『どんとこい、貧困!』
湯浅 誠(著)
2009年
理論社
☆☆☆☆
「よりみちパン!セ」シリーズの46。「年越し派遣村」等の活動で知られる著者による「日本の貧困」入門。中高生向けに書かれた本だが、大人の読者が読んでも良いと思う。子供向けに真剣に書かれた本の良さをわかるのは、むしろ大人の方だ。
大変な勘違いをしていた。著者を、バラエティ番組でときどき見かける、髪を振り乱しながら「ゆ、あ、さ、で〜す!」と名乗るタレント弁護士(湯浅卓)だと思っていたのだ。「へ〜、あの人、あんな奇人変人のフリをして、ホームレス支援や派遣切り・貧困問題が本職の弁護士だったんだ!」なんて思っていたら、全くの別人だった。
全体が大きく2部構成になっている。まず第1章では、「努力しないのが悪いんじゃない?」等のアリガチな質問に著者が答えるという趣旨で、「甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?」「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」「自分だけラクして得してずるいんじゃないの?」「かわいそうだけど、仕方ないんじゃない?」等々、巷に溢れる多くの意見が如何に的外れなものであるかを示し次から次へと片っ端から論破していく。後半の第2章では、著者が貧困問題に関わるようになったキッカケから、市民運動(著者は単に「活動」と呼んでいる)の意義、「活動家」や「市民社会」についてまで…、と、広く著者の考えを述べている。最後に(おまけ的に)作家の重松清との対談も収められている(本編ではあまり触れられていなかった「女性の貧困」について語られている)。
本書の冒頭にある「椅子取りゲーム」の比喩が本書の発するメッセージをよく表わしていると思う。8つの椅子を10人で取り合えば、必ず2人座れない人が現れる。何故、彼らは座れなかったのか? 努力が足りなかったから? 真剣さが足りなかったから? 見通しが甘かったから? 著者の答えはこうだ。「椅子が足りなかったから」。10人がどんなに優秀で真剣にゲームに取り組んでいたとしても、必ず2人は座れない。何度もゲームを繰り返せば、その都度座れない2人は入れ替わるだろう。だから、座れなかった2人の責任を問うのはそもそもおかしな話なのだ。そういうゲームを国民に強いる社会構造が出来上がってしまっているのなら、たまたま座れなかった2人を救済するセーフティネット(社会保障)を国家(社会)として用意する、というのは当然の話なのだ。
様々な現象に名前をつける際の著者のネーミングの巧みさに舌を巻いた。「がんばり地獄」「ずるさ狩り」「貧困スパイラル」「すべり台社会」といった造語を駆使して、貧困問題そのものと「貧困問題にまつわる問題」の実態について易しく語っていく。仕方のないことだと思うのだが、人間というものは、自分の見聞きした経験の範囲からしかものを考えることができない。だから、自分自身も周囲の人間の誰も経験したことのないような事柄に対しては、自分の経験から誤った解釈をして相当的外れなことを言う。これはもう仕方のないことだと思うのだ。だからこそ、声を上げられない立場に追いやられてしまった人々の置かれている状況について(本人たちに代わって誰かが)広く世間一般に知らせる、という努力は常に必要なことなのだと思う。本書を読んでいて、久し振りに「無知の知」という言葉を思い出した。自分は全然わかっていなかったんだなぁ…、と何度も思った。
以前、『
かけがえのない人間』(上田紀行 2008年 講談社)を読んで、著者の言っていることには共感したのだけど、議論から社会科学的な視点が抜け落ちてしまっていることが気になった。本書は、その辺りの不満をうまく解消してくれた。僕が何故、社会科学が重要だと思っているかというと、社会科学的な認識の仕方というものが世の中でほとんど活かされていないように思うからだ。例えば、個人レベルで成り立っている論理が集団レベル(「社会」のレベル)でも同様に成り立っていると素朴に信じてしまったり、(これは「社会科学的な視点」というのとは違うかもしれないけれど)個人内でのみ意味のある比較を個人間でも行ってしまったり。また、例えば生活保護を受けている人間に対する「楽して生きていてズルい」「最初からそのつもりだったんじゃないか」「やはり本人に問題がある(あった)んじゃないのか」という感覚は、放っておけば多くの人々が素朴に感じてしまう種類の感情なのではないかという気がする。だからこそ、社会科学が必要なのだ。逆に言えば、そういう反応に対して著者の与えている心理学的な言葉に関してはツマラなく感じた。また、シビアに読めば、話をすり替えているんじゃないか!?と思うような箇所もあることはあるし、著者がよく使う「溜め」という言葉が非常に多義的な便利な言葉として用いられていることも気になった。ただ、それらは些細な欠点で本書の良さをそれほど傷つけるものではないと思う。
個人的には、ホームレス・ネットカフェ難民といった人たちだけでなく、メンタル休職者、ひきこもり、身体・知的・精神障害者、等に対する支援を苦々しく感じてしまうような、「ふつう」の人々の素朴な感情、というものを想像しながら読んだ。人はつい、自分たちが彼らに足を引っ張られているように感じてしまうのだろう。しかし、現実はむしろ逆で、「ふつう」の人々の生活は彼らの犠牲の上に成り立っている面がある。しかし、そのことにまで思いを廻らすことは難しい。だからこそ、「セーフティネットの存在は社会全体を安定させる」といった視点を導入することに意義があると思う。しかも、著者の言葉は常に平易だ。「人を使い捨てにする社会は弱っていく。」
先に質疑応答があって後半で著者の考えを述べる、という本書の構成は、これはこれで成功していると思うのだけど、著者の考えの全体像がやや見えづらいものになってしまっている気もする。著者の考えを理解するためには、そもそも国家の役割について著者がどのように考えているのか、といったところから体系的に述べてもらわないとわからない。かなり文字は大きいとは言え、本書は300ページ近くある本で、これ以上の内容を盛り込むわけにはいかなかっただろう。著者の他の本も読んでみようと思う。
ある意味、偏った内容の本だなぁ、とも思う。著者の願いはたった1つ、「この社会を、生きやすく暮らしやすい社会に変えていきたい」ということだろう。ところが、彼が想い描く「生きやすく暮らしやすい社会」を「生きやすく暮らしやすい」と感じる人は実はそう多くはないのではないか、と思う。だから、この本を読んで、「こんな本を中高生に読ませるな!」と思う人も結構いるだろう。ただ僕は、この本で貫かれている著者の態度――自分の意見はハッキリ言うが、それに対する反対意見も尊重する、という態度――こそ、中高生に見せるべきだと思う。そういう人は稀だがいないわけじゃない。世の中にはそういう人もいる、ということを多感な時期に実体験として知ることには、大きな意味があると思う。
本文290ページ程度。

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