『サンタクロースっているんでしょうか?〜子どもの質問にこたえて〜』
The New York Sun社説(1897年09月21日)
中村 妙子(訳)
東 逸子(画)
1986年
偕成社
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1897年(1987年ではない)のある日、ニューヨーク・サン紙の社説欄に、地元ニューヨーク在住の8歳の女のコからの投書に応えて、“Is There a Santa Claus?”と題された小さな記事が掲載された。わずか70行足らずのその記事は、毎年クリスマスが近づくと、今もアメリカ中の(世界中の?)新聞・雑誌に再掲され、ポスターとなって貼られるのだそうだ(ところで、サンタクロースには「a」がつくんですね(笑))。
コトの発端は質問主の少女、ヴァージニア・オハンロン(Virginia O'Hanlon)が学校で「サンタクロースなんていない」と友達に言われたことに始まる。彼女は「サンタクロースがいないって本当?」とお父さんに訊ね、困り果てた(のだろうと思う(笑))お父さんは娘に新聞の読者投稿欄に質問してみることを勧めた。そうして送られてきた質問に対して、齢60のベテラン論説委員フランシス・チャーチ氏(Francis P. Church)が回答したのがこの記事だそうだ(ちなみに、記事の掲載日は09月21日なので、クリスマスシーズンではなかったようだ)。
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30を過ぎて数年経った頃から、「大人が本気で子供のために書いた本」と出会ってしまったときに、こちらも本気で感動・感激してしまうようになった。それは児童文学(例えば、『
飛ぶ教室』(ケストナー(著)・高橋(訳) 1962年 岩波書店))に限らず、小学生向けの算数の本だったり(『
はじめまして数学』シリーズ(吉田(著)・大高(絵) 2001年 幻冬社)、『
数の悪魔』(エンツェンスベルガー(著)・ベルナー(絵)・丘沢(訳) 2000年 晶文社))、中学生向けの数学入門だったり(『
虚数の情緒』(吉田(著) 2000年 東海大学出版会)、『
生き抜くための数学入門』(新井(著) 2007年 理論社))、はたまたコンピュータ・サイエンスの基礎を扱った子供向けの絵本(『
はじめて出会うコンピュータ科学』シリーズ(徳田(著)・村井(絵) 1990年 岩波書店))だったりするのだが、おそらくちょうどその頃に甥と姪が生まれたこととも関係しているのだろう。
算数・数学やコンピュータ・サイエンスの本にまで感激するのはオカシイと思うかもしれないが、僕が感動するのはおそらく、著者がその問題をどのように扱って子供に提示しているか、にである。「引き算がわからない」という小学校低学年の子供に対して「そもそも『数』ってものには『大きさ』と『向き』がある」と答え始めれば、自然と「ベクトル」について話すことになる。だって、ここで問題になっているものは「ベクトル」そのものなんだもん。それを避けて通る方がかえって不自然なんだもん(もちろん「ベクトル」という用語を使う必要はないと思うが)。そして、「ベクトル」について話し始めれば、やがて「掛け算には、数の『大きさ』を変える働きだけでなく、『向き』を変える働きもある」(だから、マイナス掛けるマイナスはプラスになるのだ!)という話になるから、そのうち「数の『向き』を(正反対ではなく)90°変える数」として「虚数」の話まですることになる。こうして小学校低学年の子供に向かって真摯に「ベクトル」や「虚数」の話をする人の存在を知ってしまうと、僕は感激してしまう。「この人、本気だ」と(だって、小学生に「虚数」はいくらなんでも(笑))。
僕自身は愛情豊かな人間とは到底言い難いが、甥と姪からむきだしの愛情を向けられてしまうと、さすがに反応せざるを得なかった。元来子供嫌いの僕が、甥と姪に愛情を感じていることには今でも少し戸惑いの気持ちはあるが、こいつらが将来独りで生きていかなければならない未来の世界について考えると(考えちゃうんだよなぁ、これが)、ついついお節介にも口を出したくなってしまうときがある。そんなときに僕が語るのは、自分が後悔していることと自分が理想としていることについてだ。僕の場合、甥や姪と真正面から向き合うようになって初めて、自分が何を理想としているのかを意識するようになった。そして、世の大人たちが、自分の理想として、いったい何を子供たちに語るのかにも興味をもつようになった。
