『儀式は何の役に立つか――ゲーム理論のレッスン――』
マイケル・S-Y・チウェ(著)
安田 雪(訳)
2003年
新曜社
☆☆☆☆
Michael Suk-Young Chwe. 2001.
"Rational Ritual: Culture, Coordination, and Common Knowledge." Princeton University Press.の全訳。邦題の副題は「ゲーム理論のレッスン」。原題を直訳すれば、「合理的な儀式:文化、協調、共通知識」(ゲーム理論の専門用語として、この訳でいいのかどうかわからないが…)。
邦題を見て「文化人類学の本かな?」と思っていたが、読んでみると、「国王の行進」のような儀式、政治的な集会や反政府デモ、人気テレビ番組のスポンサーCM、等々、一見「合理性」とは無関係、あるいはむしろ「非合理的」とすら見なされているような「公共的儀式」のもつ機能に対して、「合理性」の応用数学であるゲーム理論の立場からアプローチする本だった。たった1つのアイデアを様々な学問領域の重なり合う部分に上手くピン留めして見せる内容で、ゲーム理論や合理的選択理論、経済学はもちろんのこと、社会学や政治学、文化人類学から、歴史学、哲学、脳科学、心理学、果てはネットワーク科学、マス・メディア論、広告・マーケティング論まで、広く人文・社会科学全般との関連を示して見せている。
「訳者まえがき」に本書の主張を一言でまとめている文章があった。
人々が情報を得た状態と、皆が情報を得たという事自体が衆知の事実となった状態では、人々の行為や意識は違う。前者は必ずしも集合行動へは結びつかないが、後者は集合行為を促す。
そして、その含みは、
彼の理論の前では、情報化社会が促進する情報共有が、そのまま人々の相互理解や合意形成を可能にするという安易な幻想など、いともたやすく打ち砕かれる。
なるほど、「アラブの春」がTwitterやFacebook等のソーシャル・メディアの浸透により引き起こされた、という話は何度も繰り返されたけれども、そこで重要だったのは、単に「民衆が情報を得た」ということではなく、「民衆が『民衆が情報を得た』という情報を得た」ということだった、ということなのだろう。
4章構成の薄い本、本文は130ページ程度しかない。本書の主張は単純明快、「儀式には『協調問題』の解決に必要な『共通知識』を生み出す機能がある」、これ1つである。あるいは、次の一言でピン!とくる人もいるだろう。「儀式は、調整ゲーム(Coordination Game)や保証ゲーム(Assurance Game)において、プレイヤーにフォーカル・ポイント(シェリング・ポイント)を提供する」。このアイデア1つで最初から最後まで押し通す。第1章で本書全体の概要を示し、第2章でこのアイデアについて詳述、第3章では関連トピックを順次取り上げ、第4章では結びにかえて「合理性を扱うゲーム理論で、何故非合理的な『儀式』なんかを?」という疑問に答えている。
「協調問題の解決」とは、例えば次のようなことだ。車を走らせていて、対向車と正面衝突しそうになったとき、左に避けるべきか、右に避けるべきか。お互い、相手とは反対方向に避けたいと思っているが、相手がどちらの方向にハンドルを切るかわからない。相手の避ける方向がわからない以上、私は避ける方向を決めることができないし、私が避ける方向を決められないことを理解している相手も避ける方向を決められない。
この問題を解決しているのが、「このような場合には(自分から見て)左側に避けよ」という道路交通法の規定を周知徹底している、自動車学校の教習という「儀式」だ。この「儀式」が日本全国で今も昔も変わらずに執り行われていると信じるなら、私も相手も迷うことなく左側へハンドルを切ることができる。2人は「誰もが左側へ避ける」ことを知っており、また「誰もが『誰もが左側へ避ける』ことを知っている」ことを知っているからである。著者はこれを
公共的儀式は、単に情報の中央から個別の聴衆へのメッセージの伝達ではない。それは同時に、聴衆に他の聴衆が何を知っているかを知らせるのである。
と表現する。
そう考えてみれば、皆が既に知っていることをワザワザ「宣言」すること(例えば、開会・閉会の辞、結婚披露宴、同性愛者のカミングアウト、中央銀行による物価上昇率の目標水準の明言、独立宣言、等々)に意味があることがわかる。それは「共通知識」を作り出し、「協調問題」を解決しているのだ。だから、「儀式」は(今でも)円滑な社会生活を営むためには必要不可欠なのものなのである。
協調問題は、単に「どちらに避けるか」だけの話ではない。「アラブの春」の例を考えればわかる通り、現政権に従うか、反体制側に回るか、つまり「社会は如何にして可能か」という社会学の根本問題も協調問題の一例と見なすことができる(著者はこの例を「社会的ジレンマゲーム」「囚人のジレンマゲーム」ではなく、「調整ゲーム」「保証ゲーム」と考えているようだ)。
権力者は「皆が『皆が従うつもりである』ことを知っている」状態を作り出すために何らかの形態の「儀式」を行う必要があるし、「皆が『皆が反体制側に回る』ことを知っている」状態が生まれないように、民衆のコミュニケーションを制限する。「人々が内心どう思っているか」よりも、そのことを「共通知識にさせない」ことの方がはるかに重要だ。何しろ、たった1人の子供の「王様は裸だ」という一言が、「『王様の服が見えないのは自分だけだ』と誰もが思っている」という「多元的無知」を一瞬で崩壊させてしまうのだから! あの子を黙らせておかなきゃならなかったのである!
