『読んでいない本について堂々と語る方法』
ピエール・バイヤール(著)
大浦 康介(訳)
2008年
筑摩書房
☆☆☆☆☆
Bayard, Pierre, 2007,
Comment parler des livres que l'on n'a pas lus? Editions de Minuit, Paris.の全訳。著者はパリ大学の文学教授にして精神分析家、とのこと。
「教養人としての必読書を読んでいないとしても何ら問題はないし、読んでいない本についてコメントしたって構わない」という著者の主張を聞けば、開き直りのハッタリ評論術の本かと疑う向きも多いだろうが、実際は真面目な(しかし、同時に遊び心に満ちた)読書論・批評論だった。似た本を挙げるとすれば、20年前に一世を風靡した大ベストセラー『文学部唯野教授』(筒井康隆 1990年 岩波書店)に近いだろうか。
本書は大きく3部構成となっている。第1部では、そもそも「読書」とはどのような行為であるのかについて考察し、第2部では、(第1部で考察した意味において)「読んでいない本」についてコメントしなければならない状況について考えることで、「本について語る場」に対する洞察を深めていく。第3部では、いよいよ「読んでいない本について堂々と語る方法」についてアドバイスする、という名目の下で、「批評・評論」の本質についての議論を行う。本を「読む」ことについての考察から始まる本書は、次第に「語る」ことへと議論の焦点を移していく。
一言で言えば、本書は、我々のもっている素朴な書物観・読書観・批評観を覆し、それらの変更を読者に迫るもの、と言えるだろう。我々は、書物というものが、(誤読の許されない)侵すべからざる神聖な存在であり、読書とは、そこに記されている事柄を(心を無にして?)精確に読み取ることだ、というような固定観念をもっている。著者に言わせれば、書物とはそのような不変の実体ではないし、読書とは「書物が主、読者が従」といった「受動的」な行為ではない。読書とは、個別の本を、それまでの個人的な読書経験から読者各人の内部に構築してきた書物ネットワークの適切な場所に位置づける「能動的」な行為であり、その意味で書物は、個人ごとに再構成されるもの、読み返すたびに創造的に書き換えられるものなのだ。
本好きの読者であれば、一見馬鹿げたハウツー本に見える本書を刊行しているのが筑摩書房だということを知っただけで、本書が(自らの内的な)書物ネットワークの中のだいたいどの辺りに位置づけられそうか予想することができるだろう(そして、その予想はそれほど的外れなものではないだろう)。だとすれば、書誌情報をチェックする(のみ)というのも「読書」形態の1つの形であり、それを通読・精読という読書形態に対して本質的に劣るものと断じる必然性はないわけだ。著者が「読んでいない本について堂々と語る」ことに関して「やましさ」を感じる必要はない、と言い切るのはこのためである。
著者に言わせれば、そもそも「教養がある」とは、必読書(とされている本)を実際に読んでいることではなく、諸々の必読書(とされている本)の間のネットワーク構造を把握している、ということなのだ。逆に言えば、個々の本を読んでいなくても、このネットワーク構造を把握できていれば良いのであり、個々の本にあまりに近づき過ぎてしまうと、かえってこの全体構造の把握が難しくなってしまう。そのため著者は、「本を読み過ぎてはいけない」とすら言う。個別の書物は孤立して存在しているわけではないのだから、その本そのものを読んでいなくとも適切なコメントを述べることは可能だし、書物から一定の距離を保っていなければ逆に読者の創造性が脅かされてしまうのだ。
読者それぞれの内部に構築された書物ネットワークが「教養」なのだとしたら、我々が世界を認識・解釈する際に用いられる枠組みこそ、この書物ネットワークだということになる。そういう意味で、内的に構築された書物ネットワークは個々人の世界観・価値観そのもの、更に言ってしまえば我々自身そのもの、ということになる。個別の書物は、その価値観の中に位置づけられて初めて存在するようになる「主観的な存在」でもあるし、本について語り合うことが個々人の価値観と価値観の交錯であると考えれば、書物は人と人との間に浮かび上がってくる「対人・社会的な存在」だということにもなる。
本について語り合う場、というものを注意深く観察してみれば、それが(「読んだ」という言葉が真実かどうかを確かめる術のない)一種の演技・ゲームの場であることがわかる。本について語り合うとき、我々はそういう不確かな場で、その本について他者にどのような印象を与えるか、その本について語る自分自身についてどのような印象を与えるか、を考慮しながら、お互いの内的な書物ネットワークの一部(それは、自分自身の一部でもある)をプレゼンテーションし合っているのだとも言える。「本について語り合う」ことは、そのような社会的な行為なのである。そういう意味でも、書物は、それについて語り合うコミュニケーションのその場その場で対人的・社会的に創造されるものであり、書物そのものよりも、誰が誰にどのような目的でその本について語っているかを理解することの方がずっと大切なのだ。
「創造」も、本書では重要なキーワードとして扱われている。映画の「予告編」を観て、ときどき「本編よりも良いデキなんじゃないか!?」と思うときがある。このとき予告編は(本編に基づいているとは言え)本編とは異なる別個の作品であることに気づく。本の要約や紹介、コメントにも同じことが言える。社会的な存在としての書物は、批評の結果として生まれてくるものなのだ。「自分はその本を『ちゃんと』読んでいないから、その本については語れない」と創造の機会を放棄してしまうことの勿体無さ。本を「ちゃんと」読んでしまうと、「読んでいない人ならではの独創的なコメント」を言えなくなってしまうのである!
