橋などは、震災後に復興のために架けられた橋だ。元ある橋を替えたものもあれば新規にかけた橋もあり、南高橋のようにもともと両国橋に使われ、震災で壊れ残った部分を利用したものもある。
街の風景でも、それまで商店は軒を張り出す江戸時代からのものが多かったが、道路幅を取るために、軒を削り、その代わりに正面壁を上に延長したような薄い壁を立てて屋根を隠し、そこに独自のデザインを施した看板建築が普及した。これは今でも一部見られる他、デザインは簡素化したが壁構造だけは同様の店舗建築は今でも多く見られる。また下町などでは壁を銅板にした銅板建築もまだいくつか残っている。
さらに、震災以前は木造だった小学校はほぼ全壊しあるいは焼失したため、その後はコンクリート建築となった。のちにインターナショナル様式というあまり特徴のない四角い「学校建築」になって全国に広がっていったが、初期には曲線を多用した表現主義のおしゃれな校舎が多数作られた。これらを復興小学校という。多くが解体されたが、一部は現存している。
一方、消えてしまったものもある。
火災の延焼を防ぐ目的で、復興小学校とペアで作られたのが、復興公園。例外的に巨大な数カ所の公園を除き、多くは学校に隣接して作られた小規模の公園で、50箇所ほどあったという。しかし当時の面影があるのは、復元された文京区の元町公園のみ。これも区の再開発の対象となっている。あとは公園はあっても、樹木と遊具だけの物が多く、ほんの一部に痕跡があったり、二宮金次郎の像が置いてある程度だ。跡形も残ってないのもある。
そしてもうひとつ、震災復興時に多数作られながら、今は消えてしまったものがある。
それが復興住宅群。もともとスラム化が進んでいた東京で、住環境を良くするために大正時代に徐々に小奇麗な文化住宅という建築が生まれ、さらに鉄筋コンクリートのアパートが作られていったが、震災後、これを大規模に行ったのが、同潤会であった。
同潤会は、戸建住宅と、大きなアパートの両方を建設していったが、現在までに残っているのは、たったひとつ、上野の上野下アパートのみである。ほかはことごとく解体された。有名なのでは、解体が惜しまれた原宿にあった同潤会青山アパートがある(跡地に出来た表参道ヒルズの端に模したものが一部復元されている)。比較的最近まであったのに、三ノ輪アパートがあったが、再開発が遅れて残っていただけで、無人で崩壊寸前であった。そして最後の一つ、上野下アパートも解体が決定した。
政府施設や大企業の本社、皇室関係ですら、残るのは難しい中、庶民のものは文化財としての価値も認められない。
一部、建物系博物館に移築保管されるものがあるものの、多くは失われる。
いつか歴史を振り返る時、都市に時代時代の面影はない。
日本では特に建物が残りにくい。すべての時代の施設を残すことも無理だ。
しかし、せめて一つだけは残せないか、と思いたくもなる。
ここ数年でようやく近代建築も文化財の指定を受けるようになってきたが、昭和の建築物は多くが失われることになるだろう。特に東京は、横浜などと比べても、石原都知事が古いものに冷淡なこともあって、重文級のほんの一部を除いて保護の対象にはならず、殆ど失われると思われる。
老朽化と耐震性の問題は、震災復興で作られたものとしては皮肉な話だが、失われるのは残念なことだ。

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