70数年前の夏、その頃私の家族が住んでいた大阪は、東京と同じように大空襲を受けて文字通り一面の焼け野原で、あの御堂筋は北の端から南の端まで見渡せたでしょう。
いや、おそらくもっと先まで。
そんな中でまずやらなければいけない事は、食料を手に入れる事でした。その日も父は大阪の郊外まで行き歩き回った結果、手に入ったのはリュックに一杯のトマトでした。ところが父はその頃、トマトが大嫌いでした。他の何かとどこかで交換できないかと思って、物々交換で手に入れてはきたもののそれもなかなかままならず、歩きつづけてきた疲労と暑さと焦燥感で気力もなくなり、力なく道端に腰を下ろして休みました。
容赦なく照りつける太陽。焼け野原で日陰とて無く、心身共に疲れきってしまった時、背中に何かヒンヤリとした感覚がありました。リュックの中のトマトがつぶれたのでしょう。
どこにも飲み水など無く、どうにも仕方なく大嫌いなトマトで渇きを癒す事にして一つ取り出し、息を止めるような思いでかぶりつきました。今のトマトとはひと味違う、もっと酸味のあるあの昔のトマトです。
その時『こんな美味しい物が在ったのか』と、そう感じた自分に驚きながら思わず二つ三つ食べてしまって、その時からトマトは父の大好物になりました。
この頃、私はまだ生まれておりませんでした。
生活もほんの少し落ち着いてきたそれから何年かあとのやはり夏の夕方、陽のあるうちに早めの風呂に入り、冷やしておいたトマトを井戸から上げて、2人で並んで丸カジリしながら話してくれた父の顔は、決して裕福では無かったけれどなにやら満足そうでした。
そんな時間はまだ幼かった私にも、とても満ち足りたものでした。
父から聞いた、戦争の絡んだ話の中で一番記憶に残っているものです。
(何だか3丁目の夕陽です♪(^^))
今年も終戦の日が来ました。
気が付くと、私の身の周りに戦争体験者がほとんど居なくなりました。一番年歳上の方で、終戦の時にはまだ5〜6歳だったでしょう。
戦争を語り継ぐって、どうする事なのでしょうか。

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