第10回 日本丸
゛日本丸゛、この言葉を聞くと、誰もが、航海訓練所の練習帆船の日本丸を思い浮かべるが、今回はそうではなく、大安宅船の『日本丸』を紹介しようと思います。

『肥前名護屋城図屏風』に描かれた大安宅船
2隻の日本丸
日本丸には、あらゆる資料に毛利氏と九鬼氏の日本丸が書かれている。毛利氏の日本丸は、毛利氏の記録である『玉傍題』で出てくる話で、安穂丸として建造された船が、肥前名護屋城に回航したときに、豊臣秀吉が、その船の素晴らしさに感動して゛日本丸゛と改名したという事になっている、また、『武辺剛臆物語』という書物には、宮武丸という名前から改名したという話があり、船の大きさ自体も、石井謙治先生の『和船U』に現代縮尺に書かれていた大きさだと長さ138m、幅79m・・・・。
前に全長でイージス艦150mと述べたが、この船に関しては、『和船U』の本の中で、石井先生が幅を、旧日本帝国海軍の戦艦大和の幅を゛毛利の日本丸゛の幅と照らし合わせて比較しており、それによると大和の全幅は39mとして考えていて、幅がいかにデカイを表現して、いかに大きいかを比較していた。それではと言う事で、うちは現在世界最強にして最高の軍艦、米海軍の原子力航空母艦ニミッツ級の幅を比べてみると艦でもっとも大きい飛行甲板の最大幅までやると76.8m、なんと゛原子力航空母艦より幅広゛ジェット機が飛べるようにアスファルト加工でもすれば、トム猫(F-14 トムキャット)でも飛ばせるのですか?と突っ込みを入れたくなるほど、さすがに石井先生も荒唐無稽とバッサリ切られてる。
しかし、『玉傍題』に記載されているところから、江戸時代の幕末に編纂された『通覧一覧』には、2隻の日本丸の存在は認められている。
そこで、毛利の日本丸は説明したが、もう一隻の九鬼の日本丸はどういうものだろうか?

『肥前名護屋城図屏風』のベースに描かれた大安宅船
(実は九鬼の日本丸ではないかと想像されている。)
九鬼の日本丸も、同じような歴史の中で鬼宿丸という船だったが、またまた秀吉によって、日本丸に改名されている。
九鬼の日本丸も石井先生の『和船U』の中で、現代縮尺で表して下さっている。九鬼家の書物の『志州島羽船寸法』の中では、 航(かわら)の長さ[和船の誘い Vol4の和船の構造Wを参照して頂けると理解できると思うが、船底部の航(かわら)の長さが全長になっている。
http://navy.ap.teacup.com/kanzo/7.html?rev=1
それだと、航(かわら)の長さ(全長)25.2m/幅9.5m/深さ3.03mと思ったより小柄な安宅船が想像される。しかも、この資料は加藤清正・黒田清隆・九鬼守隆などの大名の軍船、26隻のデータが収まっている、造船史では、もっとも貴重な資料といえる。
毛利の日本丸に比べ、荒唐無稽な大きさでもなく、言い換えの話も安穂丸や宮武丸というような複数の船名がないと言う点では、かなり信用出来る話と考えられます。
実は日本丸に関しては、あらゆる書物で、朝鮮戦役後の行く末も書いてあり、九鬼義隆の後の領主の内藤伊賀守が大竜丸という名で500石積・櫓60丁の改修していたが、朽ちて解体したとか、藤堂高虎が徳川家康に下賜された船が日本丸で、それを伊勢丸と改められ、その後、数回の航海をして解体保存されたとか、『日本海運図史』や『甲子夜話』など書かれているが、どれも資料批判に耐えられる程の確証が得られない。
書かれている資料は多いのだが、これほどわからない船も珍しい。上の絵は日本丸の想像図であるが、『志州島羽船寸法』や『釜山船柵図』の日本丸の矢倉の形など、安宅船してはイビツなデザインだという話で、結局のところ石井先生も想像として、元禄元年(1688年)に描かれた『肥前名護屋城図屏風』の大安宅船が、もっとも近いのではないかと苦汁の判断の結果とも言えなくもない。しかし、私個人も城をその間々浮かべた感もある、このシルエットは、やはり日本の安宅船は゛城の延長線上゛なのかと感じずに終えないものとも言える。

