『名ばかり大学生』
河本 敏浩(著)
2009年
光文社
☆☆☆
光文社新書の「436」。サブタイトルは「日本型教育制度の終焉」。
ちょっと勘違いしていた。いわゆる「ゆとり世代」のバカ大学生を揶揄するような内容の本だろうと思っていた(『アホ大学のバカ学生』(石渡・山内(著) 2012年 光文社)みたいな!?)。ところが、読み始めてみると意外と硬派。本書が問題としているのは、「名ばかり大学生」そのものではなく、「『名ばかり大学生』を生み出してしまう大学のあり方」なのである。「ゆとり教育」を批判するどころか、むしろ「『ゆとり教育』批判」を批判している。
全5章構成。個々の大学教員から見て近年の(自身の勤務する大学の)学生の学力が低下しているように見えるのは、「ゆとり教育」で学生の学力が実際に低下したせいではなく、少子化で18歳人口が減っているにも関わらず大学入学定員の(日本全体での)総数が変わらないため「繰り上げ合格」「スライド合格」のような現象が起きているせいである、とする第1章は良かったのだが…、第2章で(「えぇっ!?」と驚くほど)大きく道を踏み外した後は、論旨の見えづらい本になってしまっている。著者自身言いたいことをうまく整理できていないか、(あるいは、頭の中では整理できているのだとしても)上手く文章化できなかったのではないかと思う。著者の文章は一見かなり硬くシッカリした印象を与えるが、よく読んでみると大袈裟なワリに内容がなかったり、無駄な繰り返しや論理が錯綜している箇所が多々ある。敢えてジックリ読まずに、段落単位で大意を掴みながらババッと流し読みしてしまった方が主旨を理解しやすい本かもしれない(例えば第3章なんて、まとめればたぶん1ページで済む)。
おそらく著者が言いたいことはこういうことなのだろう。まず、個々の大学に以前なら入学できなかったような学生が入ってくるようになったのは、以前ならその大学に入学していた学生が更に上位の大学に進学できるようになったからである。何故それが可能になったのかと言えば、子供の数が減ったのに大学の定員が減らないでいるからである(大学進学率は上がっているので、むしろ大学生の総数は増えている)。偏差値ヒエラルキーの上位の大学から成績優秀な学生を吸収していくとすれば、東大・京大・早稲田・慶応といったトップ名門校以外の大学ではどこでも「入学してくる学生のレベルが以前に比べ低下している」という現象が起こる。これは、学生全体の学力が以前よりも「向上」していたのだとしても起こり得る現象であり、この「学力低下」問題を「ゆとり教育」のせいにするのは完全に的外れである。なるほど。
著者が次に問題とするのは、全般的な「学力低下」ではなく、「学力格差の拡大」である。トップ名門校を目指す大都市圏の富裕層家庭の子供の学力は低下どころかむしろ高まっており、それ以外の子供の学力との差は小学校卒業時点で(その後の努力ではどう足掻いても逆転不可能なほど)決定的に広がってしまっている。先日読んだ『
学歴・競争・人生』(吉川・中村(著) 2012年 日本図書センター)でも、「日本社会は、『大卒層』と『非大卒層』に分断されている」という指摘があったが、その極端な姿を提示しているのだと思う。かつて読んだ『
不平等社会日本』(佐藤(著) 2000年 中央公論新社)でなされていた「日本社会は、ヨーロッパ型の階級社会に近づきつつある」という不気味な予言を思い出した。
実は『学歴・競争・人生』を読んだとき感じた違和感がある。それは、「学歴分断社会」の現実を知らしめるべきは非大卒層の家庭なのに、著者らの声は大卒層から発せられているため非大卒層には届かない、という皮肉な現実に由来するものだった。本書の面白いところは、非大卒層の声を代弁しているところがあるところ。本書には「学びを放棄する合理的な理由」がいくつも書いてある。日本の大学が入学さえしてしまえば勉強しなくても卒業できるところであることは数十年前からの「常識」。日本の中高生は大学に入学するために勉強しているのであって(だから「受験勉強」なのだ)、勉強しなくても入学できるのであれば勉強しないのは当たり前。故に現在では、激しい競争が繰り広げられているトップ名門校の受験生とほぼ無試験で「名ばかり大学生」になる学生の間の学力格差は開いて当然なのだ。
著者は、大学全入時代の「どんなバカでも大学生になれる」ということそのものを問題としているワケではない。希望すれば誰でも大学教育を受けることができる、ということ自体は、本来は素晴らしい話。問題は、大学での教育が機能せず、バカをバカのまま卒業させてしまう点。と言うワケで、著者の批判の矛先は最終的に、少子化時代にあって定員確保に躍起になるだけの私大運営ビジネスや、学生に学ぶ意欲を維持させることのできない大学教育のあり方に向かう。著者の言いたいことはここまで。
