第18回 弁才船の構造T
今回からは、数回に渡って、弁才船の構造のお話をしたいと思います。弁才船は有名な船と言っても特別な船ではなく、室町時代頃から登場した大板構造の延長線上でしかない。

この図は
http://navy.ap.teacup.com/kanzo/7.html→第4回の時に説明した準構造船から室町時代の大板構造の構造船の最終形態となるが、実は弁才船は、オール帆走船にも関わらず、これら当時の形態を世襲している所が多い。

作図 石井謙治氏
縦断面図
これが弁才船の構造になります。弁才船は一般的に日本型または、大和型荷船と呼ばれ、室町時代の大板構造船も、基本的に瀬戸内を中心に始まり、弁才船の登場も瀬戸内なので、純粋な発展系の船になると思われるが、当初はこれと言って、大板構造の船との違いはなかったのだが、近世後期になると中棚の幅が広くなり、耐航性を上げるために根棚を短くして盛り上がらせ、全体的に航や棚板を厚くし、当初は根棚/中棚/上棚の三階造りだったのが、上棚の上に゛はぎつけ゛を設けて四階造りにすることで、耐航性と積載量の増大という発展を遂げている。つまり、四階造りになって、ようやく千石船という名に相応しい大型船に発展したことになる。

作図 石井謙治氏
横断面図
弁才船は、西洋帆船のような角材の竜骨を中心に多数の肋骨、つまり人間の背骨と肋骨と同じような関係の造り方をするが、和船の竜骨は平板の航(かわら)中心に根棚/中棚/上棚の順に幅広い板を組み合わせ、縦方向の力はこれで対応し、横方向は両舷の外板(根棚/中棚/上棚)に渡した数本の太い梁(はり)で構成されており、梁は船体にふくらみを持たせるようになっていて、簡素な造りながら、強度は高かった。そして、何よりも構造が単純なために製作が容易だったことが普及に拍車をかけている。つまり、生産性に優れてこともポイントであったと考えられる。
弁才船のウィークポイント
これだけ良く出来た弁才船だが、唯一のウィークポイントがあった、それは水密甲板のないということで、たしかに前方には合羽(かっぱ)、後部には矢倉板という屋根板を重ねた作業甲板になっていたが、荷物の積み下ろしをする船体の中央部は揚げ板式の甲板になっていた、荒天の時はそこから水が入り浸水してしまう欠点を持っていた。確かに゛スッポン゛と言われる水鉄砲式の排水ポンプは搭載しているものの、そんなものは焼け石に水だった。しかし、弁才船は本来、瀬戸内生まれの内海船で、荒天の時は、入り江に逃げ込むことが常道なので、必要という考えがなかっただろうし、鎖国をしてるのだから、外海に出ることは見無に等しい、それよりも積み下ろしが、楽な揚げ板式甲板のほうを好んだのだろう。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之
法政大学出版局 ものと人間の文化史 76-T/U
和船T/U
著者 石井 謙治
次回 4月15日 弁才船の構造Uをやる予定です。

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