『脳のなかの幽霊』
V. S. ラマチャンドラン・サンドラ ブレイクスリー(著)
山下 篤子(訳)
2011年
角川書店
☆☆☆☆☆
Ramachandran, V. S. & Blakeslee, S., "
Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind", 1998.の全訳。1999年に角川書店より刊行された単行本の内容に修正を加え、文庫化された本。角川文庫16610。
臨床医であり、また脳神経科学者(?)でもあるラマチャンドラン博士による、脳の不思議に迫る名著。名著とは聞いていたが、本当に名著だった!
脳卒中で倒れた患者は、ときに(回復後も)驚くほど奇妙な神経疾患を示すことがある。脳損傷患者の示す様々な症例を手がかりに、(正常な)脳の働きの謎について解き明かしていく。
文庫本で500ページ近いボリュームを誇る本である。取り上げられているトピックの幅も広く、幻肢(第二・三章)、盲視(第四章)、幻視(シャルル・ボネシンドローム)・錯視(第五章)、半側空間無視・鏡失認(第六章)、病態失認・自己身体否認・防衛機制(第七章)、カプグラ妄想(第八章)、側頭葉てんかん・サヴァンシンドローム(第九章)、笑い(第十章)、心身医学(第十一章)、クオリア・自己(第十二章)、等々のトピックについて議論されている。
冗長というのではないが、かなり慎重に論を進めていくタイプの本なので(第一章なんて、一章まるごとイントロダクションである)、ジックリと読み進めたい本だ。その代わりと言っては変だが、面白さは折り紙つき。1度目も面白いが、2度読むとますます面白い(3度続けて読んでも面白いかもしれない)。2度、3度と繰り返し読み返したい本だ。
各章の構成は、多くの場合以下のようなパターンに従っている。まず、脳損傷患者の示す奇妙な症状が紹介され、次に、その現象を理解するために必要な、正常な脳の構造や働きについての解説が続く。その知識をもとに、冒頭で示された奇妙な症状が何故生じるのかの種が明かされる。最後に、関連するトピックについても軽く触れられる。第六章以降は、完全には説明し切れない症状も取り上げられており、やや「お話」(speculation)が増えてくる(「お話」率の増加に伴い、フロイト精神分析やダーウィン進化論への言及が増えてくることは、何とも皮肉に感じた)。
最終章を読むまでは、個々のトピックが単独に取り上げられている印象、トピック間の横のつながりが薄い印象が強かった。終盤にかけて完全には謎の解かれていないトピックが並んでいたため「少しダレてきたかな」なんて思っていたら、驚いたのは最終章(第十二章)。テーマは「クオリア」(意識の「主観的体験」としての側面)なのだが、最後に大風呂敷を広げたというよりも、ここへ来て、最後の大風呂敷に向かって各章の議論が展開されていたことに気づくような仕掛けになっているのだ! バラバラなテーマを単に羅列しただけのようにも見える本書が、最終章で1つにまとまるのを目の当たりにするのは圧巻だった。思わず感激してしまった(だから、2度読むと1度目よりも面白いのだ!)。
著者の「ラマチャンドラン」の名で書籍を探すと、「幻肢」を扱っていることで有名な本書と「錯視」を扱った本が見つかる。これを不可解に思っていた。私にとって「幻肢」は(どちらかと言えば、医学的な)脳・神経系の話、それに対して「錯視」は(ゲシュタルト心理学のような、古いタイプの)知覚心理学の話のように思っていたからだ。著者は、「幻肢」研究で有名になる前は、「錯視」の研究に取り組んでいた人らしい。考えてみれば、「幻肢」も「錯視」も、「感覚器から送られてくる神経インパルスから如何に脳が『主観的体験』を生み出すか」というテーマとしては同一であり、本書で取り上げられている幅広いトピックに通底していて本書を締め括るに相応しい概念が「クオリア」であるのは当然なのだ。第十一章までは最終章のための伏線になっているのである(しかも、その伏線自体が面白い)。間違いなく名著。養老孟司による「解説」が(本人も認める通り)まさに「蛇足」なのだが、本文があまりに素晴らしいのでこの「足」が全く気にならないほどだ(笑)。
「もっと早く読めば良かった」と少し後悔している。2000年代前半に読んだ脳科学・認知科学・心理学系の本の多くで、本書が引用されていた。ただ、これらの本では、本書で紹介されているような奇妙な症状を挙げ、これらの症状の不可解さ、脳の働きの謎を強調することに終始しているキライがあった。そのため、たびたび引用されている評判の良い本であることには気づいていたのだが、本書に手を伸ばすことを後回しにしてきたのだ。ところが、本書ではちゃんと謎解きまでされているのである。何だか騙されたような気分だ。
いくら何でも大袈裟な表現かとも思うのだが、「生きてて良かった!」と思えるほど面白い。こんな面白い本が10年以上前に出ていて、しかも面白い本だと皆が言っていたのに、10年間も自分は後回しにしていたなんて! おそらく私にとって生きていることの最大の喜びは、自分自身を縛りつけている(自分自身の)世界観が崩れ、それに代わる新たな世界観が見えてくることなのだ。そういう種類の「衝撃」が本書によってもたらされた。
