『失われた場を探して――ロストジェネレーションの社会学――』
メアリー C. ブリントン(著)
池村 千秋(翻訳)
玄田 有史(解説)
2008年
NTT出版
☆☆☆☆
Mary C. Brinton, "
Lost in Transition: Youth, Education, and Work in Postindustrial Japan."の翻訳。ただし、本書は、日本人読者に読まれることを前提に、最初から日本語の本として出版することを念頭に執筆された「書き下ろし」の本である。英語で書かれた草稿を池村氏が翻訳した後、著者と翻訳者の共同作業で最終稿を練り上げていったらしい。
日本社会を専門の研究対象とするアメリカ人社会学者による現代日本社会論。「日本の高卒男性の就職経路」を題材に、バブル経済崩壊後の90年代に日本社会で起きた不可逆的な構造変化を明らかにしていく。原題の「Lost in Transition」とは、無理やり訳せば「乗り継ぎの途中で迷子」。海外旅行中の空港で乗継便に乗れず(あるいは、乗継便そのものが発着せず)ニッチもサッチもいかなくなってしまったイメージだろうか。具体的には、高校から企業への標準的な「乗り継ぎ」ルートの崩壊を、問題意識としては、そういった現象に象徴される、バブル経済崩壊後の行き先を見つけられずに彷徨い続ける日本社会(の乗り継ぎの失敗)を描いている。
本書の存在は、『
リスクに背を向ける日本人』(山岸・ブリントン(著) 2010年 講談社)を読んで知った(冒頭で本書の内容について触れている)。そこでは、普通科の高校から企業の正社員への安定した就職経路が閉ざされてしまった結果、大学進学を(学力的・経済的に)望めない高校生にとって、高校時代を「お行儀良く過ごす」インセンティブが失われている現状について語られていた。面白そうな予感があり、本書を手に取った。
原題と言い(東京を舞台としたアメリカ映画『Lost in Translation』(ソフィア・コッポラ(監督) 2003年)に酷似)、邦題と言い(言わずと知れた『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト(著) 1913〜1927年)に酷似)、妙にパクリっぽいのは気になるが…、内容は思った通り面白い本だった。「プロローグ」で既に魂が震えた(笑)。本を読むならこういう本を読まないと! バブル経済崩壊後のこの20年の間に、日本社会が大きく変わったとはよく言われる。ただ、「変わった」ことは明らかでも、それが具体的にどう変わったのか、どこが可逆的な変化で、どこが不可逆的な変化なのかは定かではない。本書は、日本通の外国人社会学者が国際比較の視点に基づいて「どう変わったのか」に迫っていく。
具体的には、現代日本社会の抱える懸案事項である「経済格差の拡大」の原因の1つとして「低学歴男性の正社員率の減少」を取り上げ、学力的に中低レベルの普通科高校から企業の正社員採用への「標準的ルート」が壊滅的な打撃を受けた様子を丹念に描き出している。日本の産業構造、企業の採用方針、大学進学率、等の複合的変化により、高卒男性の新卒一括採用を行っていた企業と普通科高校の進路指導部との間に形成されていた長期的関係は90年代半ばに崩れ去り、高校と企業との間を橋渡ししていた仕組みは永遠に失われてしまった。それがあまりに「標準的」で「制度的」なものであったことから、その仕組みが機能しなくなったことの影響は大きく、また、その変化が「不可逆的」なものであったことから、今後経済状況が好転していったとしても見えてくる将来像は暗いままだ。
学力的に中低レベルの高校を卒業した若い男性の就職問題を主な題材としているため、この本で扱われているテーマを直接自分の問題として考えられない読者も多いかもしれない。ただ、本書が本当に描こうとしているものは、日本社会の構造的な変化そのものなんだろうと思う。高卒男性の非正規労働者化は、そういった不可逆的な変化を象徴的に示す1例に過ぎない。僕自身は、現実の社会というものに疎いこともあって、「多くの人が従っているある社会の『文化』というものは、そうしたくてそうしているというよりも、仕方なくそうしているものなのではないか」「下部構造の変化に上部構造の変化が追いついていないということが、問題の本質ではないか」「若者のライフスタイルなり意識や行動なりの変化は、社会の変化の原因というより結果なのではないか」というようなことを考えながら読んだ。