朝鮮出兵時の李氏朝鮮側の軍船 亀甲船
大砲の数が海戦を有利にした。
上の絵は、秀吉の朝鮮出兵を語る上、日本側の安宅船のライバルに当たる亀甲船というものである。亀甲船は、全長20m/幅3m70p/高さ40m94pで、船の全方位に大小74門の大砲を搭載していたと言われている。しかし、亀甲船に関しては、あまり詳しいことも判っていないのは、事実で全てを信じることは出来ないが、朝鮮出兵の日本側の敗北の原因は予想は出来る。
なぜなら、中世の世界の海戦において、大砲の有・無がとても重要で、例えば、レパントの海戦(1571年)の時は、トルコのオスマン帝国海軍に対して、ヨーロッパ連合軍は、ガレアス船というガレー船を大型化した砲艦らしきものを出して海戦に勝利し、イギリス・オランダの連合軍もスペインの無敵艦隊に対して、アルマダの海戦(1588年)では、両軍に置いて大砲の性能、数、運用法が海戦の雌雄を決する需要なファクターの一つになっている。
当時、朝鮮には、味方につけた中国(明)からの情報もあり多数の青銅製、鉄製の大砲を保有するに至っている。陸上戦では、多少運用に難がある大砲だが、海戦は船が主軸だし、船上に大砲を搭載するのだから、船を破壊するのにこれほど威力がある兵器はないはず、日本側の大砲を搭載していたことはいろんな書物で見られるらしいが、2、3門搭載したからといって、亀甲船に対応出来るものではない、安宅船の横の扉から、一門大砲を出し、相手に向けたところで、相手の亀甲船は、5、6門の大砲が狙っているわけだから、相手の船に乗り移ることで沈める戦術をやるには、自己の船の相手並の砲戦や防御能力が必要であり、相手の船に乗り移る前に自分の船が沈んでるわけで、安宅船は、その点では、とてもお粗末だったと思われる。また、最近の研究では、亀甲船の数も少ないかったのではないかという研究もでていることから、朝鮮側の方が海戦に関しては、亀甲船をうまく運用していた点で、一枚も二枚も上手だったと認めざる負えない。
このような水軍力で海上封鎖を行い、現地に物資の届かない状況は、秀吉軍の敗北に繫がって行く、海を甘く見た秀吉軍の完敗に朝鮮出兵は終わっている。その後、安宅船は、天下泰平の徳川の世になり、安宅船は大船建造禁止令に則り、消えていき、そして、日本の軍船は、長く戦うこと無くなり、明治を迎えるのである。また、朝鮮出兵の代償も大きく、徳川幕府は、戦後、朝鮮通信使に多額の接待費を払うことにもなった。
また、゛三つ子の魂百までも・・・・。゛というわけでもないが、今日の朝鮮半島との外交でも゛負の遺産゛として、この朝鮮出兵の事も言われることが多い、まったく持って、豊臣秀吉という人物は、罪深き困った人物であるとしか、言いようがない。
最後に・・・・。
今回の『和船の誘い』は、9月17日に公開予定でしたが、9月17日の午後に光通信のサーバー故障が発生し、インターネットと光電話がブラックアウトしました。翌日18日にNTT東日本の業者が修理に入りましたが、修理に半日以上掛かり、今回の原稿も亀甲船の部分の文章が゛パァー゛になってました。
そのために遅れました。
もうしわけありませんでした。 m(_ _)m
谷井成章 拝
次回は10月7日ごろ、予定しています。

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