『怒らないこと――役立つ初期仏教法話1――』
アルボムッレ スマナサーラ(著)
2006年
サンガ
☆☆☆☆
サンガ新書の「003」。著者の肩書きは「スリランカ初期仏教長老」「スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老」だそうだ。「上座仏教」というのは、(スリランカを含む)南インドや東南アジアに伝わった南伝仏教で、北インドや(日本を含む)東アジアに伝わった北伝仏教とはやや毛色の異なる仏教(「小乗仏教」という言葉は蔑称なので現在は使われないそうだ)。北伝仏教がお釈迦さまの死後に大きく理論展開しているのに対して、南伝仏教は古い仏教(初期仏教)の姿を比較的多く残しているのだそうだ。
著者は、スリランカで生まれ、35歳で来日、以後30年に渡り日本で活動しているお坊さん。薄手の本で、文字も大きく、文章は完全に口語体。百戦錬磨(?)のお坊さんだけあって話も上手い。それほど期待しないで読み始めたのだが、読んでみると意外と面白かった。内容は、現代のストレス社会に生きる読者に向けてお坊さんの語る、仏教的「怒らない生き方」。
…なんて甘いもんじゃない! サッと読める本に仕上がっており、「無常」「因果」「輪廻」というような仏教用語が用いられていないので気付かなかったが、
Wikipediaの「上座部仏教」についての項目や著者の所属する「
日本テーラワーダ仏教協会」のいくつかのページを読んでみてわかった。本書の内容は上座仏教の「教義」そのものなのだ。考えてみれば、本書のサブタイトルは「初期仏教法話」。茶飲み話じゃないのだ。
話の内容は「幸せに暮らしたかったら、何があっても怒らないことだ」ということ。実は、本書の冒頭で示される「怒り」の定義についてよく考えてみると、これは「論理的に真」である。著者の言っていること(と言うか「お釈迦さまの言っていること」なんだろうけど)を僕なりに表現してみるとこうなる。心の状態というものは2種類しかない。濁っているか(乱れているか)、澄んでいるか(乱れていないか)。この濁っている(乱れている)状態を「怒り」と呼び、澄んでいる(乱れていない)状態を「幸福」と呼ぶ。だから、「怒らなければ幸せである」というのは「濁っていなければ澄んでいる(乱れていなければ乱れていない)」ということを言い換えただけであって、「論理的に真」なのだ。
では何故、心が濁ってしまうか(乱れてしまうか)と言えば、ツマラないコダワリ(例えば、「『私』が実体として存在している」という幻想)を捨てられないからだ。「私」というものは、心と身体(それらは常に変化し続けている)の「一瞬一瞬の状態の連なり」につけた単なる名前に過ぎないのに、我々はそれが変わらず存在している実体であるかのように考えてしまう。だから「死ぬのは嫌だ」なんて「バカなこと」を考えてしまう。どんな短い間にだって、現在の「私」は次の瞬間にはもう消え去っており、新しい「私」が生じているというのに。「生きている」間にだって、「私」は無数の生死を繰り返しているのに。
だから、例え殺されそうになっている瞬間でも、澄んだ心のままでいる(怒らない)ことが重要なのだ。「何があっても怒らない」というのはそういうことだ。「私」というものが常に生死を繰り返していることを理解していれば、「殺されてしまう」なんて「些細なこと」にはもう心を乱されずに済む=幸せでいられるのである。そして、それが「理性的に智慧をもって生きる」ということなのである。
こうしてみると、本書は一見、口当たりの良い「リラックス処世術」的な本に見えて、その実ムチャクチャ過激なことを言っている本であることがわかる。やはり宗教者には、これくらいのことを言って貰わなきゃ意味がない。世間の「常識」を覆す、のが宗教の役割なのだから。しかも、それを平易な言葉で述べているのは素晴らしい。こう言われてみると、僕でも悟りを開けそうに思えてくるから不思議だ。実は仏教の奥義って、内容そのものはそれほど難解なものではないのかもしれない。実践できるかどうかは別だけど(笑)。
そもそもお釈迦さまの言葉の前提にあるのは、「生きることは苦しいことである」ということなんだろうと思う(これが「生老病死」?)。で、どうやったらその苦しみから逃れられるかと言えば、どんな瞬間にだって少しずつ老いて病んで死んでいるという事実(これが「無常」?)を理解できれば、「なーんだ、毎日老いて病んで死んでるわけじゃん。それだけのことか」と、生きることをそれほど苦痛に思わなくなる、ということなのだろう(これが「悟り」? 「解脱」?)。生きることも苦痛ではないし、死ぬことも苦痛ではない。生きていても愉しいし、死んでも愉しい。
さて、「なるほどな」とは思ったものの、現代日本社会に生きている僕にとって、本書は「困ったな」という本でもある。何しろ僕自身は「『私』なんてものは幻想である」の正反対、「我思う。故に我あり」=「『私』の存在だけは疑えない」をまさに当然として生きており、「こうすれば生きやすいんじゃないかな」と僕が思いつくようなことは本書の教えと真っ向から対立してしまうのだ。
例えば、僕は「生きづらいのは『自分が何者で、何をすればいいのかわからない』からではないか。だったら、『私=アイデンティティー』を確立する、対人関係の中で自分の役割をしっかり果たす、ということが大事なんじゃないか」と考えているわけだけど(その通りにできているかどうかはもちろん別です)、本書の教えでは「そんな考えは捨てなさい」ということになる。「『自分は一角の人物である』という自負心をもって、それに恥じない行動をとる」「誰も挑戦したことのないようなビッグな事業を成し遂げようとする」なんてことも、本書では「バカな考え」扱いされている。だいたい「私」という幻想を捨てて、かつ「自分に自信をもつ」なんてことが可能なのか?
