『かわいいこねこをもらってください』
なりゆき わかこ(作)
垂石 眞子(絵)
2007年
ポプラ社
☆☆☆
小学校低学年向けの絵本。「ポプラ ちいさなおはなし」シリーズの12冊目。人には誰でも、困っている人(「人」に限らず…)を助けたい、弱い者を守りたいという気持ちのあること、しかし、「助ける」「守る」ということはそう簡単なことではない、ということを描いた物語。夏休みの読書感想文の課題図書になったりもしている本だそうだ。
表紙カバーの折り返し部分にある文章が、本書の良き要約となっている。曰く、
ちいちゃんは こねこを ひろいました。
ところが、おうちは アパートで かえないし、
もらってくれる ひとも なかなか みつかりません…。
小さな命を まもろうと がんばった 女の子のお話です。
あ〜ぁ、年をとると涙腺が緩くなってくるから嫌なんだよなぁ…。1度目の涙は本を閉じてしまうことで何とか溢れ出さずに済ませたのだけど、結局その後2度泣いてしまった…。僕自身は決して「猫好き」ではないと思うんだけど…(「猫嫌い」でもないが)。
子供向きの本って、実は大人になってから読んだ方が感動するものでないかと思う。何故なら、それを書いた大人の気持ちがわかってしまうから。大人の優しさがわかっちゃうんですよね(『
飛ぶ教室』(ケストナー(著) 1933年)の「正義先生」なんてまさにそんな感じ)。物語に登場する大人の優しさだけじゃなく、そんな物語を書いている大人の優しさに涙してしまう。逆に子供時代には、そこがわからない。
あと、大人になってついつい泣いちゃうのは、「思い当たるフシ」がいろいろあるからなんだよなぁ(例えば僕は、昔飼っていた犬の世話をちゃんとしなかったという後ろめたさを、その犬が死んでから20年近く経った今も感じ続けている。だもんだから、日本映画『
いぬのえいが』(犬童・黒田・祢津・黒田・佐藤・永井・真田(監督) 2004年)みたいなチョロい映画を観て、号泣(笑))。
と言うワケで、アマゾンのレビューなんかを見ると、「大人でも泣けます」みたいなことを書いている人が多いんだけど、たぶん違う。「大人だから泣いちゃう」んです。そういう意味で、大人向けの本(笑)。読者として想定されている小学生よりも、その親が泣いてしまうタイプの本じゃないかと思います。
お話としては、小学校低学年向けということもあり、救いのない結末などは迎えず(笑)、ハッピーエンド的に終わるのだけど(その辺りはどうしても「子供騙し」的と言うか…)、僕が泣いたのは、ラストシーンではなかった。「子猫の新しい飼い主が見つかって、良かった良かった」(おっと、ネタバレ!?)と思ったワケでもないし、「子猫を大切にしてあげて良かったね」と思ったワケでもない。か弱い命を救おうと奮闘する幼いちいちゃんの姿に感動したワケでもない(こう言うと僕自身が何かヒドい冷血人間みたいに聞こえるかもしれないが…、「冷血」度は人並みだと思います…)。
本書で描かれているテーマはおそらく2つあって、1つはもちろん「自分を頼ってきた(ワケではないのだが…)弱い者を守らずにはいられない」ということですね。これが表のテーマ。で、裏のテーマは何かと言うと、「人生には諦めなければならないことがたくさんある」ということなのかなぁと思うんです。ちいちゃんは本当は自分で子猫を育てたかった。だけど、そんなことを言ってお母さんを困らせてはいけないとも思っていた。だから、このお話は「『子猫を飼いたい』と言いたかった(けど言えなかった)」というお話だと思うんです。そういった子供の気持ちを大人である著者は優しく汲み取ってあげているように思いますね。
主人公のちいちゃんは、つい我慢しちゃう子なんですね(それにはそうなるだけの家庭の事情がある)。小学校2年生にして既に、子供らしい無邪気な我儘さを発揮することができなくなってしまっている。それで、子供であるが故の視野の狭さから、思い詰めて切羽詰まった行動をとってしまう。その辺りで泣きました。何でだろ? そこに幼い頃の自分自身を見たような気になってしまったのだろうか?
