第16回 御朱印船
15世紀中頃から17世紀中頃まで、西洋では。大航海時代という時代があった。コロンブスが新大陸を発見し、バスコ・ダ・ガマがインドまでの航路を開拓し、マゼランが世界一周を成し遂げ、この事により、イスパニア(スペイン)、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの欧州の海洋国家が、東南アジアの交易を有利に進めるために凌ぎを削っていた。その中に日本も巻き込まれる形になり、たった32年間という短い期間だったが、日本人も大海原に夢と希望を伸せて、東南アジアへ飛び出す時期がこの頃である。

日本前型(ミスツィス型)御朱印船 荒木船
荒木宗太郎は、自ら、船に乗って、東南アジアで商売をした大商人で、当時の安南(現ベトナム)の王族の娘を嫁に娶ったというスケールの大きな人物で、この彼が乗っていたのが、この荒木船ということになっている。船の特徴は、中国のジャンク船の形式を基本に、ガレオンのような装飾をしていることが特徴で、この形式が、日本前型と言われる朱印船の基本形とも言える。

朱印船の特徴 1
この船の特徴の一つに広い四角い船首にあり、この船首の部分の四角い立方体に櫓棚があり、そこから櫓を出して、港湾内では漕いでいた考えられてます。しかし、後にも先にも前方に櫓棚があるのは、このタイプの船しかなく、ある意味奇妙な造りとも言える。

朱印船の特徴 2
白い喫水線の上部に三角形の排水口があり、これが船体構造がジャンク式という証拠になっていて、これは他の日本前型朱印船にも見られる。

荒木船の特徴 1
船体の横の中央部分より、やや前方にある正方体の四角い構造物は、トイレではないかという話で、荒木船の特徴になってる。


荒木船の特徴 2
荒木船は、船尾の旗にオランダの東インド会社のマークを逆さにしたものを掲げており、これは航海中に外国船に襲われないようにするための手段と言われている。

日本前型(ミスツィス型)御朱印船 末次船
こちらは、代官にまでなり、長崎の商人を取り纏めたと言われる貿易商の末次平左衛門が所有したと言われる船で、やはり荒木船と似たような造りをしているが、船体下部の三角形の排水口の数が荒木船では、18個に対し、22個もあり、かなりの大型船だったと予想される。

末次船の特徴
末次船の大きな特徴は、後檣が三角帆(ラテンセール)になっていることで、これは荒木船を含む、他の日本前型の朱印船は、帆が四角いので、最大の特徴となっている。これは絵馬の絵師がガレオンと間違って描いたのか?、それとも造船に加わった船大工が、ガレオン船を意識したのか、ハッキリしたことは判っていない。

慶長期にジャンクと共に朱印交易船として使用されたシャム(タイ)船
朱印船貿易は、徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)で勝利をしたあと、日本に漂着し、外交顧問になったウィリアム・アダムス(三浦安針)の意見を得て、幕府発行による朱印状を持つ船のみ、海外貿易が許されたということで、海外貿易で利益を上げたいが、キリスト教(主にカトリック)を利用した日本側から見れば、言わば゛植民地化(信者が教会に土地を寄進してしまう行為など・・・・。)゛を防ぐという理由からスタートしている。実のところ、朱印状自体は1592年の豊臣政権時代に発行されているという話だが資料が少なく、基本的に1604年の徳川幕府の朱印船制度の実地が始まりというのが定説になっているみたいです。
当初、日本には外洋航海に耐えられる船は見無に等しく、慶長期(1596年〜1615年)の頃は、様々な国々の船、例えば中国のジャンクや上の写真のようなシャム(現タイ)船などを購入して交易を行なっていたみたいで、様々な船が利用されていて、中には、ガレオン船を所有している商人もいたと推測もされている。
しかし、寛永期(1624年〜1644年)になると、日本で独自に日本前型の朱印船を建造されるようになり、基本的には、ジャンクとガレオンを掛け合わせた感じの船で、別名゛ミスツィス造り(スペイン・ポルトガル語で合いの子という意)゛と呼ばれる船が主軸を担うようになった。これらの船は、長崎で建造されたと考えられており、ジャンクやシャム船よりもガレオン船の構造に近くなっており、西洋型帆船も建造可能な高い技術力を持っていた考えられています。

朱印船の活動範囲
朱印船の活動範囲は、ほとんど東南アジア全域で行なわれました。主な輸入品目は中国からは生糸や絹、東南アジアなどは鮫皮・鹿皮・砂糖などで、日本からは銀・銅・銅銭・硫黄・刀などが海外へ輸出されました。そして、日本人は東南アジアの国々の各地に広がり日本人町が築かれました。もちろん従来の船とは違い、外洋に出て航海するのですから、今までの地乗り航法による航海術は通用しないので、天文航法で航行するため大半が、外国人航海士が乗り運行されていました。もちろん、イスパニア(スペイン)・ポルトガルといった国々は、太平洋の貿易を独占したい理由から、日本人に天文航法を教えたくないというのもありましたが、『元和航海書』という本を池田好運という日本人航海士が著書しているので、日本人航海士も少数ながら存在していました。
国家の陰謀で消えた朱印船貿易
当時、東南アジアで交易の力を持っていたのは、オランダだった。そして、オランダにとって最大のライバルが日本の朱印船であり、東南アジア貿易の主導権を握るには、日本の輸出品目の゛銀゛を独占することだった。オランダは、長崎がポルトガルの植民地化されている提言をし、それに幕府が動いたという感じではないかと思われ、1633年に幕府は老中の奉書を持った船以外の海外渡航に禁止令を出し、段階を踏んで、1635年に日本人の海外渡航と帰国が禁止された。これによって、朱印船は海外で貿易を行なうことが不可能になり、1939年には、布教と植民地化の問題から、ポルトガル人を日本から追放し、ポルトガル人を囲い込むために造った長崎の出島には、オランダ人が住み込み、1641年に平戸からオランダ東インド会社の商館を移り、また、同じ平戸にあったイギリスは、日本に入り込んだのが遅いこともあって、ウィリアム・アダムス(三浦安針)が全面的にバックアップしたものの経営不振から閉鎖になり、このような流れのなか、オランダが、唯一、正式に日本と交易を行なえる国家になった。こうして幕府は出島貿易により、利益を独占し、オランダは、日本の゛銀゛を手中に収めることで、東南アジアの貿易を独占することに成功し、その後、約300年にわたり、鎖国が続くことになるのである。ただし、中国・朝鮮とは非公式あるが、交易をしていたし、薩摩は琉球貿易という形で、密かに利益を上げていた。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之
予告 2月27日に弁才船にいよいよ入る予定です。

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