第35回 咸臨丸
12月、1月、2月、いろいろあって、どど〜んと遅れてしまった事を深くお詫びします。今年、初の゛和船の誘い゛は咸臨丸です。

太平洋を行く咸臨丸
幕府がオランダに発注した本格的蒸気軍艦
黒船来航という日本史上最大の危機の中、鳳凰丸や昇平丸などの独自の洋式軍艦の建造、観光丸による幕府海軍の船員の育成、そして、本格的国防の強化を目的にオランダから最新鋭の蒸気軍艦の購入に踏み切った。その中の一隻が咸臨丸である。
元々、咸臨丸は練習艦としての建造は決まっていたのだが、クリミヤ戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89の影響から、(オランダは局外中立の立場から自国の兵器の売買を禁じた)、クリミヤ戦争終結の1856年(安政3年)1月に建造が始まり、完成は1857年(安政4年)2月に完成し、同年の8月4日に長崎にて、幕府側に引き渡されました。その他にも、朝陽丸、電流丸という同系艦があり、れらも日本側に翌年引き渡され、朝陽丸も幕府の練習艦として、電流丸は佐賀藩の軍艦として就役しました。
咸臨丸の活躍
安政5年(1852)6月19日にアメリカとの間に日米修好条約が締結し、この条約の批准書を締結するためにワシントンに特使を送ることになりました。当初は前回紹介した観光丸で行くことになっていましたが、外輪船では冬の太平洋横断は困難であるとクレームが付き、比較的新造船の朝陽丸の使用を検討していましたが、練習航海のために長崎へ出港しており、たまたま長崎から横浜に戻っていた咸臨丸が選ばれました。勝海舟や小栗上野介、福沢諭吉等を乗せ、見事、太平洋を横断し、帰りはハワイに立ち寄り帰国しました。このエピソードはあまりにも有名ですが、他にも咸臨丸は様々な活躍をしております。
小笠原諸島の領有権確保がそうで、当時はまだ、小笠原諸島はどこの国も領有権をもって無く、イギリスの世界地図にはイギリス領になっていました。また、黒船来航の際にペリーは、交渉決裂の時は、石炭の補給基地とする計画まであったこと知りました。そのため当時の幕府の外国奉行の水野忠徳は小笠原諸島の測量と領有権確保を目的に咸臨丸を派遣、文久元年(1862)12月3日に品川を出港しました。途中、八丈島で開拓民を乗せる予定でしたが悪天候で港に入港できず断念し、その間々、小笠原諸島゛父島゛の二見港に入港し、日章旗を立て、小笠原諸島を日本固有の領土と宣言しました。そして、母島を半月間を通して調査と測量活動を行い、途中、木造輸送帆船の千秋丸が悪天候のために出港できず、食料、物資が欠乏し、蒸気機関が故障するというアクシデントもありましたが、文久2年(1862)6月に、咸臨丸による小笠原諸島の調査、測量結果を英・米に説明、両国から問題点の指摘されず、同年10月にフランス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ポルトガルに領有権を通告し、小笠原諸島は日本固有の領土になりました。また、ロシア軍艦対馬占拠事件 文久元年2月3日(1861年3月14日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6 の時も小栗上野介を対馬に派遣する任務も行いました。
その他にも横浜港の警備や幕府海軍士官の育成にも使用されてました。

太平洋横断時の咸臨丸断面図
布団があったり、釜戸があったり、日本人の生活の匂いがする船内。
泣かされる蒸気機関
こうして、幕末期にあらゆる事柄に関わった咸臨丸ですが、この船には、最大のウィークポイントがありました。それは蒸気機関の故障が多いことで、小笠原諸島への領有権のため調査の時もロシア軍艦対馬占拠事件の時も故障していて、慶応2年(1866)には、蒸気機関の故障が多くなり、ついに機関を陸上げをしました。実は蒸気機関自体は修理可能だったのですが、幕府の財政難から修理を断念、それ以来、二度と咸臨丸に蒸気機関が搭載されることはありませんでした。
洋式帆船 咸臨丸
蒸気機関が無くなり、幕府海軍の搬送輸送船になりました。戊辰戦争では、慶応4年(1868)8月19日に幕府海軍副総裁榎本釜次郎(のちの武揚)に引き入れられ、北海道開拓使(函館)に向けて脱走しましたが、咸臨丸は座礁や房総沖の暴風に会い、船団と離れてしまい旧幕臣の理解があると思われる静岡県の清水港へ逃げていましたが、明治元年(1869)9月18日、明治新政府軍の軍艦3隻の攻撃を受け、多数の死傷者を出し拿捕されてしまいました。その後は北海道開拓使への輸送船として使用され、明治4年(1871)9月20日函館から小樽に向かう途中、函館の南西20qの泉沢村(木古内町字泉沢)のザラキ岬の暗礁に乗り上げ、村の人々の救難活動で乗組員は無事でしたが、船は浸水して25日海中に没しました。完成から14年、こうして激動の幕末を駆け抜けた咸臨丸の歴史は幕を閉じました。
参考文献
(財)日本海事科学振興財団
船の科学館 資料ガイド7 咸臨丸
次回は3月の下旬予定です。

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