本書の目次を開き、第3部で示されている4つのアドバイス(「気後れしない」「自分の考えを押しつける」「本をでっち上げる」「自分自身について語る」)を見て、本書を「インチキ評論指南の書」だと誤解する人もいるだろう。これらの言葉は、本について語るという行為について考察することによって浮かび上がってくる本質を、戯言的に表現したものと解釈した方が良いだろう。ただし著者は、これらの本質を、批評の限界ではなく、むしろ批評というものが1つの創造的行為であることの根拠と見なしている。我々が囚われている一面的な批評観から開放されて、より自由に本について語ることができるようになるためには、こういう逆説もまた有効だと思う。
本書では、各章につき主に1冊、著名な作家による著書を挙げ(ヴァレリー、プルースト、モンテーニュ、バルザックといったフランスの作家を登場させることが多いが、第3部では何と漱石と「吾輩」も登場する!)、その本に示されている考えや作中人物の体験するエピソードを軸に、著者の考えを展開していく。その際の手際が見事で、引用されている諸々の本を個別に(1冊通して)読むときよりも鮮やかな印象を読者に与えているのではないかと思う。著者は、それらの本が著者自身の内的な書物ネットワークの中に占める位置について述べるわけだが、そうすることによって著者と読者の間に浮かび上がってくる本の姿は、もはやオリジナルの本そのものではなく、著者によって新たに生命を与えられた、著者自身の創造の産物である。つまり著者は、素朴な読書観・批評観から自由になり、自分自身(の考え)について語るために「能動的な読書」と「創造的行為としての批評・評論」を行う、という本書の主旨そのものを、これらの書物を素材として実際に読者の前でやってみせてくれているのである。そして、もし著者がこれらの本を「本当は」読んでいなかったとしても、これらの本に対する著者の扱いの的確さが少しも傷つけられることはないという事実が、本書において著者が展開している議論に説得力を持たせることにつながっている(何とこの本では、全ての引用文献に関して、著者がその本を「読んでいない」「流し読み」「人から聞いただけ」「読んだが忘れてしまった」の区別を明示しているのである! そしてもちろん、「読んでいない本」に関しても、著者はその本に対する評価を書き込んでいる!)。
おそらくこのような「誤読の自由」のような議論は、批評・評論の分野においては全く目新しいものではないだろう。しかし、大学の文学部卒業というわけではない一般の読者にとって、このような本はやはり意味があるだろうと思う。読書好きな人ほど、「全ての本を読むことはできない」という無力感に囚われてしまったり、「自分は『ちゃんと』本を読んでいると言えるのだろうか」という不安に苛まれることが多いのではないだろうか。本書は、我々のそういった焦りや不安を消し去り、固定化してしまいがちなモノの見方を根底から揺すぶってくれる、愉快な本だと思う。
本書では、書物について語ることは、その本を語ることを通して自分自身(の考え)について語ることである、と結論づけられている。簡単に言ってしまえば、読んだ本というものは自分自身の一部なのだから、本について語るときには不可避的に自分自身について語ることになってしまうのだ。僕にとっての驚きは、この結論が、(文学批評の理論には全く不案内の)僕自身が普段感じていたこととほぼ一致していたことだ。僕には、自分のことを理解して欲しいという根強い願望が小さい頃からある。僕が読んだ本や観た映画に関するレビューを書くのは、実際のところそんな子供じみた願望に基づいてのことに過ぎない。その作品について語るときに、僕は自身自身の感じ方やモノの見方について語っているのであって、究極的にはそんな自分の全体をそのまま誰かに受け容れて欲しいだけなのだ。そしてそのことを意識すればするほど、「自分は結局自分について書いているだけであって、作品自体については何も書いていないではないか。そんなものをレビューと呼べるのだろうか」という負い目のようなものを感じていた。自分自身と向き合い自分について語り続けていれば、自ずとそこに「主体の真実」というようなものが生まれてくる。そうであれば、作品に対して抱いた主観的真実を述べることは決して「嘘」を語っていることにはならないし、「インチキ」をやっていることにもならない。そういう著者の言葉に救われたような気がする。
2011年の最初に読み最初にレビューを書いたのが本書。1年の初めにこの本と出会えたことを大変ラッキーに思う。出会えた本に感謝。
本文230ページ程度(解説を兼ねた「訳者あとがき」を含む)。

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