『爆笑問題のニッポンの教養 検索エンジンは脳の夢を見る 連想情報学』
太田 光・田中 裕二・高野 明彦(著)
2008年
講談社
☆☆☆
NHK教育テレビで放送されている『爆笑問題のニッポンの教養』から生まれた企画本。第30回放送の「検索エンジンは脳の夢を見る」の内容を書籍化したもの。放送は観ていないが、図書館で本書を見かけ、コンピュータ・サイエンス的な興味から読んでみた。
本書の内容は、高野氏率いる研究グループが開発した「連想検索」技術を用いた(Web上で利用できる)書籍検索の話が中心。GoogleやYahoo!、Microsoft等の検索エンジンが膨大なWebページを網羅するものの、検索の原理そのものは比較的単純な(キーワードのあるなしに基づいた)ものであるのに対して、「連想検索」では各文書で出現する単語の相関の高さ(ベクトルの内積の大きさ?)に基づいて、内容的に関連の高いと思われる情報を引き出してくる。
放送では、彼らの「連想検索」の原理や技術的詳細についてはほとんど立ち入らず、出来上がった書籍検索ページを利用して見せながら、高野氏の問題意識を主に述べていたようだ。私自身は小中学生の頃は理科好きの子供だったのだが、高校辺りから文系方向に大きく偏向していった。今でもたまに理工系の軽い本(新書等)を読んで知的好奇心を満たすことがあるのだが、そんな私が苦手とするのが、工学系の研究者の「技術の進歩=100%善」とする立場だ。私はどんなものにも良い面と悪い面があるのは当然と考えているのだが、工学系研究者の「技術の進歩は善である。仮に弊害があったとしたら、更なる技術の進歩によって克服すれば良い」といった単純バカ的な楽観性にはヘキヘキしてしまう。私が本書を面白く読んだのは、(高野氏が果たして「工学系研究者」なのかどうかはよくわからないが)高野氏が現在のWeb検索に対してかなりネガティブな問題意識を持っているように見えたからだ。
彼の「連想検索」の出発点には、「相互ハイパーリンク構造によって信頼性を保証された、豊かな知の宝庫」になるはずだったWebが、現実には単なる噂話のゴミ溜め、良くて巨大な井戸端会議場にしかなっていないという現実がある。玉石混淆のWebから「玉」を選りすぐってくれているように見える有名検索エンジンも、(悪い意味で)デジタルな原理に基づいて情報を大雑把にピックアップしているに過ぎない。それにも関わらず、「インターネット(とGoogle)さえあれば世界中のありとあらゆる情報が手に入る」と素朴に信じるアホは急速に増えている。皆がGoogleの検索結果だけを鵜呑みにしてしまうような怖さ、インターネット利用が人々の想像力を失わせていくような、そんな事態に一石投じたいようだ。
もう1つ私が好感を持ったのが、高野氏が古書店主(店主に限らないが…)のもつ膨大な知識に敬意を払っている点。彼は東京神田神保町の古書店街を単に「大量の情報が蓄積されている場所」(要するに「本がたくさんある場所」)と評価しているわけではなく、「大量の情報が『関連付けられて』蓄積されている」点を評価している。「インターネットさえあれば神保町は必要ありません」というのではなく、神保町でしか得られない「個々の情報間の関連性に関する知識」の一端を何とかWeb上で利用できるようにできないか、と考えているようだ。
普段コンピュータを全く使わない田中とは対照的に、太田は「連想検索」技術に対して大興奮しているのだが、結局のところ彼は「凄い検索」としか考えていないように見える。そこのところを高野氏がうまくフォローしていて、自分たちの技術の売りが単なる「精度の高い検索」ではないことに話を持っていっている。
高野氏は、単にデータベースの検索結果の精度を高めたいと考えているわけではなく、むしろ個々の利用者の頭の中にある漠然とした関心の広がりを可視化するツールとして「連想検索」の技術を考えているようだ。頭の中に、検索結果という細切れの情報を大量に残したところで意味がない。むしろ、そもそも頭の中に存在していた個々の情報間の(本人も気付いていなかった)関連性に「気づき」をもたらすツールを目指しているようだ。それは彼の「検索しているのだとすれば、あなたの頭の中を検索している。」という言葉にも表われている。
ちなみに、「連想情報学」というのは高野氏の造語。人間の知の仕組みに対する(認知科学や脳科学ではなく)コンピュータ科学からのアプローチを考えていて、こういう用語が生まれたようだ。
本文140ページ程度。

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