第13回 天地丸
前回、戦国時代の軍船である関船が、藩の象徴としての船である御座船に変化していったとお話をしましたが、それは藩に限ったことではない。同様に徳川幕府も関船は幕府を象徴する絢爛豪華な、御座船にとって変わった。その御座船こそ、天地丸である。

幕府御座船 天地丸 (船の科学館 所蔵)
ハッキリしない建造年日
本船は、寛永7年(1630年)6月25日に三代将軍徳川家光が江戸湾に試乗して、御船手の向井将監父子に褒美を上げたということが、書物に天地丸が文字として登場してくる最初で、この船がいつ建造されたのかは、後船手の記録である゛惣御船数並寸法書゛(江戸時代中期)や゛通航一覧゛という江戸の船を記したものでも、この船が゛ある゛というだけで建造年、日時もハッキリしない。ただし、正徳元年(1711年)、宝暦九年(1759年)、寛政九年(1759年)、弘化四年(1847年)と四回の修理・補修が確認されている。
天地丸の他の御座船にない特徴
天地丸の大きさは、上口長さ(全長)28.2m、肩幅「筒関幅」(全幅)およそ7.1mと推測され、また、当時の軍船の大きさは櫓の数で測られることから、戦国時代の関船の平均が40挺立前後に対して、本船が76挺立と関船では大型の部類になる。また、この船が他の藩の御座船との大きな違いは船体の深さにあり、普通は2.3mぐらいの船体の深さが平均であるが、およそ1.9mと極端に船体の浅いつくりになっている。これは隅田川べりの船蔵に収納することを考えて作られたと推測され、゛通航一覧゛に書かれている豊臣家からの戦利品説を否定するには、充分な要素と考えられる。
船体の特徴としては、船頭の水押の継ぎ目のあたりに馬乗立があり、他の関船に多く見られる船体後部の艣矢倉がなく、大型の関船にしては、これらは子早や小型の関船など速力重視の傾向にも見えるが、艣矢倉が無い分、後方の視界が開けるので戦闘というより遊覧という意味合いにも取れる。

作画 石井謙治先生
もう一つは船体の垣立が前部と後部が違っており、前部垣立下部に足隠し板というのがある境井流系(上の図参照)、後部垣立下部は多数の細い筋(縦通材)を使用する唐津流系が使用されていて、1つの船に2つの流系を使用するのも稀で、普通は足隠し板に装飾が付けやすい境井流系(上の図参照)に統一するのが、諸藩の御座船の普通だといえ、また、現存する写真や模型、資料などを見ると船体は絢爛豪華な装飾品に飾られ、朱色に塗られているが、4度の改修が行われてるところから、当初は白木だったことも考えられる。
内装に関しては資料は無いが、前回に紹介した九州諸藩の御座船(
http://navy.ap.teacup.com/kanzo/24.htmlを参照)が、黒漆塗りの格天井、朱漆塗りの柱や敷居・鴨居、四季折々の草花や鳥など描かれている壁や襖、城内の屋敷の中のような装飾がしてあり、天地丸に関しては、江戸幕府将軍の船なので、これ以上の豪華な装飾がされていることは容易に想像出来る。

幕末期から明治期に撮影された隅田川の岸辺に陸揚げしてある天地丸
(船の科学館 特別展御座船 −豪華・絢爛大名の船−より抜粋)
普通、このような御座船の耐用年数は20年と言われている。しかし、天地丸に関しては、223年間も補修を何度か受けながら、隅田川に常駐していた。
それは徳川の世の約300年間、軍船を必要としなかったことであり、もちろん軍船としての発展はなく、嘉永6年(1852年)に黒船が来航した時には、外国の海軍力に立ち向かえるべきものでなかったのは、周知の事実であろう、もちろん外国船の来航に対して、幕府もこの時から、近代海軍の創設に奔走する。そして、遥か、戦国時代から続いた日本の古来から続く関船という系統は、ひっそりっと、隅田川の河辺で解体という形で潰えるのである。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之
船の科学館 特別展御座船 −豪華・絢爛大名の船−
次回予告 12月18日 サン・ファン・パブティスタをやります。

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