『人を殺すとはどういうことか』
美達 大和(著)
2011年
新潮社
☆☆☆☆
新潮文庫の「み-49-1」。
2件の殺人事件を起こし、無期懲役の刑を受け服役中である著者の手による獄中記。2009年に刊行された同名の単行本を文庫化したもの。副題は「長期LB級刑務所・殺人犯の告白」。「あとがき」と「解説」は2011年の文庫化に際して付されたもののようだ。ちなみに、「美達大和」という著者名はペンネームである。
面白い…。本書のような内容の本を「面白い」と表現するのは気が引けるのだが…、不謹慎な言い方かもしれないが「面白い」。僕自身は、死刑・刑罰論、刑務所論・刑務所行政に興味があったワケではなく、タマタマ偶然本書を見かけ、手に取って読み始めてみたらタチマチ惹き込まれ、一気に最後まで読んでしまった。
本書の内容は大きく2部に分かれている。全5章のうち、第1章・第2章・第5章では、著者自身の生い立ちから語り始め、2件の(計画的な)殺人事件を起こしたこと、それまで自己の無謬性を信じて疑わなかった著者が裁判の過程で突然自らの過ちに気付いたこと、刑務所暮らしを続けながら贖罪について思索を重ねたこと、そうしてある結論に達したこと、等々について順を追って述べられている。そこでは、たとえ人を殺したとしても自分自身は「正しい生き方」をしていると考えていた著者の「改心」の過程が記されている(もちろん、著者の「改心」は「改心」の名に値しない、と考える読者もいるだろう)。
それに対して第3章・第4章の趣旨はやや異なり、著者自身が刑務所で出会った12人の殺人犯(堅気8人、ヤクザ4人)に、個人的に「人を殺したことをどう思っているのか」「罪悪感はあるか」「どう罪を償うつもりか」等について質問し、著者なりに彼らの回答をまとめ分析している(著者の収監されている「LB級刑務所」の服役囚の半数は殺人犯だそうだ)。
本書の読み方としては、(1)一般論として「人を殺すとはどういうことか」に対する解答を求める、(2)著者にとって「人を殺すとはどういうことか」について著者自身の考えを知る、(3)多くの殺人犯にとって「人を殺すとはどういうことか」について通常公にされることのない殺人犯自身の考えを知る、という方向性があるだろう。
第1の読み方をすれば、多くの読者は肩透かしを喰らうことになるだろう。この本を読んでも、一般論として「人を殺すとはどういうことか」は結局わからない。特に「不可解な殺人事件を起こした犯人の『心の闇』は…」というような観点から本書を読んでも、謎は全く解明されないだろうと思う。また、著者はそもそも、文化や時代、社会状況を超えた一般論を語るつもりは毛頭ない。あくまでも現代の日本の殺人についての話である。
(第2の読み方をちょっと飛ばして)第3の読み方をするとなると、主に第3章・第4章を読むことになる(第2章の一部も関連がある)。そうすると内容は更に2つに分かれていて、第3章では堅気の受刑者の考え、第4章ではヤクザの考えがまとめられている。このうちヤクザはある意味わかりやすい。そこでは、組同士の抗争となれば「殺す/殺されるはお互い様だから、恨みっこなし」という合意が成り立っているから、「殺すべき時に殺す」だけだ(本書では、ヤクザが一般人を殺す例は出てこない)。これは、ある意味、軍隊の兵士が攻撃を行うような「仕事」として殺人を遂行しているような話に近い。人を殺すことそのものには罪悪感はないし(ただし、特定のその人を殺すことになったことに関しては「気の毒」だと思ったりするようだ)、道徳的・倫理的な贖罪も必要ないと考えているようだ。これはこれで、ヤクザの世界というものはそういうものだと承知の上でヤクザになったのだから当然だと言われれば、当然なのかもしれない。
ところが、堅気の殺人犯に関してはかなり事情が異なる。むしろタチが悪いのはこちらの方だ(ただし、著者自身も述べている通り、本書で取り上げられている4人のヤクザが人格者(?)ばかりなのは、圧倒的多数の「チンピラヤクザ」を著者が毛嫌いしており、深い話をできるような関係を築けなかったからでもある)。これも更に2パターンに分かれて、盗みに入った先で人に見つかりパニック的に慌てて殺してしまうようなタイプと、そもそも人を殺すということが何を意味しているのか全くわかっていないようなタイプがいるようだ(平均レベルである「知能指数100」以上の者は、受刑者全体の5%程度しかいないのだそうだ。単に真面目に知能テストに取り組むような者がいないだけかもしれないが、受刑者の知能指数はかなり低いようだ)。両者とも罪悪感はほとんど感じていないようで、刑期を終えれば贖罪も済んだと考える(服役自体が贖罪行為であり、それ以上の道徳的・倫理的な「贖罪」には思いもよらないようだ)。