如何にも学者さんが書いた本、という印象。読者として想定されているのは一般の日本人で、学術寄りの本だが専門書ではないし、文章も大変読みやすい。どこが「学者さん」っぽいかと言えば、全く勿体振らずに冒頭で本書の主旨を明確にしてしまい、後はケレン味なく坦々とデータを示し詳細について述べていく点(各章末に「ポイント」が付されているのも、アメリカの大学の教科書みたいで面白い!)。また、「若者の行動や価値観の変化を批判する前に、若者を取り巻く社会環境(行動や価値観を支えている土台)の変化を認識せよ」という本書に通底する主張も、社会科学者らしい提言だと思う。ただ、本書を「知的なエンターテイメント商品」として考えると、途中で飽きてくる読者もいるかもしれない(先が読めるから)。それに、昨今の過度に単純明快化された新書テイストや、連続ドラマばりのドラマチックなストーリー(?)展開に慣れてしまった読者には、「退屈」と捉えられる可能性もあると思う。データによる裏づけは必要ないから、お話(あるいは結論)だけを聞かせて貰えればそれでいい、という読者には、本書全体が冗長に感じられるかもしれない。
本書が刊行された2008年と言えば、その数年前から、ニート、貧困・ワーキングプア、経済格差、等々の文言を書名に含めた新書が新刊コーナーを賑わし、そういった問題をおおっぴらに語ることがそれほど珍しくなくなってきていた頃。そういう意味では、これらのトピックの相互の関連性を極めて明快に示してみせている本書も、もっと話題になって良かったはずだと思うのだが…。この辺りは「売れ筋の本を作ろう」という魂胆が著者にも出版社にもなかったのだろうな、と思う。もっとセンセーショナルな書き立て方や推理仕立ての筋立てを用いれば、同じ題材でもっと「売れる本」に仕立て上げることは可能だったのだろうと思う。そうしなかったという意味でも、「学者さん」っぽい本だと感じた。
これは『リスクに背を向ける日本人』にも感じたことなのだが、問題の核心を解き明かしていく過程はスリリングなのだが、終盤で「じゃ、どうすればいいの?」という段になると尻すぼみ的に終わってしまう。これは一種の学者さん的良心というものだとも思うのだが、著者は特効薬を示してはくれない(そもそも特効薬なんて存在しないのだ)。ただ、この点をモノ足りなく感じる読者も当然いるだろう。また、国際比較という意味では、単にアメリカ社会の例を挙げるだけでなく、もっと他の地域(西欧や北欧、韓国・中国、新興国…)の社会との比較についても読んでみたいと思った。
本書には、「語学の対象」として日本語を見たときの新鮮さと同じ種類の面白さを感じられる。「象は鼻が長い」を英語に訳そうと散々苦労した挙句、逆に日本語では(余談だが、韓国語でも!)「象は鼻が長い」でOKなんだということに改めて驚かされる。そんな経験を面白いと感じるなら、著者の感じているはずの(学問的な意味での)「面白さ」を感じられるかもしれない。例えば、本書には「日本の社会で重要なのは、いい会社に就職し、その会社にずっと勤め続けること。日本の中高年男性なら誰でも知っていることだ。」という記述がある(76ページ)。文字通り誰でも(中高年男性でなくても)知っていることだ。こういった文章を読んで、「この本には日本人ならみな知っている『当たり前』のことしか書かれていないから、読む必要がない」と思ってしまっては勿体ない(それに、これは「真実」の宿命だと思うのだが、真実というものは言われてみれば当たり前、驚きも何もないのである!)。著者自身、「プロローグ」で「当たり前を問う」ことを本書の狙いの1つとして挙げているが、外国人の視点から日本社会を見た際の驚きを想像しながら読むことが、本書をより面白く読むためのポイントだと思う。「いい会社に就職し、その会社にずっと勤め続けることが、日本の社会では重要!」とわざわざ彼女が書くのは、少なくともアメリカでは「いい会社に就職し、その会社にずっと勤め続けること」がそれほど意味をもっていないし、この日本でだって「いい会社に就職し、その会社にずっと勤め続けること」がそれほど意味をもたない社会が成立する可能性がある、ということなのだ。外国人の視点に立って読むということが困難であれば、本書で扱われている題材が日本社会なのだということを一時的に忘れてしまえばいい。聞いたことはあるがよく知らない国の話なんだと思って読んだ方が、実は面白いかもしれない。
本文220ページ程度(玄田氏による「解説」(7ページ)を含む)。

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