本書を読み続けていくと、我々の知覚世界や身体イメージだけでなく、空間や時間の表象、「自己」や「現実感」すら、脳と神経系の複雑な処理によって「作られたもの」であることに気づいてくる(まぁ、当たり前と言えば当たり前なのだが)。脳全体のうちのほんの一部分、あるいは、脳と全身の神経系とのやりとりのほんの一部分が損なわれただけで、それらは大きく、トンデモない形に歪んでしまう。昨今の「脳科学ブーム」で、「全ての知覚は脳の生んだ幻覚である」というような文言は既に聞き飽きたと思っていたのだが(この程度の文言だと、私の世界観を全く揺り動かさない)、感覚器からの神経インパルス(という低次の刺激)とより高次の記憶機能との動的な相互作用の結果として、知覚対象に最も適合しそうな「幻覚」(知覚世界)が生じる(そのため、本来あるべき神経インパルスが途絶えてしまうと、現実とかけ離れた(本当の)「幻覚」が生まれてしまう)こと、意識体験(意識の「主観的体験」としての側面)というものは、常に変化し続ける瞬間的な(物理的な)刺激から意識の主体にとって有用な構造を抽出し、ある程度の時間持続する内的な(主観的な)刺激となるように作り出されたものであること、そのような刺激を「意識できる」という能力が、ひょっとすると「他者の心的状態」の推測のために生まれてきたものであるかもしれないこと、等々、久々に「あっ、そうか、そりゃそうだ!」と目を啓かれる想いがした。
その他には、(視覚が感覚の統合を主導することは知識としては知っていたが)視覚が身体イメージの構築に果たしている大きな役割、「辻褄合わせ」や「言い逃れ」の度が過ぎたものというより、「自己イメージ」そのものを作り出す機能(の副作用)なのではないかという気がする「作話」、に興味をそそられた(ただし、本書後半において極端な作話をする患者がたびたび登場するが、そのメカニズムについては明確に述べられていない。本書では、第七章において、右脳の機能損失との関連が述べられている)。
共著者のサンドラ・ブレイクスリーの名は、以前読んだ『
考える脳 考えるコンピュータ』(ジェフ ホーキンス・サンドラ ブレイクスリー(著) 伊藤文英(訳) 2005年 ランダムハウス講談社)で目にしたことがあった。脳神経科学分野を得意としているサイエンス・ライターのようだ。本書のあまりの面白さを体験してしまうと、「科学の敷居を下げる」ことをスローガンとしているサイエンス・コミュニケイターの努力が的外れなもののように思えてくる。本書と並行して『
友達の数は何人?』(ロビン ダンバー(著) 藤井留美(訳) 2011年 インターシフト)も読んでいたのだが、どちらも本当に面白い。しかし、これらの本の敷居は決して低くない(むしろ、高いくらいだ)。それでも、抜群に面白い。クラシック音楽を普及させようと「クラシック音楽の敷居を下げる」ための活動が行われることもあるが、クラシック音楽であれ科学であれ、敬遠されがちなのは「敷居が高い」せいなのだろうか? 敷居が高いから敬遠されるのではなく、敬遠される他の理由があり、結果として「敷居が高い」と表現されているだけなのではないだろうか? そして、その「敬遠される理由」とは、単に「ツマラない」というだけのことなんじゃないのか? 本書も『友達の数は何人?』も私にとっては充分過ぎるほど難しかったが、面白かった。これらの本の敷居を下げれば、もっと面白い本になるのだろうか(逆のような気がする)。本書で扱われているトピックを部分的に抜き出して、しかも議論の濃度を薄めた上で紹介している本をこれまで何冊も読んできたが、面白いと思ったことは1度もない。
ちなみに、「脳のなかの幽霊」(Phantoms in the Brain)の「幽霊」は原題では「phantom」である。「phantom」と言えば、「オペラ座の怪人」(Phantom of the Opera)の「怪人」だ。何故「phantom」という語がタイトルに使われているのだろうとイブカしく思っていた(英単語phantomの意味は、「幽霊」「亡霊」「幻影」「幻」といったところのようだ)。実はこのタイトル、本文でたびたび言及されているサイラス・ワイアー・ミッチェルによる「幻肢」(phantom limb)という語を用いて、『機械の中の幽霊』(The Ghost in the Machine)(アーサー・ケストラー(著) 1967年)をモジッたものらしい(他のモジリ例としては、『攻殻機動隊』(士郎正宗(漫画) 1991年 講談社)の英題「Ghost in the Shell」があるようだ)。ただし、翻訳文では「幽霊」という語はほとんど使われておらず、代わりに「ゾンビ」という語が使われている(英単語として何が使われているのかはわからないが…。「ゾンビ」という語に関しては、クリック(「DNAの二重らせん構造」のワトソンとクリックの、あのクリック)が著者に提案したのだそうだ)。その「主体」をつい擬人化してしまいたくなるほど複雑で精巧な、意識にのぼらない脳の活動というものがあり、しかし、そんな「主体」は存在しないのだ、という意味合いを込めて、その主体を「phantom」と呼ぶのは理に適っていると思うが、「ゾンビ」はどうか…(著者は案外気に入っているように見えるが)。訳語と言えば、私の読んだ文庫版の初版では、普通「統合失調症」とされるところが全て「総合失調症」とされていた。単なるミスなのか、意図的なものなのかどうかはよくわからない。
本当に心の底から面白いと思える本と出会えることは稀だ。本書の続編にあたる『脳のなかの幽霊、ふたたび』(V. S. ラマチャンドラン(著) 山下篤子(訳) 2005年 角川書店)も是非読んでみたい(本書の2カ月遅れで文庫化されたようだ)。出会えた本に感謝。
本文395ページ程度(他に、謝辞、訳者あとがき、解説、註、引用・参考文献、等、85ページ程度)

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