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“Yes, VIRGINIA, there is a Santa Claus.”「サンタクロースって本当にいるの?」と甥と姪に訊かれた時に、僕はこんな風に言い切れるだろうか? 「人には思いやりの気持ちや人をいたわる気持ち、感謝する気持ちや愛する気持ちがある。サンタクロースに象徴される、そんな気持ちは確かにこの世の中に存在する。お前たちはまだ小さいから、お父さんやお母さん、親戚のおじさん(僕のことだ)やおばさん、おじいちゃんやおばあちゃん、幼稚園や学校の先生たち、近所のおじさんやおばさんたちが皆、大きな愛情でもってお前たちを見守っていることに気付かないかもしれないけれど、もしも将来、自分は独りぼっちだと感じて、もうダメだと思ったときに、人には人を大切にする優しい気持ちがあるんだということを想い出して欲しい。『そう言えば昔、小学生の頃、おじさんがそんなことを言っていたなぁ』とどうか想い出して欲しい。」そう思っていたとして、僕は連中にそう言えるかなぁ。言えないんじゃないか、という気がする。ところがここにいるのだ。「サンタクロースはいるんだよ。」と断言してしまっている人が。
子供に向かって理想を語る、というのはなかなか難しい。子供騙しはすぐに見抜かれる。真剣に考えて答えなければならないが、理想通りにはコトが進まないこともわかっている(理想通りに簡単にコトが運ぶなら、誰がこんな人生を歩むものか!)。現実に押し潰されそうで、毎日必死にしのいでいるのはこっちの方だ。とても理想を語れるような御身分じゃない。
だけど、子供に向かって、イジけてヒネくれた考えを口にするのもまた嫌なのだ。それが本当の僕だとしても、そんな態度は見せたくない。僕が死んだ後も生き続けていくあいつらには、やっぱり僕が「これは人生において本当に大切だ」と思っていることを伝えたい。そんな言葉のカケラが、この30ページにも満たない可愛らしい小冊子に収められているのである。著者だって、バラ色の人生を歩んできた成功者、というワケではないだろう(計算してみると、20代前半で南北戦争を経験しているハズ。
ニーチェ風の大きな髭をはやしたただのオッサンである)。むしろ新聞記者の仕事なんかしていると、世の中の裏側や悲惨な出来事もいろいろ見えてきてしまうのではないだろうか。その酸いも甘いも噛み分けた大の大人が、会ったこともない(そして、おそらく会うこともない)8歳の女のコに向かって、人のもつ優しさに目を向けるよう促しているのを目にするとき、大人の僕は泣いてしまうのだ。子供に自分の想い描く理想の世界について語り聞かせられるだけの力強さを、僕も身につけたいものだと本当に思う。
インターネットってのは凄いもので…、WEBを探せば簡単にヴァージニアの書いた
手書きの手紙や
記事の掲載された新聞紙面の画像が見つかる。8歳の子供相手の英文なら自分にも読めるのではないかと思って頑張って
原文を読んでみたが、日本語訳(これも
青空文庫にある)と見比べてみればおおよその意味はわかるものの、表現のニュアンスや著者の息遣いまではやはり僕にはわからなかった。それでも僕は文中に現れる“Yes, VIRGINIA, there is a Santa Claus.”という一文に著者の声を聴いたように思うのだ。
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僕はワリと遅くまでサンタクロースの存在を信じていた方だった(僕は小学校低学年のある年、クリスマスイブの夜に目を覚まし、家の横の通りをシャンシャンシャンと音を立てて「何か」が通り過ぎていく物音を聞いたことがある(今から考えればそれは、トラックのタイヤに巻きつけられた雪道用チェーンの立てる音なのだが))。今、小学校2年生の甥と幼稚園の年長さんの姪は信じているのだろうか? 最近の子供はどんなもんなんだろ?
甥と姪とは離れて暮らしているので、彼らがどの程度本を読めるものなのか僕にはよくわからない。甥には読めるかもしれないが、姪にはまだ無理かもしれない。仮に読めたとしても、今はまだ、この100年以上も前にアメリカで書かれたお話の著者が何を少女に伝えたかったのかはわからないだろう。それでもいい。いずれ甥や姪が現在の僕の年齢に近づいてきたときにはきっとわかる。かつて自分たちのおじさんが何を想ってクリスマスにこの本を送って寄こしたのかも。
お馴染みの衣装を着たサンタクロースの描かれたカバーを外すと、昔ながらの布の装丁が現れる。エンジ色の布で、これがまたクリスマス気分を穏やかに高めてくれる。クリスマスが近づく度に、繰り返し取り出して読み返して欲しい、何年も甥と姪の本棚に並んでいて欲しい本だ。
本文20ページ程度(そのうち、挿絵が6ページ)。

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