『名誉と暴力』
R. E. ニスベット・D. コーエン(著)
石井 敬子・結城 雅樹(編訳)
2009年
北大路書房
☆☆☆☆
Nisbett, R. E. & Cohen, D., "
Culture of Honor: The Psychology of Violence in the South", Boulder, Co: Westview Press, 1996.の全訳。サブタイトルは「アメリカ南部の文化と心理」(ちなみに、オリジナルのタイトルとサブタイトルを直訳すれば『名誉の文化:南部における暴力の心理学』だから、原題と邦題で「文化」と「暴力」が入れ替わっているのが面白い)。
「名誉と暴力」であれ「名誉の文化」であれ、「セーラー服と機関銃」(赤川次郎 1978年)ばりに穏やかでないタイトルを冠された本書、アメリカ南部地域に暮らす白人男性のみが示すやや特殊な暴力性(酒場での些細な口論に端を発する殺人事件の多さ、等)を、世界中の牧畜民の間に共通して見られる「名誉の文化」によって説明しようという、意欲的な研究書である。
文化人類学者によると、牧畜民の社会(あるいは、歴史的に牧畜を基盤として成立した社会)には「名誉の文化」とでも称すべき文化的な特徴があるという。そこでは、「見下されたことに対して暴力的に応じる」ことを「男らしさ」と見なし、「臆病者のソシりを甘んじて受ける」ことを決して良しとしない。ここで言う「名誉」とは、「臆病者とは誰にも言わせない(言われない)」ことなのである。
牧畜民の間にこのような文化が発達するのには、牧畜という生業形態が歴史的に法の及ばない辺境の地で行われてきたということと、家畜は盗むことが(例えば、農産物等と比べて)比較的容易だということの、2つの理由に根ざしている。このような環境においては、自分自身(と家族)の身を守るためには暴力に訴えるしかなく、常に自身の(イザというときに発揮する)暴力性を周囲にアピールし続けなければならない。彼らが他者にナメられたことに対して非常に敏感に反応し、すぐさま「男らしさ」を誇示してみせるのには、そうした姿勢を見せない「臆病者」の評判はすぐに広まり、家畜などの財産をむしり取られてしまう危険性と常に隣り合わせだからなのである。
本書は、アメリカ南部にもこの「名誉の文化」が存在することを多様なアプローチによって実証していく、文化心理学の学術専門書である(著者の1人であるドヴ・コーエンの博士論文を一般向けに書き直したものだろうか?)。従来、アメリカ南部の暴力性(殺人率の高さ、等)は、過去の奴隷制度の負の遺産として解釈されたり、貧困や経済的格差、あるいは高温多湿な気候等によって説明されてきた。本書では、歴史学や民族誌的な先行研究を鑑みアメリカ南部の社会(歴史)を概観(第1章)した後、(究極の暴力としての)殺人事件に関する公的データの分析(第2章)、暴力に関する価値観についての社会調査データの分析(第3章)、認知・感情・生理的反応を測定する統制された心理学実験(第4章)、銃規制や死刑制度、国防政策に関するアーカイブズ研究(第5章)、「名誉」を守るために暴力に訴えた者に対する社会的受容(の地域差)を検討するフィールド実験(第5章)と、多彩な方法論を用いて、アメリカ南部(と西部)でのみ見られる特異なかたちの暴力性を説明し得るものが「名誉の文化」に他ならないことを示していく。文化心理学や社会心理学研究の多くが、実験室実験や質問紙調査といった限られた方法論に依拠していることを省みると、本書はそのアプローチの多彩さにおいて異彩を放っていると言えると思う(個々のパートを個別に見ると案外大したことないように見えるのだが、これだけ揃えられると…)。
おそらくアカデミックな世界に身を置く文化心理学者にとっては、本書は特別な意味を持っているのではないだろうか。原書がアメリカで刊行されたのは1996年であり、新しい「文化心理学」の成立を高らかに宣言している本書の「序文」は、萌芽的な段階にあった文化心理学がこの時期に1つの学問領域として成立したことを示す「歴史的著作」なのかもしれない。