ここに出てくる堅気の殺人犯に関しては、頭にキて憤懣やるかたない、という読者も多いだろう。僕自身は全く道徳的・倫理的な人間ではないが、その僕ですらさすがに呆れた(実際、もう信じられないくらいに呆れたことを言うのだ。例えば、強盗殺人犯が死んでしまった「被害者」を恨んでいるケースは多々ある(怨恨殺人ではないにも関わらず))。ただ、僕自身は共感性が低いところがあり、被害者に感情移入することができず、「善良な市民」として義憤に駆られる、ということはなかった。むしろ、何故か殺人犯に感情移入してしまい、「その場にいたら自分も同じような行動(殺人)をとっていたかもしれないな」という風に読んだ(例えば、もし僕が包丁を持ってコンビニ強盗に押し入り、店員や一般客に取り押さえられそうになったら、僕は包丁を振り回すだろう。「怪我をさせないように上手に振り回す」配慮をする余裕はないだろうし、観念するのは実際に取り押さえられた後、場合によっては腕の一本でも折られた後だろう)。おそらく僕は拘置所にいる間は自分のしでかした罪の大きさに震えおののくのだろうが、刑務所に入って、そこで全く悪びれない多くの受刑者に囲まれて過ごせば、罪の意識も消えていくのかもしれない(実際、この本を読んでいるだけで、「そもそも『人を殺す』って、そんなにいけないことだろうか?」「あれ? 何で人を殺してはいけないんだったっけ?」という気分になってくる)。
さて、そして最後に第2の読み方、著者自身にとって「人を殺すとはどういうことか」だ。おそらく現在の(「改心」後の)著者にとって「人を殺す」とは、「(自分の殺した)被害者の遺族と向き合うことだ」ということになるのだろう(また、「自分の親を『殺人犯の親』にしてしまうこと」でもある)。遺族の胸にポッカリと空いた穴は決して埋まることはない。絶望感が癒えることもないし、加害者に対する憎しみが消えることもない。著者はそのような遺族の姿を知り、「どうやって罪を贖うか」を真摯に考え始める。更には「(自分が)どう生きるか(どう死ぬか)」に思いを致すようになる。そのようにして著者は、「何をしても死者は生き返らない」「だから、罪を贖うことは決してできない」「自分は取り返しのつかないことをしてしまった」ということに初めて気がつくのである(「そんなことは子供でもわかることだ」と思うかもしれないが、本書に登場する堅気の殺人犯の多くはそのことに気づいていない)。それが「反省する」ということなのであれば、多くの殺人犯は全く「反省」していないのである(これも、読んでしまえば、「まぁ、そうだろうな」という気になってくる)。
著者自身はおそらくかなり優秀な頭脳を持っている(東大生・京大生レベル、という意味で「秀才」レベル。「天才」と言う程ではないと思う)。ところが、著者にとって不幸だったのは、自分と同程度、あるい自分よりもずっと優秀な人間に囲まれた経験がない、ということだ(著者は地方の進学校を卒業後、大学には進学せずに社会人となっている)。著者自身述べているが、著者にとってこれまで経験した「対等な人間関係」は2名の弁護士との関係しかない。(著者のレベルに比べれば)レベルの低過ぎる環境にしか身を置いたことがないため、常に著者がナンバーワン。「自分も誤ることがある」ということにすら気づかずに大人になってしまった人だ。
その彼が人を殺して初めて学んだことが「人を殺してはいけない」ということなのだ。第1章・第2章・第5章を通して(怖ろしく「他人事」的に)理路整然と彼が語るのは、実はそれだけのことなのである。「自分から見て『殺すべき条件』を満たしていれば、殺しても良い」と考えていた自分自身が間違っていたと、実際に人を殺して、裁判を経て、刑務所に何年も暮らして、初めて彼は気付いたのだ。世の中にはそういうことを、実際に体験して初めてわかる人がいるのである(これまた不謹慎な言い方かもしれないが、いるかいないかで言えば、そりゃいるだろうなぁ、と思う)。著者自身は、自分は『罪と罰』のラスコーリニコフのつもりではない、と述べているが、やってしまった後で自分の行為の意味に気づく、という意味では、どうしても重なって見えてしまう。
実は本書の前半、第1章〜第2章辺りを読んでいた時、著者の「独りよがり傾向」のようなものが正直鼻についた。人間には、生きることに懸けるエネルギーが外側(社会)に向くタイプと、内側(自分自身)に向くタイプがいる、と僕は考えている。著者は後者の典型で、自分の中で「納得がいく」ことを何よりも重視している。その著者が自らの「贖罪」について考え抜き、「人を殺してはいけない」「その罪は決して償えない」「だから、もう一生刑務所からは出ない」という結論(第5章)を記したのが本書なのだ。信じ難いほど馬鹿バカしい話だ。自分一人だけの世界で自己完結してしまい、他者から学ぶことができず、多くの人が「そんなことは当たり前だ」と思っているようなことを理解するのに人の何倍も時間がかかり、いい年こいて(著者がこの獄中記を最初に発表したのは50歳頃だ)「今、ようやくわかりました! 人を殺してはいけません!」なんて本を出してしまう。そこにどうしても著者の得意気な様子を想像してしまう。しかし…。
