第28回 北前船とは・・・。
11月も下旬に入り、随分、冷え込んできました。ここ2週間程、風邪をひいて、悲惨でした。皆さんも風邪には、気をつけて下さいね。本日は北前船の定義というのを話したいと思います。
北前商人って、何?
゛北前船゛、歴史に興味ある人なら、誰もが、一度は耳にした事があるフレーズだし、店の看板や日本海側をイメージするという人もいるだろう。しかし、基本的に北前船という船は、和船史には登場しない。和船史で言うと北前船というより、北前商人という話が意識されることが多い、そこで石井謙治先生が、北前商人の3つの定義というのを出している。この3つとは、上げると・・・。
1)日本海地域の船主である。
2)経営は運賃積みよりも買積みを主体とする。
3)船型は特定せず、旧形式の北国船から西洋型帆船までを含む。
この3項目に当たるものが、北前商人と言われている。この考えは、北前船研究の第一人者、牧野隆信先生の『北前船』という本にある定義で、石井先生もこの定義を指示している。
実は北前商人ではない高田屋嘉兵衛
高田屋嘉兵衛と言えば、北前商人の代表的人物だと思われるが、それは違う。AとBが当てはまったとしても、@の定義だけは当てはまらない。
高田屋嘉兵衛は、摂津兵庫(現 大坂や神戸のある地域)に籍を置く上方廻船の船主ということになっているので日本海側ではなく、瀬戸内の船主ということになり、この辺で、決定的に北前商人ということは否定できる。

日本海を航行する辰悦丸
高田屋嘉兵衛と言えば、辰悦丸だが、これにも問題はある。
北前船は買積みである。買積みとは、船主が物を購入して港から港で商売することになっている。つまり、太平洋側のような問屋が組織的に商売するような株仲間制度が無く、商品をA港からB港に運送するだけの運賃積みは出来ない。あくまでも、個人商店であるのが北前商人であり、加賀藩などの日本海側の領主米や幕府の御城米の運送は、特例はある見たいだが、ほとんどはやらず、瀬戸内や九州の廻船問屋が輸送を行い、このような船を゛北廻り地船゛と言って、あきらかに区別している。
船を選ばない北前船
牧野隆信先生の定義で考えれば、゛日本海側に拠点を置き、買積みで商売をしていれば゛、北前商人といえるわけで、船にこだわりがない。乱暴に言ってしまえば、上記の゛ ゛の条件さえ通れば・・・。

北国船も・・・。

ガレオン船みたいな、洋式帆船も・・・。
北前船と言えるのである。しかし、弁才船の日本海側の登場は、江戸時代中期頃の17世紀末期で、そこから独自に発展を遂げ、18世紀中期あたりから、日本海側で運用するために独自に発展した弁才船が登場した。

上の絵が、その名も、゛北前型弁才船゛と言い、これを北前船と提唱する研究者も出てきている。しかし、登場の面から言えば、商売方法が重点になっていることで北国船も北前船と言っても間違いはないと私は思っている。それは、明治になって、鉄道輸送が主役になった太平洋側と違い、大正ぐらいまで日本海側の流通の主軸は、北前商人達の船舶が流通の主役だったわけで、歴史の長いだけ船の発達を直に受けるのだから、一つの船の型だけで゛北前船゛決めるのは、難しいと思いますし、゛北前゛という言葉自体、上方の大坂や江戸の商人が日本海側を蔑視する意味合いも強く、今日で言う、゛裏日本゛という言い方見たいなもので、決してカッコイイものではないということも述べとかないといけない事だろうと思います。
こうして、今回は北前船の関連をしましたが、来月は北前型弁才船をクローズアップしたいと思います。
参考文献
法政大学出版局 ものと人間の文化史 76-U
和船U
著者 石井 謙治
次回は12月下旬頃予定です。よろしくお願いします。

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