私自身は(研究者的観点からではなく)一般読者としてこの本を読んだ。ある意味、学術的なデータ分析の部分はザッと流し読むのもテである(それでも充分面白い)。むしろ、示されたデータのまとめや論述の部分に集中して読んだ方がスリリングかもしれない。ただし、本書はあくまでも学術専門書であり、魅力的な語り口によって謎解きの面白さについつい惹き込まれてしまう…、というような、一般読者向けの「味付け」は一切施されていない。冒頭に社会心理学者の山岸俊男による解説が付されており、これがほとんど「掟破りのネタばらし」だったので「本文より先にこんなこと書いちゃっていいのか!?」と驚いたのだが(しかも、さりげなく(いや、あからさまに?)自身の研究プログラムや論文を宣伝してるし…)、この「ネタばらし」により本書は一般読者にもその意義を感じられるようになっている。正直に言うと、私にとっては、山岸による位置づけの方が本書の内容そのものよりも面白かった(以前読んだ『オデッセウスの鎖』(R. フランク(著) 山岸俊男(監訳) 1995年 サイエンス社)もそうだった)。
細かいことを言えば、データの示し方において疑問を感じるところもあるし、論述においてもやや腑に落ちないところもあった。これは広く社会心理学分野における一種の「伝統」なのかもしれないが、「仮説に合うデータだけを見せ、仮説に合わないデータは見せていないのではないか」という気持ちになってしまう箇所がところどころにあった。「差がある」と予測できる点において「差がある」というデータを示すだけでなく、「差がない」と予測できる点においても「差がない」ことを示すデータを同等の重みでもって示して欲しい。また、私が最も腑に落ちないのは「子供に対する『しつけ』の手段としての体罰に対する寛容さ」についてで、牧畜民でもなければ(少なくともアメリカ南部に存在していたような)奴隷制度の歴史もない日本社会において体罰が(世界的に見れば)許容されていることを考えると、アメリカ南部で体罰が許容されている現実を説明するもっと良い他の要因がありそうな気がする。議論の流れにおいても、第5章になって急に、奴隷制度の歴史の有無と西部との比較を議論し始めるのは唐突に感じた。単純な話、アメリカ本土の全ての州を示した地図が欲しい(多くの日本の読者にとって、アメリカのどこが「南部」と呼ばれる地域なのかわからないのではないかと思う。少なくとも私が「南部」と聞いて思い浮かべた地域と実際の「南部」はかなり異なっていた)。
私が最ももの足りなく思ったのは、本書の最終章(第6章)の最終節が「文化進化と変化に関する問いは、個人行動と公的表象との間にある互恵的な関係に関する、より根本的な問いと相まって、文化心理学の分野における中心的な課題となりそうである。」(155ページ)という文章で締め括られていることだ。この結びの一文には完全に同意する。今では誰でも法による救済の対象となり、18世紀の牧畜民と同じような環境で暮らしている人などほとんど存在しない現代アメリカ南部社会で、現在も尚「名誉の文化」が存続し続けているのは何故なのか? この問いが一番面白い。この問いが一番面白い問いなのに、この問いを残して本書は幕を閉じてしまうのだ。ここからが面白いところなのに! 著者の1人であるドヴ・コーエンの本書以降の研究をまとめた日本語の本が出たら、是非読んでみたいと思う(そういう本が出版される可能性は限りなく小さいと思うが…)。
それでも私が本書を優れた研究書だと思うのは、読んでいる最中に様々なアイデアが湧いてきたり、関連する(かもしれない)知識が思い浮かんでくるからである。例えば、「共有地の悲劇」(Hardin 1968年)は共有の「牧草地」で、すなわち牧畜民の社会で起きた、というのは単なる偶然なのだろうか? この「共有地」が農耕民の社会での共有地(例えば、共有の「水源地」)であったとしても、同様の「悲劇」は起きたのだろうか?