で、最後の点に関して僕は…、これはこれで片手落ちのように思う。著者の批判が大学(や大学教員)に向かうのは、大学のあり方自体を顧みず「ゆとり教育批判」をする大学教員を批判する流れからなのだが、大学が勉強しない学生をそのまま卒業させる、あるいは教育能力を失っている、という批判は正しいとしても、その責任を大学や大学教員に押しつけても意味がない。「大学のあり方」を大学教員が自在に決定できるワケではないのだから。大学が学生に勉強させることができないのは勉強させても大学の評価が高まらないからで、何故評価が高まらないかと言えば、大学で勉強しても就職につながらないからだ。大学の先生に言わせれば、大学時代に勉強したか否か(あるいは大学で身につけることができる能力を身につけたか否か)とは無関係に「大学の格」で採用を決めてしまう企業が悪い、という話にどうしたってなるだろう。学生には大学で学ぶインセンティブがなく、大学にも学生に学ばせるインセンティブがない。しかも、そういったインセンティブを大学や大学教員が生み出せるワケでもない。
「システム」というものは本質的に循環論的に成り立っている。それは「社会」についても同じだから、個々のプレイヤーは常に他のプレイヤーに対して責任転嫁することが可能だ。個々のプレイヤーは合理的に行動しているにも関わらず、システム全体として見ると不合理な結果が起きてしまう。それが社会というものであり、それを「誰かのせい」にすることはできない。
著者には「学びへの熱意」に対する憧れにも似た信仰がある。著者の怒りの根底には、「学びへの熱意」が失われてしまって久しい日本社会の現状への深い失望がある(『
学校へ行く意味・休む意味』(滝川(著) 2012年 日本図書センター)によると、日本の中学生の「勉強への熱意」のピークは70年代半ば頃)。そして、考えてみると、そもそも日本の大学のあり方は「学びへの熱意」を生み出すようなものではなかったのだ、と思い至った著者は、(本書のサブタイトルである)「日本型教育制度の終焉」を宣言する。「勉強して良かった!」と実感したことのない親が本気で子供に「勉強しろ!」と言うワケないだろう、と。そして「勉強って何のためにするの?」という子供の問いに答えられない社会に未来はないだろう、と。気持ちはわかるんだけど、それを大学の先生のせいにしてもしょうがないんだよな〜。だってそれ大学の先生が悪いんじゃないもん(そして、「誰が悪いワケでもない」というところが、この問題の難しさ。誰も悪くなくても社会は悪くなる。誰かを悪者扱いしても問題は解決しないし、感情的な対立が深まるという意味でますます問題をヤッカイなものにしてしまう)。
著者が「日本型教育制度の終焉」というときの「日本型教育制度」とは、高校卒業時の成績で入学できる大学の「格」が決まり、その「格」に応じて大学卒業時の就職状況も決まってしまうようなシステム、のことを指しているのだろうと思う。こういうシステムの下では、学生は大学に入った途端に勉強しなくなってしまう(これは「名ばかり大学生」だけでなく、トップ名門校の学生にも当てはまる)。教育行政の失敗とは無関係な「少子化」という人口構成の変化によって生じた、大量の「名ばかり大学生」の出現が社会に突き付けているものは、「日本の大学生にはそもそも学ぶインセンティブがない」という従来からの問題を極端に戯画化し、改めて顕在化させただけのことなのだ。何かが最近になって「終焉」したワケではない。もともとそうだったのだ。
逆に言えば、このシステムが本当に「終焉」を迎えるのだとすれば、それは日本社会にとって(あるいは、日本の大学にとって)喜ばしいことなのかもしれない。終身雇用制が崩れ、生涯に複数回の転職をすることが当たり前になれば、「大学の格」で採用する人事は合理性を失う。企業は個々人の能力を精確に査定せざるを得なくなる(ただ、先日読んだ『
IQってホントは何なんだ?』(村上(著) 2007年 日経BP社)によれば、職業人としての能力を最もよく予測するものは「同種の職業での業績」なので、大学生の能力を「精確に査定する」なんてことはドダイ無理、ということになるのだが)。あるいは、今後の日本人は、中国やインドや東南アジアの労働者と(現地での)職を争うことになるのだろう。もし外国企業が日本の大学の「格」なんてものに目もくれないのであれば、日本人は本当に力をつけてくれる教育機関に進学するだろうし、そこで真剣に学び始めるだろう。そして、日本に住む者にとって進学しやすい大学はやはり日本にある大学なのだ(ん〜、インターネット時代は違うのかな〜)。従来の「日本型教育制度の終焉」の後に生まれてくる新たな「日本型教育制度」はそれほど悪いものではないかもしれない。
本書にはまぁいろいろ問題はある。やたら引用が多く、(第2章を省いてしまえば)100ページ前後にまとめられたのではないかとも思うし、表よりグラフを用いるべきだと思う箇所はたくさんある。掲載している統計データも微妙に的外れであることが多い。それでも、「大学の社会的役割っていったい何なんだろう?」という根本的な問いに直面させてくれた、という意味では、読んで良かったかなと思う。
本文190ページ程度。

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