本書の面白さは、この「協調問題の解決」と「共通知識を生成する公共的儀式」との関係が、一見そうとは思えない様々なトピックにも含まれていることを次々と示して見せ、更に可能な場合には「実証」までしていくところにある。例えば、商品の中には「ユーザーが増えれば増えるほど、ますますユーザーが増えるモノ・サービス」がある(「ユーザー」を「得票率」と言い換えてみれば、共通ポイントカードや電子マネー規格、通信会社間のシェア争いも、政党間の支持率拡大を巡る争いも、本質的に同型の問題を含んでいることがわかる)。
例は古いが、かつてのビデオテープのVHS方式とベータ方式のシェア争いが典型的な例だろう。ユーザーにとって決定的に重要だったのは、どちらの規格が技術的に優れているかではなく、どちらの規格が多数派になるか(より精確に言えば、「どちらの規格が多数派になると皆が思っていると皆が思っているか」)だった。そこで、このような「協調問題」を含むモノ・サービスの普及を目論む陣営は、「皆が『皆がそれを選ぶつもりである』ことを知っている」という共通知識を生成するために莫大な広告費をキャンペーン――これも「公共的儀式」の一種――に費やす。ゲーム理論という「理屈のみ」の学問の本として本書が面白いのは、こうした特性をもつモノ・サービスを扱っている企業が、そうでない企業に比べて、より視聴者数の多い人気テレビ番組により多額のスポンサー料を支払うことをデータで示したりしているところだ。
著者によると、西洋の知的伝統では、「文化」というものは「非合理的なもの」と分類されるのが一般的なのだそうだ。本書の原題の「Rational Ritual(合理的な儀式)」というのはつまり、「儀式という一見『非合理的』なものに対して『合理性』の観点からアプローチすることができるんだよ」というようなニュアンスなのだろう。確かにそれこそ本書のテーマそのものである。ただ、正直に言うと、『
ヤバい経済学』(レヴィット&ダブナー(著) 望月(訳) 2006年 東洋経済新報社)以降に多数出版された「全く経済学的に見えない社会現象を経済学(インセンティブ)の視点から説明してしまう」という趣旨の本を読んでしまった後となっては、本書の刊行時にもっていただろう衝撃を感じることができなかった。
専門家向けの本ではないが、やはり学術専門書に分類されるべき本かなぁと思う(内容の一部は、社会学や経済学の専門誌に発表されたもの)。薄い本だが、1ページに込められた内容が濃く、僕にとってはスラスラと読める易しい本ではなかった(学術専門書としてそうした方が良いということなのかも知れないが、元の英文が推測可能なような日本語に翻訳されている)。それにしても、こういう(重要だが売れない)本の翻訳が原著刊行のわずか2年後に出版されるというのは凄いと思う。やはり日本には翻訳文化とでも呼ぶべきものがある。
ちなみに著者名を見て、アジア系の名前ではないかと思っていたのだが、著者は韓国・朝鮮系アメリカ人だろうか? 「チウェ」さんって、要するに「チェ」さんだよね?
本文130ページ程度(他に、付録、引用文献、索引、等、35ページ程度)。

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