「義務教育なので給食費は払いたくない」
「うちの子が集合写真の真ん中に写っていないのはおかしい」
「子どもを組み体操のピラミッドの一番上にしてくれ」
このような苦情や要求が学校にあったら、あなたならばどう対応するだろう。
単純な答えとしては「それが決まりごとです」とか「法律で決まってます」、「誰がどこという指定はしていません。たまたまそうなったものです。」、「生徒同士で決めたことです」など具体的ケースにもよるがやましいところがなければ事実に基づき即答は難しいものではない。
しかし、苦情や要求をしてくる方はそんなことは百も承知で言ってくるのであるから話はそれでは終わるわけがない。
大抵、話しがその問題自体の本質から脱線して不信感の原初にまで遡っての話に及ぶのが通例である。場合によってはその対応の際の言葉尻をとられることもある。
それゆえ、どう納得してもらうか、納得してくれなければどうするか、こういったノウハウが必要とされるのであるが、基本はいかに信頼関係を構築できるかにあるといっても過言ではない。
県教委はこのほど県教委と東部、西部の教育事務所の県下3か所にこうした苦情や要求への対応の相談に乗れるようにと相談員を配置するとともに弁護士と顧問契約を結んで法的な問題か判断に迷うケースに迅速に対応するようにするという。
時代が変わったといえばそれまでだが、政治的な問題には沈黙しても個人の問題ではもの言う人は今後増加することはあっても減少することはないだろう。
しかも日本はミャンマーの軍事政権のように武力で言論を封殺することはできない上に、本来なら公共の道徳観を啓蒙するはずの政治・行政への信頼感は税金の無駄遣いや無責任な答弁を繰り返される中で説得力を失い、最終的には政治家の流行の答弁のように法律的に問題があるかないかの矮小化した議論に集約されてしまいがちだ。
では、冒頭の苦情や要求が法的に問題があるかといえば、「ない」のである。
もちろん払わないことは法的に処理が可能であるが、「払いたくない」というのは言論・表現に過ぎないからだ。
「一番上にしてくれ」、これとて言論・表現に過ぎない。
言論には言論で対抗するしかないが、行政の信頼性低下に加え、前提となる価値観が多様化していて決定打がない。しかも公務上の行為に対する批判に関しては判例も公務員に厳しい。
http://www2.ocn.ne.jp/~sizuoka1/kijyun.html#6
個人レベルの対応には限界があろう。
そういう意味では今回の県教委の対応は十分とはいえないが一歩である。
結局、我々がこれまで前提としてきた話し合えば分かり合えるという信念、正しい答えは一つでありそこに同調すべきという思い込み、こういった前提は捨て去る時が来ているのかもしれない。
テロ支援の問題での与野党の平行線も然り。
静岡空港の土地収用問題然り。
最後は法律・ルールに則り決着するしかない。しかも納得の上ではなしに。同時に、それによって解決できないものは永遠に平行線を辿ることも覚悟しなければならない。
何とも厳しい時代である。