僕自身はもう1種類の苦々しさを感じながら読んだ。上に挙げたような著者の性格や考え方の極端な部分は僕自身と非常によく似ているのだ。(幸か不幸か)僕はこの著者のような「秀才」ではないが、やはり「何かをわかること」「納得すること」を最重視し、そういうことに比べたら「世の中のルール」なんて屁とも思っていない(さすがに、「自分さえ納得していれば、人を殺しても良い」とは思っていないが…)。だから、僕は著者の「独りよがり傾向」の強さに辟易すると同時に、それが自分自身にも完全に当てはまる特徴であることに気づき、不愉快な気分になったのだろう。想像上の著者の得意気な顔が自分の顔に見えるのだ。
著者自身は、非常に暴力的な父親に育てられたこともあって、暴力や流血沙汰に対する恐怖感や嫌悪感をほとんどもっていない。そのため、多くの人がもっているような(自分が)暴力を振るうことに対する嫌悪感、人を殺すことに対する素朴な抵抗感がない。ところが、「人を殺してはいけない」という感覚の基礎には、大抵の場合この抵抗感や嫌悪感がある。そういう意味では、「人を殺してはいけない」というのは理屈ではないのだ。著者にはこの抵抗感・嫌悪感がないから、理屈が必要になる。
ヤッカイなことに、著者は「他者の立場に立つ」ということが全くできない人だ(他者に対する共感性を育む環境に身を置いたことがなかったのと、「人にはそれぞれの事情がある」ということを単に「知らなかった」ため)。仮にそれができたとしても、死者には(死んでしまった以上)痛みも苦しみもないのだから(著者には、身体感覚が希薄である、という特徴がある。ここは僕とは大きく異なる)、自分が殺した相手を思い浮かべて心が痛むということもないだろう。その著者が罪の意識に目覚めるのは、苦しみ続ける遺族の姿を見たことによる。おそらく遺族が1人もいなかったら、著者自身が自らの罪に気付くこともまたなかったのだろうと思う。
と言うワケで、被害者やその遺族の側にではなく、殺人犯の側に感情移入して読んでしまった僕だが…、ここが勝負だ、とも思う。「この人たちは殺人犯で、私とは違う」と考えるのか、「殺人犯とそれ以外の人々の間に本質的な差はなく、ここに描かれている受刑者たちの姿は、塀の外にいる『善良な市民』の姿を醜くデフォルメしたものに過ぎない」と考えるのか、のだ。ここで初めて第4の読み方、(4)僕にとって「人を殺すとはどういうことか」、が立ち現れてくる。
ここに実際に人を殺してみて、やっぱり人を殺しちゃダメだ!と実感したという人がいる。それでは僕自身はこれまで「やっぱり人を殺しちゃダメだ!」と「実感」したことがあっただろうか? たぶん、ない。
殺人者の人生というのは、一部のピースを欠いたジグソーパズルのようなものだと思います。ピースが欠けている以上、完成はありませんが、それでも投げ出すことなく作っていかねばなりません。そして、不完全な完成品を眺める度に、空白となったピースに思いを馳せ、忘れることなく暮らすことこそ、殺人者の人生に必要な営為ではないかと思います。(「はじめに」より)
この言葉の「殺人者」を「人間」に置き換えてみれば、著者が「殺人者」に限らず「人間」にとって普遍的なことを述べていることがわかる。もし人を殺して初めて「善く生きる」ことを肝に銘じることができるのなら、人を殺したことのない僕は人を殺した人からそのことを学ばなければならないだろう。
ところで…、著者はあまりにも文章が上手い。不自然なくらいに上手い。実際のところ、著者の文章にどの程度編集者が手を入れているのだろう?と思う。と言うか、編集部はどういう考えでこの本を出版したのだろう? それと言うのも、この本が刊行された2009年というのは、ちょうど日本において裁判員制度が開始された年だからだ。犯罪を繰り返し全く反省しない殺人犯の「生の声」を刑務所内部から伝える、という趣旨の第3章・第4章は、ひょっとして作り物なのでは?というウガッた見方も可能かもしれない。しかし、もしすべてがウソなのだとしても、本書には一読の価値がある、という気がする。おそらく著者はこれから、死刑・刑罰論、刑務所論・刑務所行政について、刑務所の内側から当事者として発言する、という非常に特殊な役割に自らの使命を見出だしていくのだろうし、実際に意義ある本を書くのだろうと思う(既にそういった内容の本を何冊か出しているようだ)。そう考えると、刑務所には死刑囚がいないため(死刑囚は拘置所にいる)、著者には現実の死刑囚については書きようがない、というのはやや残念にも思う。
本文310ページ程度(他に、橘由歩氏による「解説」20ページ程度)。

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