「我が身を守るための暴力」に対するアメリカ南部の価値観について論じている第3章を読んでいて思い浮かべたのは、1992年にルイジアナ州で起きた「日本人留学生射殺事件」である(ルイジアナ州は「南西部」に属するが、「南部」のミシシッピー州の西隣に位置しており、「南部」との文化的な類似性も大きい)。アメリカに留学中だった16歳の日本人少年は、ハロウィンの仮装パーティーに参加する際、誤って他の家を訪ねてしまった。家の主は、仮装によって顔を隠した「侵入者」に対して銃を向け「Freeze(動くな)」と警告を発し、それにも関わらずジッとしていなかったこの少年に対して発砲した(この事件と共に「freeze」という英単語を記憶している人は多いと思う)。日本では、この家の主が無罪放免となったことが驚きをもって報じられ、「アメリカ銃社会の暗部はかくも深い」といった論調がほとんどだったように記憶しているが、アメリカ南部において「家を(ひいては家族を)守るために侵入者に対して(殺すつもりで)発砲する」というのは、(法的に)「適切な行為」と見なされているのである。単に罪にならないというだけでなく、市民には「必要に応じて悪者を殺す『義務』がある」(ルイジアナ州にそういった法律があるのかどうかまでは本書には記されていないが)。「(正当な理由があったとしても)殺した方が悪い」という現代日本社会の常識が万国共通なのだと思っていると、実に多くの事柄が見えなくなってしまう。今になってようやく、この事件の背景が少しだけ見えたように思う。
「法による救済が期待できない場合の、暴力による自力救済」という意味では、『
パッチギ! 対談篇』(李鳳宇・四方田犬彦(著) 2005年 朝日新聞社)と『
喧嘩両成敗の誕生』(清水克行(著) 2006年 講談社)を思い出した。『パッチギ! 対談篇』では、朝鮮学校の不良学生の(日本の学校の不良学生に対する)暴力性が次のように説明されている。朝鮮学校の学生たちは先輩から(場合によっては教師や親からも)「日本社会では、在日コリアンが法律的に公平な扱いを受けることはない」と日々聞かされている。そのため、彼らは日本の学校の不良学生から我が身(男子学生にとっては女子学生を含む)を守るため、「あいつらは絶対に降参しない(だから、手を出さない方がいい)」という「朝鮮学校最凶伝説」を維持し続けるよう強く動機づけられている、というのである。
『喧嘩両成敗の誕生』では、「中世の日本人はすぐキレた」とされている。室町時代の前期には領主裁判権が確立しておらず、たとえ将軍と言えども、領内で起きた揉め事を一方的に裁く権限を持っていなかった(仲裁しかできなかった)。そのため、紛争の被害者は自分を含む集団による加害者を含む集団に対する「仕返し」によって自力救済する他なかった。しかし、「仕返し」はより上位の集団による仕返し合戦にすぐにエスカレートしてしまうため、ほんの些細な「子供のケンカ」が双方数十人の死傷者を出すような大騒動に発展してしまうことが日常茶飯事だった。このような自力救済の限界を克服するかたちで(かつ、領主にとっては領主裁判権の確立を目指すかたちで)現れ出たのが「喧嘩両成敗法」だというのが、『喧嘩両成敗の誕生』の本旨である。いずれの著作も、私自身の日常感覚が「誰もが『法による救済』の対象になる社会における感覚」でしかないこと、そうでない社会においては、異なる価値観が当然のものとなっていることに気づかせてくれる本である。
学術専門書と言うと、分厚い本に細かい文字がビッシリと並んでいるようなイメージがあるが、本書は意外と薄い本、文字も小さくはない(大きくもないが)。翻訳作業は社会心理学・文化心理学分野の大学院生を中心に行われたようだ。日本語表現がやや硬く、こなれていない印象はあるが、学術専門書としての精確性を重視してのことだろう。むしろ英語学や英米文学を専門としているわけではない若い大学院生による翻訳と考えると、よく頑張ったと思う。
ちなみに、第4章で紹介されている「くそったれ実験」には思わず笑ってしまった。これぞ、社会心理学実験というものだ!
本文165ページ程度(他に、解説、付録、訳者あとがき、引用文献、索引、等、40ページ)。

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