前書き
和船への誘い
うちの親父は、長年、元日本海事史学会の石井謙治先生の下でライフワークとして仕事をしてきました。和船の研究と言うのは、戦後になってから行なわれたと言っても良いです。しかし、ごく一部の本や博物館を除いては、゛本当に和船の事を理解しているのか?゛という問題があります。
良く明治時代に西洋のものが全て良いという考え方から和船というのが、兎角、劣っている、役に立たないというレッテルを貼られることが多いのですが、それは日本の国土、歴史の体制、経済の成り立ちなどの他に自然の動きに逆らわず発展して行く事によって、あらゆる事が交わっていることに影響しています。
私の考えでは、日本は、イギリスを例に挙げてみると同じ島国なのに船の必要の方向性がおのずと違ってきます、日本の場合は、人々が新天地を求めて国の外へ出ることはほとんどない、その理由としては、肥沃な土地で、イギリスから比べると貧しい人でも天変地異がない限り、比較的食べ物に有り付けたと考えられます。
だからといって、船が必要ないという訳はない。
例えば、イギリスは肥沃な土地とは言えず、食料確保にも苦労があり、国外を出て゛新しい土地を見つけ、生きる゛ために船が必要だったが、日本では、大きく理由が違って、船は運搬の手段として、多くの荷物を一度に運ぶことが出来る道具としての意味合いが強い。ここに外国(特にヨーロッパ)と日本の船の発展の大きな違いがある。
イギリスを含むヨーロッパは、新天地を開拓するために、自然と外洋航海に強い船に技術が発展していった。しかしながら、日本は外に出る事がないので、沿岸の地乗り航法をするために内洋航海に便利な船に技術発展があった。
そういう意味で、外国(特にヨーロッパ)と日本との船の使い方は大きく違う。つまり、外洋に出ない日本人が、海と共に生きるという゛海洋民族゛という言葉には無理がある、しかし、日本の船の発展が゛無い゛という事ではなく、逆に1枚帆で走る弁才船は、当時の黒船の乗組員が驚いたくらいで、そういう意味で、和船は違うベクトルで発展したこと明らかで、その点では、卑下する意味はないのである。
つまり、幕末まで和船に関しては外国の影響をあまり受けず、独特の発展をしたのは、明らかで、それは遣唐使船やサン・ファン・パブティスタなどの外洋に強い外国船の技術が入ってきているにも関わらず、その技術が根付かなかったという点でも面白い。
技術を理解出来なかった理由ではない、゛必要゛がなかったというのが大きい。だから、幕末になると和船とは外れるが、君沢型スクーナーなどの゛洋式帆船゛の生産も行なわれているのを見れば、明らかとも言える。
例を出すとキリがないほど誤解も多い。そこでここでは、石井謙治先生の文献を基本に自分なりに、和船の簡単な構造と和船を取り巻く歴史的背景を自分なりの解釈で解説して、日本人の現在に繫がる巧みとか、独自の文化などに迫ってみたいと思います。
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate3/archive?rev=1
戦史の群像
今まで親父の描いてきた第二次世界大戦の兵器イラストが中心です。兵器の解説・兵器の使用されたシチュレーションなどを自分なり分析して、当時の状態を展開するコーナーです。
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate4/archive
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イラストの載っている著書を紹介。
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate6/archive
最後に・・・。
面白いテーマがありましたら、掲示版にお知らせ下さい。今後の歴史研究に参考として繁栄させたいと思います。
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