奈良県桜井市の纒向遺跡は、三輪山の麓にある、縄文晩期から古墳時代初期にかけての遺跡。名前も景行天皇の宮に由来する。
元々古墳の多いところだが、1971年に開発に伴う調査で遺跡が見つかり、それ以来、40年近く、延々と発掘が続いている。
今回、新たな発掘で、いくつかの面白いことが判明した。
その中でも、過去何度かの発掘と照らし合わせると、直線上に建物と柵が続いていることが明らかになったこと。
直線上に並んでいる、と言うことは、大まかに考えれば、道路に面していたか、一つの大きな施設の敷地に建物が並んでいたか、いずれにせよ、大規模な施設か、都市があったと言うことになる。実際、過去の発掘で見つかった構造物(道や堀など)や、全体の広さから見ても、都市国家レベルの遺跡である。
そこで考えられるのが、年代から見て、邪馬台国のあった場所ではないか、と言うこと。
卑弥呼の宮殿の跡ではないか、という意見も出ている。
これまでの出土品などから、邪馬台国畿内説では、最有力候補がこの地であるから、ますます注目を集めているのだ。
一方、九州説を採る学者は、勢いをなくしていて、今回、特段のコメントは出していない。
ただ、畿内説であるにしても、今回の並んだ建物の柱の太さが宮殿などに使われるものとして考えると、細いという意見もある。一概に結論づけるのは早いだろう。
また、仮にここが邪馬台国であったとしても、三国志魏書東夷伝にある邪馬台国の記事(いわゆる魏志倭人伝)の記録との整合性の問題もあるし(現地取材で書かれたわけでもないだろうから、何処まで正確な記事かもあるが)、同時代のその他の地域のことも重要だ。
例えば佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、十分に古代都市国家の規模を誇っている。纒向が邪馬台国とすると、吉野ヶ里にも相応の国家があったことは言うまでもなく、それが何なのか、と言うことも重要になってくる。逆もしかり。邪馬台国だけが、注目されがちだが、そろそろ全体的な古代日本の勢力地図、社会構造、文化、国際交流なども総合的に見ていく必要があると思える。
いずれにしても、纒向遺跡はまだまだ一部だけが分かっている状態なので、今後の発掘に非常に興味が持たれるところだ。

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