僕自身は「(実の両親を含め)大人が怖かった」タイプの子供だったので(両親とも厳しい人間では全くないのだが)、小さい頃から子供らしい我儘を言えずに自己規制しているところがあった(これはこれで困った問題で、発揮されなかった子供らしさ、言い出せなかった無邪気な我儘が未だに僕の中に居座っており、それがときどき、大人になった今もかたちを変えて現れてしまうことがある。つまり単に「そういう子供だった」だけで済まず、現に「そういう大人である」)。
ちいちゃんがどうしてこんな風に一生懸命子猫を守ろうとしたかと言うと、それはもちろん彼女が、単に「守られる存在」としてではなく自分よりも弱い者を「守る存在」としての役割を果たせるような精神年齢に達したところだった、というタイミングの問題はあるけれど、それよりも、「ピアノを習いたい」だとか「可愛い服が欲しい」だとか、そういった他愛のない子供らしい我儘を言い出せずに胸の奥に仕舞い込んでしまうクセを身に付けてしまっていたからなんですね。そのたまりにたまっていた「自分の願望・欲望・希望を口にしたい」という欲求が、この場合は「捨てられていた子猫を助ける」という具体的な行動に彼女を駆り立てている。
ところが彼女は、「この子猫をうちで飼いたい」とお母さんに言うことを自主規制してしまうから、ますます追い詰められていく(ように僕には見えるのだが…)。だから、大人はつい「ちいちゃんは、動物好きの優しい良い子だから、こんなに一生懸命に子猫を助けようと頑張ったのだろう」なんて思ってしまうかもしれないけれど、異なるキッカケが(偶然によって)与えられていたら、彼女の抑圧された欲求がどんなかたちをとって噴き出していたかわからないな、と思うんです。今回は社会的に賞賛される種類の行動となって現れたけど、キッカケがキッカケなら悲劇的な行動となって出てきたかもしれないし、「どうしてこんな良い子がそんなヒドいことするの?」と思うような行動をとっていた可能性だってあり得る。何かそういう可能性を見逃しちゃいけないんじゃないか、という気になりました。「思い当たるフシ」が僕にはあるのか、彼女がどんどん追い詰められていっているように感じてしまったんだよなぁ…(「そんなお話じゃないでしょ」と言われれば、そっちの方が正しいようにも思うんですが)。
この物語について考えていて、フと思い出したのは、韓国映画の『
ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ(監督) 2000年)です。この映画では、好転していかない自分の人生を何とかしたいという想いが、キャンキャンうるさい近所の犬を始末しようという行動となって現れ(かけ)る大学講師の男と、同様にウダツのあがらない人生から何とか抜け出したいという想いが、失踪した近所の犬を救い出そうという行動となって現れるOLの女の子が描かれています。片方が悪い人で片方が良い人かと言うと違う。2人を突き動かしている焦燥感はほとんど同じで、どっちにも転び得るんだと思うんです。ちいちゃんだって、猫を殺す側に立っていたかもしれない(いくらなんでも、考え過ぎか(笑))。
ちなみに、『ほえる犬は噛まない』は、『
殺人の追憶』(2003年)、『
グエムル』(2006年)、『母なる証明』(2009年)のポン・ジュノ監督の劇場デビュー作で、「第1作にして既にポン・ジュノはポン・ジュノだった!」と思うような作品。人にとって普遍的な何かを描くことに成功している映画だと思うので、映画好きの人には(例え嫌韓流の人であっても)オススメします。ペ・ドゥナも可愛いし(笑)。
さて、この本を小学校1年生の姪のところに送ろうと思っているのだけど、姪はこの本から何を感じ取るのかな? 「子猫を飼いたい」なんて言い出して、妹夫婦を困らせるのがオチかな〜(笑)。
本文70ページ程度(そのうち、イラストのみのページが25ページ程度)。

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