第2回 遣隋・遣唐使船
この船の話をする前に言わなければならない事がある。
実のところ、遣隋・遣唐使船はハッキリしたものは解っていない。日本史至上、もっとも有名な船であるが、和船という分野では、逸脱した存在ともいえる。
それは何故か?
もっとも大きい理由は、後世に、この船の技術が持ち越されていないことにある。
和船の初めは、刳り抜き船に始まり、木と木を継ぎ合わせる準構造船に以降していくのだが、平安・鎌倉時代でも準構造船の基本構造が続く、つまり、刳り抜き船の進化から逸脱していない。しかし、遣隋・遣唐使船に関しては、完全な木を加工した高度な技術を要する構造船が、日本の造船史に突然現れた形になるのだ。

゛聖徳太子絵伝゛をベースに描かれた遣隋・遣唐使船

゛吉備真備入唐絵詞゛をベースに描かれた遣隋・遣唐使船
2つの絵は、遣唐使の様子などが描いてある絵巻物、゛吉備大臣入唐絵詞゛や゛聖徳太子絵伝゛などの船の形がある程度描いてある資料と中国の泉州で出土した12世紀頃の中国の宋代の船を断片的に照らし合わせて、想像するとこのような船になると言われている。しかし、これら資料も10世紀から12世紀ぐらいのもので、当時に中国から来ていた貿易船がモデルだという話なので、想像の域を出ない。
大きさは、全長24メートル・幅8.8メートル・満載排水量は約300t・積貨載重量約160tで、竜骨に12個の隔壁を配して、V字型の船底で航洋性を有しており、ジャンクという、中国古来の帆船形式で明の時代には、中国の鄭和が、宋の時代より発展した航洋型ジャンクで遠征航海に使用したと言われており、渡来人の高度な造船技術が多く使用していたと推測され、帆は竹で編んで作った網代帆というもので、これもジャンク船の特徴に似ているので、基本的に宋の時代の航洋型ジャンクを元にしている。
しかし、いくら航洋性が高いと言っても、当時の航海術はお粗末なもので、特に朝鮮半島情勢が荒れ、朝鮮半島を陸伝いに使うルートが使えなくなり、南シナ海を使い、直接、海から中国を目指さないといけない南路になると遣唐使が、船出をしたのは台風シーズンの夏期が多く、出発地が灘波で快晴であれば、出港をしていたことが容易に想像出来る。そのため、南路を使った後期遣唐使は難破が多く、命がけの航海になった。
このように和船とは言い難い船ではあるが、飛鳥時代から平安時代にかけて我が国に大陸の文化・法や制度などを取り入れ、律令国家として礎を築いた事において、和船史というよりも日本史至上、もっとも重要な船といえる。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之

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