そこで、仏教の教義はひとまず置いておいて、この本から何を学べるかについて考えてみた。この本で「怒る」ことの何がいけないとされているかと言うと、「怒り」が怒っている本人自身を蝕んでしまい、建設的な発想ができなくなってしまうこと。そして、自分を「被害者」だと思っている人間は驚くほど残酷な行為を平気でとれてしまうこと。お互いに「自分は被害者だ」と思って怒りに任せて行動していれば、容易に果てのない報復合戦に陥ってしまう。これらの問題を「怒らないこと」によって解決できる、というのは当然の話だ。
ただ、僕は逆に、「怒らないこと」によって、本来できたはずのことができなくなってしまうこともあると思う。例えば、「社会的不正義に対する義憤に駆られて、社会変革を志す」なんてことはチットモ悪いことだとは思わない。むしろ「怒り」のポジティブな側面ではないかと思う。ここで怒らず「それを不正義だと思わないように、私の感じ方を変えてしまう」なんてことをしてしまうと、仏教は、支配者・権力者にとって体制維持のために都合の良い宗教、「奴隷の宗教」として利用されてしまうし、庶民にとっても「何もしない」ことに対する(崇高な)言い訳に成り下がってしまう。この辺りは、上座仏教が「小乗仏教」と揶揄されたことと関係しているのだろうと思う。
本書の読者にとっての最大の関心事は、「怒らなければ本当に幸せになれるのだろうか?」「怒らないとつけこまれるのではないか?」という2点に集中するだろうと思う。本書の論理で言えば、「怒らないこと」と「幸せ」は同じことなのだから「怒らなければ幸せである」は真なのだが、そもそも、「怒り」をそのように定義すること自体が意味のあることなのかどうかは問われるべきだし、実際に「怒らない習慣を身につけたら、幸福感は高まるか」「怒らない人ほど幸福を感じているか」は論理の問題ではなく経験的に実証されるべき問題だと思う(以前、NHKテレビの『ためしてガッテン』で「(日本の)お坊さんは一般の人より怒りがおさまるのが早い」ということを実験によって示していて、面白かった)。
「怒る」という行動が対人的なトラブル解決に有効かどうかについてはケースバイケースだろうが、著者が言いたいことは「『確固とした態度を見せる』ことが必要な場合はあるが、その場合も『感情的になる』必要はない」ということなのだろう。たぶん、スティーブン・セガール(の演じる役)みたいに常に落ち着いて振舞え、ということなのだろう。
また、自分を攻撃してくる人間に対しては「鏡を見せる」、というときの著者の言葉の例が面白かった。僕にはカウンセラーやセラピストの使う「クライアントの言葉をそのまま投げ返す」しゃべり方と共通するものがあるように思えたのだ。僕はこの「何でも本人の心の問題だと思わせてしまう」しゃべり方があまり好きではなかったのだけど、使いようによっては凄い武器になることがわかった。確かに、何を言ってもニコニコしている人に対して怒っている自分自身が馬鹿バカしく感じられてくるかも…(そんな自分を反省するか?って言うと疑問だが)。
本書を読んでいて思い当たったのは、建設的な議論をしたいときに「自分が怒らないこと」よりも「相手を怒らせない」ことの重要性。これは「失礼な言い方をしない」とかそういう意味ではなくて、「こちらが攻撃するつもりではないことを知らせる」「相手に安心感を与え、防衛的な態度をとらせないようにする」という意味で。
最後に、「自分の期待通りにいかなかったこと」を自分から積極的に「面白がる」態度が、個人的にも対人関係においても有効だ、ということにも頷けた。著者は「笑う」という表現を用いているが、どんな事柄にも面白がりポイントというものはあるし、新たな発見というものがある。ただ、上述の通り、世の中には「単に面白がってばかりはいられない事態」というものも存在していると僕は考えているので、面白がってばかりいるだけでは問題のいくつかは解決されないまま放置されることになってしまうと思うけれども。
と言うわけで、薄い小冊子だったのだけど、思いの外、あれこれ考えるヒントになる本だった。そういう意味では、一種の哲学の本。1回読んでオシマイ、ではなく、これどういう意味で言っているんだろう、こういう意味かな、と繰り返し考えるチャンスを与えてくれる本だと思う。機会があれば、著者の他の本を読んだり、講演会等で著者の話を実際に聴いてみたいと思う。
ちなみに、僕はとても「動じやすい」人間で、そのことに少し自分でも困っているのだけど、そんな僕に役立ちそうな言葉があった。それは、「人からどんなことを言われても、私は空のような心でいます」「私は何を言われても、ガンジス川のような心で接します」という言葉。僕は「打たれ弱い」と言うか、ちょっと批判されると必要以上に萎縮してしまうところがある。まるで自分の人格まで否定されたかのように感じてしまう。そのせいで、つい防衛的な態度をとってしまって、他者の言葉に耳を傾けられなくなってしまったり、攻撃的(「逆ギレ」というか…)になってしまったり、対人関係そのものを億劫に感じるようになってしまう。しかし、ここで「自分の心は、空のようなもの、ガンジス川のようなもの。誰にも乱すことなんてできない」というイメージをもつことができていれば、「私は傷ついた(傷つけられた)」なんて大騒ぎをしたり妙な被害者根性をもたずに済むのかもしれない。それは、僕のような人間には有効な、「この人生が生き易くなる」心の持ちようではないかと思う。
本文190ページ程度。

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